第3話 あなたの知らない花の名を⑧
トマホークカフェ・館を後にした俺たちは、電車に揺られながら次の予定について話し合った。
といっても、残すところは下宿の備品の買い出しと夕飯だけだったため、消耗品の在庫状況や今何を食べたい気分かなど、ざっくばらんな打ち合わせだった。
ボディビル見学も斧投げ体験も楽しい時間ではあったが、デートコースとしては余りにも極端過ぎる場所だったため、正直ほっとした気持ちの方が大きい。総じてみずほ姉ちゃんに楽しんでもらうというよりは、俺一人が楽しんでいただけかもしれない。みずほ姉ちゃんは忖度してくれてはいるが、きっと他に喜んでくれそうな場所はあっただろう。しかしそんな反省を今したところでキリがない。ここでくよくよした顔を見せたらまた気を遣わせてしまう。デートはまだ終わっていないのに辛気臭いツラを見せて気を遣わせるのは彼氏失格というものだ。
「衣彦はもう他に寄りたいところない?」
「買い物のついでにちょっと見たいものあるからそこだけちょっと時間もらうかも」
「いいよ。何見るの?」
「サプライズだから秘密」
「サプライズって言っちゃってもいいんだ……」
その後も他愛ない会話を続けつつ、俺たちは最寄り駅の一つ前の駅で降りた。
運動がてら、いつもと違う街並みを散策することにしたのだ。
下宿から一駅離れたこの地域にも土地勘はあるものの、最後に来たのは遠い昔の話。子どもの頃にはあったゲームセンターも本屋も今や空き家やコンビニになっている。片や老舗のスーパーや飲食チェーン店は今でもしぶとく生き残っており、生活インフラの充実に比べて娯楽の場所は減った気がする。
今の子どもたちは遊ぶ場所がどんどん減って窮屈そうだなと感じた。そりゃあパソコンやスマホで娯楽の用は足りるかもしれないが、幼馴染みのみんなで自転車で旅して全然知らない場所の公園や海で遊んだときのワクワクした体験は電子機器では味わえない楽しさだった。その中には当然みずほ姉ちゃんもいて、俺たち男子のバカ騒ぎを俺の姉ちゃんと二人で楽しそうに見ていた記憶がある。それについてあまり懐かしさを感じないのは、今の下宿も似たような状況だからなのだろう。
そんなノスタルジックな感慨に耽っていると、視界の隅に見覚えのある建物があることに気付く。
「みずほ姉ちゃん、あれ見てあれ」
「どこ?」
「ほらあの、ハンバーグ美味かったとこ。憶えてない? 昔みずほ姉ちゃんと行った店」
「あ……」
俺が指さしたのは『ピノッキオ』という名前の洋食屋だった。
その店は通りの少し奥まった場所にあり、小さな看板と店構えは昔とほとんど変わらない姿で佇んでいた。その名の冠する通りの絵本をモチーフにしたような造形で、木製の壁のところどころに鼻の長い少年のレリーフがあしらわれている。ガラス戸に貼られたメニュー表の端は劣化で剥がれかけているものの、そこに書かれた手書きの文字も昔のまま。一方で各メニューの値段だけ上から書き換えられた形跡があり、物価だけは時代に追いついていた。立ち止まって様子を見ていると店内からソースを焦がしたような香ばしい匂いが漂ってきて、不意打ちのように空腹が刺激された。
「みずほ姉ちゃんも美味しいって言ってただろ? どう?」
「えっと……衣彦は行きたい?」
「あれ、みずほ姉ちゃんは行きたくない?」
「えっ!? いやそんなことないよ? 久しぶりだし、ここにしよ!」
質問を質問で返すと、みずほ姉ちゃんが慌てたようにそう答えた。
予想していた反応と違った。
みずほ姉ちゃんが外食すること自体が珍しいので、ここに来るというのはよっぽどここが気に入っているのかと思ったが。
「大丈夫? 俺に気遣って合わせてない? 今日結構無茶ぶりなところばっかだったし」
「全然! むしろ望むところだよ!」
両こぶしをぐっと握ってファイティングポーズをするみずほ姉ちゃん。一体何と戦っているのかは知る由もないが、俺が躊躇するとみずほ姉ちゃんは率先して店内に足を運び、先導を始めた。
「いらっしゃいませー! 何名様ですか?」
「二人なんですけど、待ちます?」
「えっと……そうですね、十分少々お待ちいただくかと思います」
「十分くらいだってさ。待つよね?」
店内に入り愛想の良い女性店員に出迎えられると、俺よりも先にみずほ姉ちゃんが答えていた。
外食はほぼしないはずなのにこの堂々とした受け答え。まぁ、みずほ姉ちゃんは昔から誰とでも仲良く喋れるしな……などと一人で納得することで、内心の『俺じゃ頼りないと思われているんじゃないか』という卑屈な自意識から目を背けた。我ながらしょうもない防衛本能だ。
「うん、待とう」
「待ちます」
「かしこまりました。そちらの椅子におかけになってお待ちください」
「はーい」
案内されたレジの前でしばらく待つ。店の中は思いのほかにぎやかだった。
満席に近い店内では絶えず人の話し声と談笑、厨房からは時おり油が弾ける軽快な音が聞こえてきた。
それなりに繫盛しているようで、待っている間に俺たちの後から二組ほどの客が外から店内の様子をうかがっていた。
昔は並ばずに入れた気がしたが、いつのまにか人気店になったのかもしれない。
「混んでるね」
「そうだね。お肉焼いてる匂いする……お腹空いてきたなぁ」
「みずほ姉ちゃん何食べたい? やっぱりハンバーグ?」
「え……どうして?」
「好きじゃなかった? ここ来たらそれ頼んでた気がしたけど」
「あ~……よく憶えてるね。でも、今日は別の食べたい気分かな」
「そっか。他のメニューも美味しそうだったもんな。何があったかな……」
スマホでこの店の評判を検索しながら、横目でみずほ姉ちゃんの様子をうかがう。
みずほ姉ちゃんもスマホを操作して誰かと連絡を取り合っているようだった。
さっきから何か思うところがあるようだが、今は改まって切り出すには抵抗がある。
「お待たせしました。二名でお待ちの伊藤様、こちらへどうぞ」
ややしばらくして、通路側の二人掛けの席に案内された。厨房に近い席で、肉やソースを焼いたときのような濃厚な香りが漂ってくるおかげで空腹感を刺激してきた。
みずほ姉ちゃんを上座の席に誘導してからテーブルに置かれたメニューを広げてみると、バラエティに富んだラインナップが並んでいた。カレー、ハンバーグ、パスタに揚げ物……どれも定番の洋食だ。腹が減ってきたので味の濃いものを食べたくなってきた。
「迷うな……日替わりのミックスフライって今日は何入ってるんだろ」
「エビフライとトンカツとカニクリームコロッケだってさ」
「あ、メニューに書いてたね」
逆さまだったから見えなかった。
「どれも美味しそうだね~」
「そうなんだよな。写真見たらビーフシチューも……いやダメだ。こういうときに優柔不断になるのは男らしくない」
「男らしさ関係ある?」
「あるある、決断力は大事だよ。みずほ姉ちゃんは何か決めた?」
「私も迷い中」
「写真で見たらハンバーグ気になるな……ビーフシチューも美味そうだけど」
「……ハンバーグにしたら? 食べたいんでしょ?」
「食べたい。けどほかのも気になる」
「じゃあ私ビーフシチューにするから、衣彦にも分けてあげる」
「え、いいの?」
「いいよ。食べな」
「やった。ありがと」
俺はお言葉に甘えることにして、先ほどの店員を呼んでハンバーグとビーフシチューを頼んだ。
大学生くらいのその店員は俺たちの注文を終えると空いたテーブルの食器を下げて厨房へ戻り、注文を伝えたあとに手際よく各テーブルを整えている。あとは客の案内、レジの清算、仕込みの手伝いや掃除が主な業務といったところか。これで時給はいくらなのだろう。俺もバイト考えなきゃなとぼんやり考えていると、みずほ姉ちゃんが何やら神妙な面持ちでスマホとにらめっこしていることに気付く。下宿の仕事のことを考えているのかもしれない。同世代の女子が時間制のバイトをしながら学校生活を楽しんでいる傍ら、みずほ姉ちゃんは起きている時間のほとんどを下宿の仕事や勉強などのタスクに費やしているのだ。
そんな生活をしていたら、本来のんびり遊んでる暇なんて──まして恋愛なんて、もってのほかだろう。
俺は、果たしてみずほ姉ちゃんの彼氏役に相応しい振る舞いができているだろうか。
ハニカム計画という聞こえの良い疑似恋愛の中で、今までずっと姉弟のように接してきたみずほ姉ちゃんが俺を異性として意識するのはある意味他の誰よりも難しいかもしれないが……少しでも、そういう楽しみを見出すことができれば良いと思う。
高校生になった今となっては、今さらみずほ姉ちゃんの手を握ることだってハードルが高いが。
「あ、ごめん。今ちょっと帰ったらやることメモしてて」
無意識にじっと見ていると、みずほ姉ちゃんが俺の視線に気付いたようだ。
「いいよ気にしないで。今さらだけど、マニキュア可愛いなって思って見てただけ」
「えっ、そう? えへへ。これね、潤花がやってくれたの」
「斧投げるとき邪魔じゃなかった?」
「私もそれ忘れてて心配してたんだけど、意外と大丈夫だった」
みずほ姉ちゃんはそう言って嬉しそうに微笑み、グラデーションが入ったピンクのネイルを見せてきた。猫の手のポーズがすこぶる可愛い。
こういう朗らかな人柄が周りから愛される所以だろう。
苦労することはあっても、その分みずほ姉ちゃんには味方をしてくれる人がたくさんいる。それだけでも安心というものだ。
そんな他愛のない雑談を続けているうちに、注文した料理が運ばれてきた。
鉄板に乗せられたハンバーグがジュウジュウと小気味良い音を奏でている。
一方でみずほ姉ちゃんの手元に置かれた艶々と輝くビーフシチューも実に食欲をそそった。
『いただきます』
同時に手を合わせて声がハモった。みずほ姉ちゃんも同じことを思ったのか嬉しそうに目を弓なりに細めた。
「熱っ……あっつ……!」
「ほらー、ちゃんと冷まさないから」
ビーフシチューを一口食べてから、みずほ姉ちゃんが慌てて水を口に含んだ。無理もない。まだ器から湯気が立ち上っているくらいだ。顔をしかめるみずほ姉ちゃんをたしなめつつ、俺も切り分けたハンバーグを口に運ぶ。
「熱゛っ!!」
「衣彦大丈夫!? 水飲む!?」
「ん゛っ!」
俺はとっさにみずほ姉ちゃんに手渡されたコップを受け取り、慌てて水を喉に流し込む。
焼き付くような熱で舌が燃えそうだった。ヒリヒリとした舌先が痺れるように痛む。
さすがにまだ痛……あれ? このコップ、俺のじゃない。みずほ姉ちゃんのだ。
「あ、ごめん。癖で」
「んっ……大丈夫。ありがと」
今さら間接キスひとつで動揺しない……なんてことは全然ない。心臓がバクバク動いていて顔が熱い。
そういえば俺、子どもの頃から当たり前のようにみずほ姉ちゃんから食べ物を恵んでもらって今まで何の抵抗もなかったな……うっかり下宿でやってしまったら今頃何を言われてたか。
みずほ姉ちゃんは気にしていないのかとさりげなく様子をうかがうも、湯気の立ったビーフシチューを冷ますのに集中しているようで、まるで俺のことなんか意識していなかった。安心したような、むなしいような、複雑な気分。
「ん……」
気を取り直してハンバーグを口に運び、よく咀嚼する。
肉汁が染み出てきて噛むほど美味い。
口の中に旨味が染み渡っていく。
だが、
「…………?」
感動がない。
昔感じたはずの驚き、期待を超えた味わいが感じられない。
味付けが変わった?
いや、そんなことはないと思う。
これはむしろ……
「……美味しい?」
「うん。美味いんだけど、なんか──」
「実況見分の立ち会い!?」
突然、厨房から大声が響き会話が遮られた。
何事かと厨房の方を見ると、女性店員とシェフらしき女性が慌ただしい会話をしていた。
「あの子、おばあちゃん二人とも死んだって言ってなかった!?」
「それが、お母さんの再婚相手の母親だそうですよ」
「それもう他人じゃん!? ねぇ、それもう他人じゃない!?」
「『家族だから』の一点張りでしたね」
「も~! あたしだって飼ってる猫死んでも忌引き認められないのに! 何オレオレ詐欺って! 誰か撲滅してよ!! ──斉藤ちゃんこれ、五番卓に! 食後にコーヒーも!」
「はい!」
三人分のプレートを器用に運びながら、店員──斉藤ちゃんが速足で俺の後ろを通り過ぎていく。
しばらく耳をそばだてていた俺とみずほ姉ちゃんは声のトーンを落として会話を再開した。
「なんか……大変そうだね」
「ツッコミどころ満載だけど、バイトにバックれられたみたいだな」
「オレオレ詐欺とか、大丈夫かなぁ。またお客さん入ってきた」
「いらっしゃいませー! ご案内しますので少々お待ちください!」
いつのまにか満席になり、さらに二組の家族が入店してきた。これはいよいよ客の回転が追い付かなくなりそうだ。
厨房の様子が気になって視線を戻すと、シェフは苦虫を嚙んだような顔をしていた。
カンカンガチャガチャと調理器具の金属音がいっそう強くなる。
「斉藤ちゃん、今日って延長できない日!?」
「すいません。今日、彼氏と一週間記念日祝わなきゃいけなくて……」
「そっかぁ、それじゃあしょうがな──えっ!? 待っ……一週間……!? い、いやわかった! 大事だもんね、記念日! 一週間! スーッ……とりあえずあの二組は案内してきて。時間かかるって」
「はいっ」
あのバイト、仕事の要領は良いのかもしれないが、男の趣味は悪いようだ。
「可哀想……」
「まったくだ。斉藤ちゃんは今すぐその彼氏と別れた方がいい」
「そっち!?」
「だってたった一週間で記念日だよ!? 絶対そいつめんどくせーよ! 自己肯定感が低くて猜疑心の強いコンプレックスの塊! 彼女のこと承認欲求を満たすための道具か何かと勘違いしてるんじゃねーの!?」
「わー! ちょっと衣彦、声おっきい……! 二人で納得してるんだったら別にいいでしょ……!?」
「いーやあの顔は彼女全然乗り気じゃなかったね! 別に記念日を大切にするのは良いことだよ? でもさ、週一だぜ? そんな海軍のカレーみたいな頻度で毎週毎週記念日だなんだって、カレンダーでビンゴでもする気なんですかね? 記念日よりもそいつの頭の中の方がよっぽどめでたいと思いますよ僕ぁ!」
「衣彦! あーん!」
「ん」
目の前にスプーンを突き付けられ、反射的にパクッと食らいつく。
柔らかい牛肉の弾力とデミグラスソースの濃厚な旨味が堪らない味わいだ。
果実が弾けるような感動がその一口にはあった。
「うまっ! これ美味いな!」
「でしょ!? もう一口食べる!?」
「食べる!」
あまりの美味さに語彙力が死んだ。
わずか数秒の間に自分が何に苛立っていたのか思い出せないくらいだ。
俺は黙々と口に運ばれるビーフシチューと残りのハンバーグを育餌付けされる雛鳥のようにペロリと平らげた。IQが3になった気がする。
「いやー美味かった。食ったね。みずほ姉ちゃん、本当に足りた?」
「うん。お腹いっぱい」
みずほ姉ちゃんはほっとしたように眉を下げた。良かった、まるで台風が過ぎ去ったかのように安堵した表情だ。
お腹をさすりながら、みずほ姉ちゃんはチラリと厨房の方を見る。
「斉藤ちゃんもういいから! 時間だから上がりな!」
「でも、店長大丈夫ですか……?」
「全然大丈夫じゃないけど、どうにかする!」
火柱が上がる鉄鍋を華麗な手さばきで振るいながら、店長はウェイトレスに終業を促す。
状況としては店内がほぼ満席で、すでに料理が提供されている客が六割。入り口の前ではカップルと四人家族の二組が並んで待っている。二席ほどテーブルに食べ終わった食器が残ったままなので、それを片付ければ案内はできる。
問題は、従業員の姿は他に見当たらないことだ。
どうやら店長はワンオペでここを回す覚悟らしい。どう考えたって無理だ。客入りを制限するか、提供に時間がかかる了承を得て回らないととても一人じゃ対応しきれない。
「…………」
気が付くと、みずほ姉ちゃんも店内の様子をうかがっていた。
「みずほ姉ちゃん、正直に言って欲しいんだけどさ」
「何?」
「『手伝いたいな』って思ってる?」
「えっ!? お、思って──」
俺は黙って続きの言葉を待つ。
「……る。思ってる」
「だよね」
「お節介なのはわかってるんだけど」
「ここのお店、昔お世話になったから……何かできればいいなって」
「そっか」
みずほ姉ちゃんは俺の顔色をうかがうように俺を上目遣いで見てきた。
『ダメかな?』と控えめに訴える眼差しだ。
「彼氏としてどう答えるのが正解か全然わかんないけど」
俺の中で答えはとっくに決まっている。
「俺も手伝うよ」
「いいの……?」
「こういうとき、龍兄たちなら迷わずそうしてるしね。でも、ごめん」
「何が?」
「あんまりデートっぽくないよね、これじゃあ」
「今さら!?」
みずほ姉ちゃんは噴き出して笑った。
厨房内は湿度を帯びた熱気が充満していた。
鉄板の上で跳ねる油の音、寸胴鍋のぐつぐつとした低い沸騰音、皿を重ねる陶器の乾いた響きが絶え間なく聞こえる。
その喧噪の中、俺たちは両腕いっぱいに空いた食器を抱えてシンク横のスペースに置いた。
その様子に気付いてか、店長の女性は私服でキッチンに入ってきた俺たちを見てぎょっとした顔をした。
「すいません、大変そうだったんで勝手に食器下げてきちゃいました! テーブルも拭いておきますね!」
間髪入れずみずほ姉ちゃんが声を張るみずほ姉ちゃん。こんな状況であっても相手に警戒心を与えない人柄は頼もしいの一言に尽きる。
「えっ!? えっ!? あの、すみません! ほんと、そのままにしといて大丈夫なんで!」
「店長、この子たち仕事手伝ってくれるみたいなんですけど……」
「ダメに決まってるでしょ! お客さんに手伝ってもらうなんてとんでもない!」
店長は俺たちと話しながらも調理の手を休めなかった。フライパンの上で焼かれたハンバーグから油が弾け、熱気が頬を撫でる。
白い煙が立ちのぼり、焦げた脂の香りが一層濃くなっていた。
「あの、私昔このお店に来てて、すごく良くしてくれたの嬉しかったから……何か手伝いたくて……!」
「あれっ? もしかして、私と話したことある?」
「そうです! 覚えてますか!?」
「あー! うん、思い出した!」
「私下宿で働いてて、毎食5人分のご飯作ってるから、できることがあれば手伝います。下ごしらえでも雑用でも、何でもやれます」
「自分も、皿洗いやお客さん対応ならできます。あとはレジの打ち方さえ教えていただければ」
「えぇ……いや、二人とも気持ちはありがたいんだけど、それはさすがに……斉藤ちゃん、今日本当に延長ダメ?」
「一週間記念──」
「オーケーわかった! 斉藤ちゃん二人にレジ教えてから上がって! 二人とも、無理しなくても全然いいから、ちょっとだけお手伝いお願いします!」
「はいっ、がんばります!」
「じゃあ、あなたには私の助手もやってもらおうかなー。可愛い子ちゃん、名前は?」
「伊藤みずほです。こっちは古賀衣彦」
「店長、『可愛い子ちゃん』は死語じゃないですか?」
「うるせぇー! さっさとレジ教えて帰れぇ!!」
私語さえなければ良い店なんだけどな。
かくして俺たちはデートの最中、飛び込みで洋食屋の仕事を手伝うこととなる。
ウェイトレスの斉藤さんに最低限の引継ぎを教えてもらい、店の制服に着替え、厨房とホールに立つ。
一度制服に袖を通した以上は俺たちはもう客じゃなく、責任を持った店員だ。
みずほ姉ちゃんと二人で無言でアイコンタクトを交わし、いよいよ本番に臨む時間がやってきた。
「オーダー、キノコとほうれん草のカルボナーラ、エビクリームドリア、それと食後にマスカルポーネのチーズケーキ!」
「古賀くん、今のオーダーでエビクリームドリアはラストね! エビもうないから!」
「了解です!」
「みずほちゃん、カルボナーラお願いできる!?」
「はいっ」
「じゃあこのパスタ、塩ふたつまみ入れて八分茹でてから、その間にベーコンとニンニク炒めて! 鍋は食洗器の中に洗い終わったやつあるから! フライパンはこれ使って!」
「はい! カルボナーラのソースって、仕込みのやつありますか?」
「冷蔵庫のバットにある! ほうれん草入ったタッパーも、見ればすぐにわかるから! オリーブオイルはここ置いとくね!」
「わかりました!」
キッチンは戦場とはよく言ったもので、生の現場で働くシェフの気迫は相当なものだった。
店長はみずほ姉ちゃんに的確な指示を出しながら、その間一切手は休めていない。
火柱を上げて躍るフライパンからは香ばしいエビの香り。その傍らにあるフライヤーからはきつね色のミックスフライがカラカラと小気味良い音を奏でており、みずほ姉ちゃんに指示を出しながら揚げ物の管理も行っているようだった。繫忙時に不慣れな新人二人の指導もしなければならない状況でさえ、少しも苛立つ様子を見せないのは料理の腕前のみならず人格面においてもかなりプロだと思った。
俺もそこそこに忙しい。
溜まっていた洗い物を次々と食洗器にぶち込みながら、しつこい汚れは手で洗う。並行して、一人でホールも行き来する。
食べ終わった食器を下げて回り、空いたテーブルの清掃を終えたと思った頃には次の客がやってくる。そして、そのタイミングで会計待ちのレジが並ぶためになかなかスムーズに店を回せない。
とはいえ、飛び入りにしては我ながらよくやっている。
通っていた空手道場のパワハラ懇親会での雑務を押し付けられたクソな思い出がこんなところで役に立つとは思わなんだ。
みずほ姉ちゃんはどうだろうか。
「みずほちゃんハンバーグのタネできた?」
「こんな感じで良いですか?」
「んっ!?」
「えっ……!? どこかおかしかったですか?」
「いや、良いの。すごく良くできてるからビックリしたの。みずほちゃん、これ残り二つ、そのままお願いしてもいい?」
「はい! あ、あと、それと……」
「何?」
「確認なんですけど、塩こしょうとかって、いつもどれくらい入れてますか……?」
「多分だけど、みずほちゃんの思ってる通りの味付けでいいと思うよ」
「えっと、でも……」
「良いの、味見は私が責任持ってするから。あとはみずほちゃんの気持ち! あなたが美味しく食べて欲しいって思ってたら、本当に美味しいもの作れるようになるから、大丈夫!」
「っ! はい!」
パシッ、パシッ、パシッ……と、軽快なリズムを刻みながら、タネの空気抜きが再開する。
いつのまにか、あれだけ事細かに指示を出していたはずの店長が無言になっていた。
「…………」
ホールの仕事の合間も、厨房でせわしなく働いているみずほ姉ちゃんを目で追ってしまう。
顔つきは真剣そのもので、年齢や経験の差を感じさせない手つきで次々と料理を完成させていくみずほ姉ちゃん。
身内びいきを差し引いても、その集中した姿はプロと並び立っても遜色のない貫禄があった。
尊敬の念が湧いてくる。
考えてみれば、みずほ姉ちゃんはずっと、伊藤下宿の台所に立ち続けてきたんだった。
俺は今まで、みずほ姉ちゃんの何を見てきたのだろう。
子どもの頃から純粋で、優しくて。そのせいか、嫉妬や悪意の標的にされやすくて。
そんなみずほ姉ちゃんは俺たちが守る。みんなから守られるべき存在。
勝手に、そう決めつけていた。
「衣彦、大丈夫!?」
感情が顔に出ていたのか、料理を受け取ったタイミングでみずほ姉ちゃんが声をかけてくれた。
メニューが多すぎて注文やレジでもたつくし、QRコード決済の機器の読み込みが悪過ぎてお客さんを待たせたりもしている。
本来ならここでその状況を報告するのが適切なのだろう。
しかし、それをしてしまうと、二人のどちらかが俺の指導のために割くリソースで店の回転が止まりかねない。
「大丈夫! 出来たらじゃんじゃん持ってきて!」
「わかった!」
「それと、さっき会計した四人家族の人たちが言ってたんだけど」
「えっ……なんて?」
「ハンバーグ、美味しかったってさ!」
「っ……!」
「がんばって!」
「うんっ! がんばる!」
俺はピースサインを向けて、すぐにホールへと戻った。
みずほ姉ちゃんだって初めての場所に立って挑戦しているんだ。不安になんかさせない。
料理の提供を終え、俺はレジ横に置いてあったメモをちぎってうろ憶えだったメニューとレジの操作方法を簡略化して殴り書きをする。
手間取った作業や忘れがちな操作方法をレジ周りにベタベタとテープ留めして、つまづいてもすぐに対応できるためにだ。
もっと効率的な方法はあるのかもしれないが、今思いつく限りはこれが関の山だ。
「いらっしゃいませ!」
一秒でも良い。少しでも早く、彼女の助けになるために。
やがて、店から最後のお客さんが去った。
閉店はいつもの時間よりも早いが、人が足りない以上早めに切り上げるという店長の判断だった。
「二人ともお疲れさま。助かったよ~。これバイト代。少ないけど」
「えー! いやいや悪いです! 私たちが勝手に押し掛けただけなんで!」
「いやほんと、ご飯代タダにしてくれただけでもありがたいんで、そこまではちょっと……」
「いいっていいって。これで二人ともまたうちの店来てくれたらそれでチャラだよ。とにかくはい、もらって」
半ば押し付けられるような形で茶封筒が押し付けられる。
俺とみずほ姉ちゃんは目を合せて苦笑いしつつ店長にお礼を言った。
「ねぇみずほちゃん? だっけ。あなたうちで働かない?」
「えぇ!? いやいや、私なんかもう全然……! 気持ちはありがたいんですけど、もう下宿の仕事でいっぱいいっぱいで……」
「すみません店長。彼女がいないとうちの下宿、食卓に稗と粟しかなくなるので」
「ちょっと! 稗と粟しかない下宿みたいに言わないで!」
「あはははっ。そうだよね~。みずほちゃんいなくなったら困るよね。こんなに良い子をこのまま放っておけないから、つい誘っちゃった」
「あ、ありがとうございます」
「ねぇ、あのハンバーグ。誰かに作り方教えてもらった? あれ焼き加減までちゃんとわかってたよね?」
「えっと、ほぼ見よう見まねなんですけど、昔来たときに店長さんから少しコツ教えてもらったことがあったんです」
「あたし!? そっか、なんとなくみずほちゃんの記憶はあったけど、そんな話してたんだ……にしても、たった一回教えただけであそこまで再現できるのはすごいよ」
「いえ、一回じゃないんで……」
「そうなの?」
「お店に初めて来たとき……ここのハンバーグのこと……“美味しい”って言ってたから……」
「あっ……そういう……そういうこと、だからかぁ」
みずほ姉ちゃんの言葉に深く頷きながら、店長は俺の方をチラリと見てきた。みずほ姉ちゃんは慌てた様子でバタバタと腕を振り、店長の視線を遮っている。何をしてるんだ。
「え、みずほ姉ちゃん龍兄か誰かとここに来たことあるの?」
「なんでもない! 衣彦には秘密!」
「え~、何でだよ。別にいいじゃん」
みずほ姉ちゃんが何をそんなに言い淀むことがあるのか不思議に思っていると、さっきまで和やかに談笑していたはずの店長から殺気のこもった視線が向けられた。
何だ? 俺また何かやっちゃいました?




