表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 森村征爾
8/19

第七話 回覧板

翌朝、玄関の戸を叩く音で目が覚めた。

ドンドン、と遠慮のない音だった。

まだ眠気の残る頭で戸を開けると、近所の老人が立っていた。名前も知らない老婆だ。


「回覧板」

それだけ言って、板ばさみのような古びたファイルを差し出してくる。


「あ、どうも……」

受け取ると、老婆は私の顔をじっと見たまま動かない。


「……何か?」

「読み終わったら、今日中に隣へ」

低い声でそう言い残し、踵を返して去っていった。

扉を閉めたあとも、しばらく気配が残っている気がした。

机に置き、回覧板を開く。

中には自治会費の報告、港の清掃日程、農具倉庫の鍵管理についての連絡。いつもの事務的な内容が続く。

だが最後の一枚で手が止まった。



地区住民各位

最近、一部住民による風紀の乱れ、生活規律の低下が見受けられます。

島の伝統と秩序を守るため、各自今一度、身なり・言動・交際・生活態度を見直してください。

特に、外部から来られた方々には地域慣習への理解を求めます。

なお、問題行動を見かけた場合は、区長までご一報ください。




文面は丁寧だった。

だが、妙に生々しかった。

誰のことを指しているのか、名前は一切書かれていない。

それでも分かった。

若い夫婦のことだ。

そして、あの妻のことだ。

昨日病院へ運ばれたことが、もう島中に知れ渡っている。

いや、それだけではない。

“風紀”“身なり”“交際”。

そこまで書く必要があるのか。

まるで個人を責めるために、わざと曖昧な言葉を選んでいるようだった。

回覧板の末尾には、小さくこう記されていた。


文責 地区相談役一同

   相談役。


あの壇上の三人の顔が浮かぶ。

ぞっとして、回覧板を閉じた。

昼前、隣家へ回覧板を持っていく。

呼び鈴を押すと、すぐに中年女性が出てきた。


「はいはい、ご苦労さん」

回覧板を渡すと、女性はその場で最後のページだけ開いた。

目を通し、鼻で笑う。

「最近の若いもんは、打たれ弱いからねえ」

何の話か、とは聞けなかった。

女性はさらに声を潜めた。


「昨日の奥さんでしょ? 病院連れてったん、あんたなんでしょ?」

背中が固まった。


「……なんでそれを」


「みんな知っとるよ」

当然のように言う。



「救急外来なんか行ったら、町の誰かしら見るし。朝にはもう話まわっとる」

にこりと笑う。

悪意のない笑顔だった。

それが余計に気味悪かった。


家へ戻る道すがら、誰かの視線を何度も感じた。

畑で作業する老人。

洗濯物を干す老婆。

路地の陰で立ち話をやめる女たち。

みな、こちらを見ていないふりをしていた。

午後、長谷川が訪ねてきた。


「回覧板、見ました?」


「見ました」


「気にしないでください。昔から、ああいう言い回しなんで」

疲れた顔だった。


「昨日の夫婦のこと、もう広まってますよね」

長谷川は少し黙り、視線を落とした。


「……この島では、隠し事は難しいです」


「誰かが話すんですか?」


「誰も話してないんです」

意味が分からず、黙っていると長谷川は続けた。


「見て、感じて、察して、勝手に広がるんです」

そう言って、乾いた笑いを漏らした。


「便利でしょう?」

「それにあの若夫婦の噂はもう出ませんよ、島から出ていくそうですから。」

その笑い声は、少しも笑っていなかった。

長谷川が帰ったあと、玄関の外で紙の擦れる音がした。

慌てて戸を開ける。

誰もいない。

足元には、回覧板が置かれていた。

まだ私の番のはずだった。隣家へ渡したばかりなのに。

中を開く。

最後の注意文の余白に、赤いボールペンで一行だけ書き足されていた。


余所者は島から出ていけ。


思わず外を見回した。

夕暮れの道には、誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ