第五話 崩壊
朝方、まだ薄暗い時間にスマホが鳴った。
枕元で振動が続き、半分眠ったまま画面を見る。登録されていない番号だった。
誰だ、と一瞬ためらいながらも通話に出る。
「もしもし」
「朝早くにすみません……先日引っ越してきた者です」
すぐに分かった。あの若い夫婦の夫だ。
「どうかしましたか?」
声には焦りが混じっていた。
「妻の様子がおかしいんです。病院に連れて行きたいので、少し助けてもらえませんか」
まだ夜明け前だったが、断る理由はなかった。
「分かりました。すぐ行きます」
電話を切り、車で夫婦の家へ向かう。
到着すると、扉の前で夫が待っていた。
「朝早くに申し訳ないです」
「奥さんは?」
「中です」
家の中に入ると、空気が重かった。
案内された寝室には、妻がいた。
島に来たときの面影はほとんどなかった。
カーテンの隙間をじっと見つめ、爪を噛んでいる。
声をかけても反応が薄い。
やがて、低い声が漏れた。
「わたしを見ている」
「わたしを見ている」
誰に向けた言葉でもないように、同じ言葉だけを繰り返している。
夫が近づき、肩に手を置く。
「病院に行こう。な?」
しかし妻は強く首を振った。
「いや……」
「監視されてる」
「外に出たら、わたしがおかしいって噂される」
「わたしはおかしくない」
「わたしはおかしくない」
「わたしはおかしくない」
言葉は次第に速くなり、呼吸と混ざり合っていく。
目だけが一点を見つめたまま動かない。
夫と協力して、なんとか車へ連れていった。
抵抗は強くなかったが、心はどこにもいなかった。
病院に着く頃には、妻は後部座席で静かに眠っていた。
車椅子に移すときも、目を覚まさない。
「本当にありがとうございました」
夫は何度も頭を下げた。
一体何が起きているのか。
夫婦喧嘩でも、単なる疲れでもない。
ただ、あの崩れ方だけは異様だった。
診察の合間、夫がぽつりと話す。
「この島に来てからなんです」
「買い物に行けば、根掘り葉掘り聞かれる」
「洗濯物を干せば、道行く人に下着のことまで言われる」
「だんだん外に出なくなって……」
それは、以前自分も感じていたものだった。
しかし、慣れてしまっていた。
異常を日常として飲み込んでいたことに、今さら気づく。
「ありがとうございました。本当に」
深く頭を下げる夫に見送られ、病院を出る。
空はすでに明るくなり始めていた。
島の段々畑に、朝日がゆっくりと落ちていく。
その光だけが、やけに穏やかだった。




