表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 森村征爾
10/19

第九話 共同と境界

若い移住者夫婦が島を去ってしばらく経つと、あれほど騒がれていた噂も、次の話題に押し流されるように薄れていった。

この島では、噂の寿命が短い。


季節は冬になっていた。

本州ほどではないにせよ、この島にも冷たい風は吹く。海から来る潮風が時折強く吹きつけ、古い家のガラス戸をカタカタと鳴らしていた。


「……そろそろやるか」

誰に聞かせるでもなく呟き、重い腰を上げる。

敷地内の倉庫へ向かった。

昨日まで収穫していたミカンを、今日は選別して出荷しなければならない。

傷もの、小玉、大玉、色づきの甘いもの。

決められた基準ごとに分け、地区の出荷場へ持っていく。

重いキャリーケースを持ち上げるたび、腰が悲鳴を上げた。

「……っ」

思わず息が漏れる。

ミカン農家はのんびりしている

――移住前に抱いていたそんなイメージは、とっくに消えていた。

汗をかきながら作業を続けていると、不意に外から声がした。


「誰かいますかー?」

女性の声だった。

手を止め、倉庫の戸を開ける。

そこに立っていたのは、見覚えのある人物だった。

図書館で会った、あの四十代の女性だった。

厚手のコートを着込み、両手をこすり合わせながらこちらを見ている。


「突然すみません。少し、お話できますか」

相変わらず穏やかな口調だった。

だが、その表情にはどこか硬さがあった。


「どうしました」

女性は周囲を見回した。

道の先、隣家の畑、向かいの家の窓。

誰かが聞いていないか確かめるように。


「ここじゃまずいですか?」

思わずそう聞くと、女性は苦く笑った。


「この島で“ここなら大丈夫”なんて場所、ありませんよ」

その言葉に、寒さとは別のものが背中を走る。

女性は一歩近づき、小声になった。


「あなた、最近警戒されています」

胸がざわついた。


「……誰にですか」


「島全体に、です」

冗談ではない顔だった。


「島民に相談せず若い夫婦に肩入れしたこと。病院へ連れて行ったこと。古老のやり方に不満を持っているらしいこと」


「全部、話が回っています」

思わず笑いそうになった。

笑えるはずがないのに。


「そんな馬鹿な。噂は噂ですよ」


「事実なんてなくても、そういうことになってるんです」

女性は即答した。


「この島では、事実より“まとまりやすい話”のほうが残りますから…。」


風が吹き、倉庫のトタン壁が鳴った。

私は腕を組み、女性を見た。


「……それで、警戒って?」

女性は少し黙り、やがて言った。


「共同体には境界線があるんです」

「内側と外側」

「仲間と、そうでない者」

「最初は皆、外側です。でも従い、馴染み、余計なことを言わず、同じように振る舞えば少しずつ内側へ入れてもらえる」

「逆に、一度でも空気を乱すと」

言葉が止まる。

聞かなくても分かった。


「外へ戻される?」


「いいえ」

女性は首を振った。


「外側に置かれたまま、見せしめになります」

喉が渇いた。


「じゃあ、私は今……」


「境界線の上にいます」

その言葉が、妙に現実味を持って胸に刺さる。

中でもなく、外でもない。

どちらからも見られる場所。


「なぜ、そんなことをわざわざ教えてくれるんですか」

女性は少しだけ目を伏せた。


「昔、私もそこに立っていたからです」

その声には、初めて感情が混じっていた。

私は返す言葉を失った。

遠くで軽トラックのエンジン音が聞こえる。

女性は身を引いた。


「今日ここへ来たことも、たぶん誰かが見ています」


「だから、もう帰ります」


「待ってください」

呼び止めると、女性は足を止めた。


「境界線を越えた人は、どうなるんですか」

しばらく沈黙したあと、女性は振り返らずに言った。


「この島では、“最初から居なかったこと”になります」

そう言い残し、風の中を去っていった。


一人残された倉庫の前で、私はしばらく動けなかった。

その日の夕方、出荷場へミカンを運ぶと、島の男たちが数人集まっていた。

私を見ると、会話が止まった。

一瞬だけ視線が集まり、すぐ逸らされる。

誰も何も言わない。

ただ、少しだけ距離が空いていた。

そのわずかな隙間が、やけに寒かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ