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第3話 あなたの知らない花の名を⑨


 キィ、コォ。キィ、コォ。

 鎖の軋む音が一定のリズムを刻みながら公園の片隅に響く。

 あたりはすっかり暗くなっていた。

 先ほどまで遊んでいた子どもたちの喧騒は少しずつ遠のき、残されたのはブランコに並んで座る俺たちだけになった。

 西の空には沈みかけた夕日が半円を描いて辺りを橙色に染め、木々の幹や長い影を落としている。昼と夜の境界が曖昧になりつつあるこの公園は、俺たちが子どもの頃によく遊んでいた公園だ。

『最後に、少し寄り道してもいい?』。

 気まぐれと運任せで歩んできたデートの行きついた先は、みずほ姉ちゃんの一言で訪れたこの場所だった。


「今日はごめんね。私のわがままに付き合わせて」


「全然。っていうか、楽しかったよ」


「ほんとに? 気遣ってない?」


「本当だよ。厨房に立ってるときのみずほ姉ちゃん、めちゃくちゃかっこ良かった」


「えー? いつも通りだったよ?」


「いや、当たり前といえばそうだけど、みずほ姉ちゃんすごい真剣だったから。なんか職人って感じのオーラ出てて、あのときが一番活き活きしてた気がする」


「そうなんだ……いろいろ必死だったから、あんまり実感ないなぁ」


「店長も助かったって言ってくれたし、みずほ姉ちゃんのこと褒めてただろ。すごいじゃんあんな人気店のシェフに認められるなんて」


「うん……それはありがたいけど」


「嬉しくない?」


「ううん。ただ、どちらかといえば、私が作った料理を美味しいって食べてくれたことの方が嬉しかったな」


「あー……そっか。確かに、みずほ姉ちゃんはそうだよね」


「うん。私、誰かのために働くのが好きなんだと思う」


 みずほ姉ちゃんはブランコに揺られながら手元のエコバックを大事そうに抱いた。その中には、先ほどの買い物で買った伊藤下宿の備品や食材が詰まっていた。ほんの少し、みずほ姉ちゃんの吐く息が白かった。

 

「衣彦、私が料理始めたきっかけって何だと思う?」


「? おばさんの手伝いしたかったから?」


「それもそうだけど、思い出したの。それよりも前にきっかけがあったこと」


 上機嫌に言うと、みずほ姉ちゃんは砂場の方を指さした。

 そこは動物避けのフェンスで周囲をぐるりと囲まれた砂場だった。砂場は六角形の縁で仕切られていて、その中央には誰かが作ったバケツ型の城や、プラスチックのスコップなどが残されている。


「あそこ。あの砂場で衣彦と遊んだままごとがきっかけだったんだよ」 


「全然覚えてないな……そんなことあった?」


「うん。衣彦がね、私が作った泥団子を『美味しい』って言って食べたの」


「飢饉の時代の話?」


「違うよ! 私のためなの! 衣彦、私がガッカリしないようにって我慢して食べてたの!」


「それ本当に俺? キャプテンじゃなくて?」


「衣彦だよ。だから私、ちゃんとした料理作れるようになって、衣彦に食べさせてあげたいって思ったんだもん。間違いないよ」


「みずほ姉ちゃんが言うなら、そうなのかな……認めたくないけど」


「そういうところ、昔から変わってないよね」


「どういうところだよ」


「どういうところでしょ~?」


 みずほ姉ちゃんが嬉しそうにそう言ってから、俺の前髪を手ですくった。

 いきなり何をするのかと思ったら、俺の額の傷を見ていることに気付いた。

 そういえばこの傷も、あの砂場で喧嘩してできた。

 何も言わないみずほ姉ちゃんと見つめ合う。少しこそばゆい思いに駆られ始めたとき、すぐ近くの街灯が灯った。

 チカチカと点滅の間隔が少しずつ短くなっていく灯りはしばらく揺らめくように瞬き、やがて淡い円を描いて辺りを照らす。続いて近くの街灯にも、間隔を置いて同じように灯りが生まれている。それを皮切りに、街灯の光がまるで合図を送ったかのように、街路樹の並びに沿って順番に立ち上がっていった。

 世界が橙から群青に染まりつつあった。


「……すっかり遅くなっちゃったね」


「そろそろ帰ろっか」


「うん」

 

 荷物を片手に下げ、ゆっくりと立ち上がるみずほ姉ちゃん。

 これで、初めてのデートが終わる。

 本当にこれで良いのか?

 胸の奥につかえたわだかまりが、俺にそう問いかける。

 やり残したことはないか? 今日の俺は、彼氏としてちゃんとできていたか?

 このまま帰ったら、みずほ姉ちゃんと二人きりで過ごせる時間はまたしばらくない。

 みずほ姉ちゃんの本音を聞けるのは、今が最後のチャンスだ。

 俺はブランコから立ち上がったまま、未だに踏み出せずにいたことへの覚悟を決める。


「衣彦? どうしたの?」


「みずほ姉ちゃん、手出して」


「手? はい」


「ちょっとそのままでいて」


 言うが早いが、俺はみずほ姉ちゃんの差し出してきた腕にぶら下がったエコバックを取って自分の腕に通し、その後すぐに両手でみずほ姉ちゃんの手を包みこんだ。


「ちょ──っ!? き、衣彦……!?」


 みずほ姉ちゃんは耳まで顔を真っ赤にして狼狽した。

 俺はその隙にみずほ姉ちゃんの右手を四本指で掴み、自分の親指でみずほ姉ちゃんの親指をぎゅっと押さえた。


「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10、はい俺の勝ち」


「…………え?」


「……一応、今のが勝負兼、ハニカム計画のスキンシップ的なやつってことで」


「え!? 待って待って!? いきなりずるくない!?」


「じゃあ勝者の俺から一個命令」


「罰ゲーム付きなのもっとずるくない!?」


「じゃあ、罰ゲームじゃなくてお願い」


「何? 何なの……?」


「もし……俺がみずほ姉ちゃんに嫌なことしたら、遠慮なく嫌って言って欲しい」


「……!」


 言えないことはある。いくら仲が良くたって。

 

「ハニカム計画……ってなんか口に出すのも恥ずかしいけど、それで一応、俺たち付き合うことになっただろ? だから俺たち、今まで通りだけど、今まで通りじゃいられない部分もできたと思うんだよ」


 仲が良いからこそ言えないことだって、きっとある。

 いつだって味方だったから、それに甘えていたんだ。


「子供の頃から本当の姉弟みたいに育って、少し会えないときもあったけどまたこうして一緒に暮らして……それが、いきなり恋人になってさ。一言じゃ言い現わせられない関係になったから……実は今日ずっと、変に緊張してたんだ。俺」

 

「衣彦……」

 

 本当はこうやってちゃんと、真面目に話し合うべきだった。

 彼女に振られたときだって、みずほ姉ちゃんは俺の愚痴を嫌な顔ひとつしないで聞いてくれた。

 自分の方がおばさんが亡くなって大変だったのに、親身になって励まし続けてくれた。

 子どもの頃からずっと俺の味方でいてくれたみずほ姉ちゃんに甘えてばかりで、嫌われるのが怖かった。

 そんな臆病風に吹かれたせいで、みずほ姉ちゃんと向き合うのが怖かったんだ。


「みずほ姉ちゃんは優しいから、きっと俺がみずほ姉ちゃんの意にそぐわないことをしたり、間違ったをことしても強く言えないと思うんだ。でも、それだとみずほ姉ちゃんが我慢したまま、もやもやした気持ちを抱えたまま学校や下宿で俺たちと過ごすことになるから……そんな負担を、俺はみずほ姉ちゃんにかけたくないんだ」


 だからこそ、俺はもうこれ以上みずほ姉ちゃんに依存するわけにはいかない。

 俺がもし人道に背く行為に手を染めたとしても、みずほ姉ちゃんは決して俺を否定しないだろう。だが、そんなのは対等な関係なんかじゃない。どんなに親しくたって、お互いにダメなところはダメとはっきり言うべきだ。

 今まで通りの関係だって、見直していかなければならないだろう。

 この先も大切な人一緒にいられるように。少しでも長くいられるように。


「だから、その……」


「衣彦」


 みずほ姉ちゃんはそっと目を細めて、俺の手を握り返してきた。

 そして、


「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10!!」

 

「え……!」


 今度は俺の方があっけに取られる番だった。

 みずほ姉ちゃんは両手で俺の手を力いっぱい握り締めて、親指を抑え込んできたのだ。


「私の勝ち! 命令! そのお願い、無効!」


「えぇ……」


 勝名乗りからの命令がシームレスだった。


「私はずっと嫌なことは嫌って衣彦に言ってきたし、衣彦が私に嫌なことをしたのは今までだって──ハニカム計画が始まった今も一度もない! だから無効!」


 えっへんとしたり顔で、みずほ姉ちゃんは勝ち名乗りを上げた。

 そんなの有りかよ。そう反論したがったが、そもそも自分が仕掛けた理不尽な要求を突き返されただけなのでぐうの音も出ない。


「言っておくけど私、嫌々ハニカム計画に参加したわけじゃないからね」


「マジ?」


「マジだよ。もしかして衣彦、ずっとそのこと気にしてたの?」


「うん……ちょっと」


「も~! そんなこと気にしなくていいのに!」 


 そうなのか……みずほ姉ちゃん、俺と付き合うのって嫌じゃない程度には俺のことを男として見てくれているのか。

 散々気を揉んでいた懸念が杞憂に終わり、俺はほっと胸を撫でおろすと同時に、気恥ずかしさが湧いてきた。


「私ね、今日嬉しかったんだよ? 衣彦が私に歩幅合わせてくれたり、車道側歩いてくれたり、ドア抑えててくれたり……子どもの頃にはそんなことしなかったのに、いつのまにかそんな気遣いできるようになったんだって」


「それは龍兄やキャプテンがやってたこと真似しただけだから、そういうんじゃ……」


「そうだったとしても、私が嬉しかったのは、それをしてくれたのが衣彦だったからだよ」


 間髪入れず、みずほ姉ちゃんはむっとした表情で俺を睨んだ。


「いい? 今日のデートは誰がなんと言おうと百点満点。すっごく楽しかったんだから。それを否定するなんて、いくら衣彦だって“嫌”だよ?」


 そう言ってみずほ姉ちゃんは恨めしそうに俺を見る。

 本気で怒っているわけじゃない。みずほ姉ちゃんは純粋に楽しんでいたのに、俺が勝手に不安になって、それに水を差すような心配をしてしまったからだろう。


「……わかったよ」


「わかれば良し」 


 むくれた表情がすぐに満足そうな笑顔に変わった。

 何やら迷走しているかと思えば急に元気になったり、大人びた一面や子どもっぽいところもあったり。本当に表情豊かだ。


「私だって、良く見られたくて空回りいっぱいするし、子どもっぽいところだってたくさんあるのは変わってないから、衣彦と同じで背伸びしてるんだよ。それはお互いさまなんだし、気にすることないからね?」


 そう言ってみずほ姉ちゃんは目を細め、そっと手を離した。

 その慈しむような眼差し、思いやりに思わずドキッとする。

 こんな表情、初めて見た。

 いや、もしかしたら今まで気付かなかっただけかもしれない。

 俺たちは、お互いのすべてを知った気でいたんだ。

 幼馴染みの関係から恋人という立場になり、今まで意識していなかったいろんな側面が見えてきたことで、自分が実は相手のことを何も知らなかったんじゃないかという不安から生まれた焦りと混乱が、俺たちをボディビルとトマホークカフェへと駆り立てたのだ。最後にみずほ姉ちゃんが自らの意思でこの公園に寄ろうと言ったのは、お互いに背負うものが何もなかった頃の思い出の場所に立ち戻って、俺たちの関係性の見つめ直したかったからなのかもしれない。

 いつのまにか、心の中にあったうつろな不安感は無くなっていた。

 代わりに、繋いでいた手の温もりが名残り惜しくなった。


「本当、俺が何かやらかしたらトマホークで頭かち割ってくれて構わないから」


「『人に向けて投げないでください』って言われたでしょ」


 俺たちは歩き出し、公園を後にした。

 閑静な住宅街を二人で歩きながら、俺たちは今度こそ何の気負いもなく、下宿や学校についての他愛のない話をした。

 アスファルトをコツコツ鳴らす二人分の足音。ときどき手の当たる距離。彼氏として自分から手を繋ぐべきかどうか一瞬迷ったが、それはしなかった。今になってもなお俺は、この居心地の良い距離感を崩したくはなかった。

 俺たちのままごとはまだ始まったばかりだ。

 この先はきっと、長い。


「ちょっと変わったデートだったけど、今日は子供の頃みたいに衣彦と遊べて楽しかったよ。これもきっと、ハニカム計画のおかげかな」


「別にそんなの関係なく、遊びたくなったらまた遊ぼうよ」


「……衣彦のためなんだから、私とばっかりじゃなくて、他の子とも遊んで勉強しなくちゃダメだよ」


「って言われてもな……改めてそう言われると、俺のやってること相当クズな気がする」


「私、考えたんだけどね……もしかしたら、それがあの子たちのためにもなるかもしれないって思ったの」


「えっ! いや、ダメだろ! マッチョ見過ぎて脳みそ筋肉にでもなった!? 」


「根本的には良くないよ? 良くないけど、ほら……あの子たち、普通の恋愛って、なかなか難しい性格だと思わない?」


「無理だね。まず無理」


「だから、きっと男子との付き合い方も、衣彦と仲良くなることで上手くなっていくんだろうなって思うの」


「それは俺にとって都合良過ぎる解釈だな。あんまり俺のこと甘やかさない方が良いよ。すぐ調子に乗るから」


「大丈夫。そのときは私が衣彦の手綱握るもん」


 えへへ、とみずほ姉ちゃんははにかむように笑った。


「信じてよ。どんな関係でも、私たちは私たちなんだって。どこで何をしても絶対に楽しいって……今日、確信したもん」


 みずほ姉ちゃんは俺の少し先を歩き、振り返った。


「これからもたくさん遊んで、楽しい思い出いっぱい作ろうねっ!」


 街灯の光がみずほ姉ちゃんを照らしていた。

 もし、みずほ姉ちゃんに本当の恋人ができたとして、この笑顔を毎日見られるとしたら──そいつはきっと、天下無敵の幸せ者だろう。




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