第九話 共同と境界
若い移住者夫婦が島を去ってしばらく経つと、あれほど騒がれていた噂も、次の話題に押し流されるように薄れていった。
この島では、噂の寿命が短い。
季節は冬になっていた。
本州ほどではないにせよ、この島にも冷たい風は吹く。海から来る潮風が時折強く吹きつけ、古い家のガラス戸をカタカタと鳴らしていた。
「……そろそろやるか」
誰に聞かせるでもなく呟き、重い腰を上げる。
敷地内の倉庫へ向かった。
昨日まで収穫していたミカンを、今日は選別して出荷しなければならない。
傷もの、小玉、大玉、色づきの甘いもの。
決められた基準ごとに分け、地区の出荷場へ持っていく。
重いキャリーケースを持ち上げるたび、腰が悲鳴を上げた。
「……っ」
思わず息が漏れる。
ミカン農家はのんびりしている
――移住前に抱いていたそんなイメージは、とっくに消えていた。
汗をかきながら作業を続けていると、不意に外から声がした。
「誰かいますかー?」
女性の声だった。
手を止め、倉庫の戸を開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのある人物だった。
図書館で会った、あの四十代の女性だった。
厚手のコートを着込み、両手をこすり合わせながらこちらを見ている。
「突然すみません。少し、お話できますか」
相変わらず穏やかな口調だった。
だが、その表情にはどこか硬さがあった。
「どうしました」
女性は周囲を見回した。
道の先、隣家の畑、向かいの家の窓。
誰かが聞いていないか確かめるように。
「ここじゃまずいですか?」
思わずそう聞くと、女性は苦く笑った。
「この島で“ここなら大丈夫”なんて場所、ありませんよ」
その言葉に、寒さとは別のものが背中を走る。
女性は一歩近づき、小声になった。
「あなた、最近警戒されています」
胸がざわついた。
「……誰にですか」
「島全体に、です」
冗談ではない顔だった。
「島民に相談せず若い夫婦に肩入れしたこと。病院へ連れて行ったこと。古老のやり方に不満を持っているらしいこと」
「全部、話が回っています」
思わず笑いそうになった。
笑えるはずがないのに。
「そんな馬鹿な。噂は噂ですよ」
「事実なんてなくても、そういうことになってるんです」
女性は即答した。
「この島では、事実より“まとまりやすい話”のほうが残りますから…。」
風が吹き、倉庫のトタン壁が鳴った。
私は腕を組み、女性を見た。
「……それで、警戒って?」
女性は少し黙り、やがて言った。
「共同体には境界線があるんです」
「内側と外側」
「仲間と、そうでない者」
「最初は皆、外側です。でも従い、馴染み、余計なことを言わず、同じように振る舞えば少しずつ内側へ入れてもらえる」
「逆に、一度でも空気を乱すと」
言葉が止まる。
聞かなくても分かった。
「外へ戻される?」
「いいえ」
女性は首を振った。
「外側に置かれたまま、見せしめになります」
喉が渇いた。
「じゃあ、私は今……」
「境界線の上にいます」
その言葉が、妙に現実味を持って胸に刺さる。
中でもなく、外でもない。
どちらからも見られる場所。
「なぜ、そんなことをわざわざ教えてくれるんですか」
女性は少しだけ目を伏せた。
「昔、私もそこに立っていたからです」
その声には、初めて感情が混じっていた。
私は返す言葉を失った。
遠くで軽トラックのエンジン音が聞こえる。
女性は身を引いた。
「今日ここへ来たことも、たぶん誰かが見ています」
「だから、もう帰ります」
「待ってください」
呼び止めると、女性は足を止めた。
「境界線を越えた人は、どうなるんですか」
しばらく沈黙したあと、女性は振り返らずに言った。
「この島では、“最初から居なかったこと”になります」
そう言い残し、風の中を去っていった。
一人残された倉庫の前で、私はしばらく動けなかった。
その日の夕方、出荷場へミカンを運ぶと、島の男たちが数人集まっていた。
私を見ると、会話が止まった。
一瞬だけ視線が集まり、すぐ逸らされる。
誰も何も言わない。
ただ、少しだけ距離が空いていた。
そのわずかな隙間が、やけに寒かった。




