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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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140話:七つの刃

杭を打つ音が、朝から響いていた。神指城の予定地で、曽根の指揮の下、測量の杭が一本ずつ大地に打ち込まれている。四月の着工に向けて、地形の確認と排水路の設計が進んでいる。遠くからその音を聞きながら、湊は帳場にいた。


 左内と於松と三人で、卓を囲んでいた。帳面が三冊開かれている。紙幣流通帳、庄内米の輸送帳、そして白紙の帳面。白紙の帳面は、於松が用意したものだった。


 「戦時の紙幣運用を考えなければなりません」


 左内が切り出した。利家の死から十日余り。天下が動き始めていることは、帳場にも伝わっている。商人たちの顔が変わった。紙幣を使う手つきが、少しだけぎこちなくなった。不安が空気に混じっている。紙幣を受け取る時に、一瞬だけ手が止まる商人が増えた。あの震える手が、また震え始めている。


 「紙幣の裏付けは米です。戦になれば、米は兵糧に回る。兵糧に回った分だけ、裏付けが減る。裏付けが減れば、紙幣の信用が落ちる。信用が落ちれば、商人が紙幣を受け取らなくなる。そうなれば、紙幣は終わりです」


 左内の声は淡々としていた。だがその淡々さに、緊迫が込められていた。紙幣はわしの命だ、と言った男が、自分の命の危機を語っている。左内は数字で物を考える男だ。感情ではなく、帳面の数字が左内を動かす。その左内が「終わりです」と言い切った。数字がそう語っているのだ。


 於松が白紙の帳面に数字を書き始めた。


 「現在の紙幣発行高と、裏付け米の総量を整理します。紙幣発行高は銀換算で約四百貫。裏付け米は蔵に三千俵。庄内からの供給が月に八百俵。シャム米が年に二万石。この比率が崩れなければ、紙幣は維持できます」


 「問題は、戦が始まった時にこの比率が守れるかどうかだ。三万の兵を半年養うには四万石以上の兵糧が要る。庄内とシャムの合計が四万四千石。兵糧だけで全部消える。裏付け米に回す余裕がない」


 於松の筆が止まった。数字が答えを出していた。戦と紙幣は共存できない。どちらかを犠牲にしなければならない。だが左内は紙幣を犠牲にするつもりはなく、兼続は戦を避けるつもりはない。この矛盾を解くのが、帳場の仕事だった。


 湊は二人のやり取りを見守っていた。口を挟むべき場面ではなかった。帳場の問題は、帳場の人間が解くべきだ。湊にできるのは、戦と紙幣の接点を整理することだけだった。


 帳場の戸が開いた。


 商人の姿をした男が立っていた。旅装は堺の呉服商のものだが、足の運びが商人ではなかった。重心が低い。武芸を知る男の立ち方だ。旅装の下に短刀を隠しているのが、湊の目には見えた。道及の密使だった。堺商人に紛れて東海道を通り、会津まで来た男。左内と於松の前で正体を明かすわけにはいかない。


 「商いの件でお伝えしたいことが」


 密使は湊にだけ聞こえる声で言った。湊は立ち上がり、帳場の外に出た。路地の隅で竹筒を受け取った。中に細い紙が入っている。道及の筆跡だった。


 湊は紙を広げた。文字が小さい。道及が急いで書いたことが分かる。墨が薄い箇所がある。旅の途中で書き足したのだろう。


 閏三月十日。福島正則を筆頭に七将が石田三成殿の屋敷を襲撃。加藤清正、細川忠興、黒田長政、浅野幸長、加藤嘉明、脇坂安治。三成殿は島左近殿の指揮で屋敷を脱出。佐竹義宣殿の屋敷に逃げ込む。佐竹が三成殿を匿った。


 湊は紙を読み続けた。


 家康殿が仲裁に入った。三成殿に奉行職の辞任と佐和山への隠居を命じた。三成殿はこれを受け入れ、大坂を退いた。左近殿が三成殿に付き従い、佐和山に入った。


 追記がある。道及の判断が書かれていた。


 佐竹が三成殿を匿ったことで、佐竹と上杉の連携が目に見える形になった。家康殿はこれを確実に見ている。佐竹への圧力が強まる。義宣殿の判断は正しいが、代償も大きい。


 さらにもう一行。


 三成殿の退却は、想定よりも速かった。左近殿が事前に退路を確保していた形跡がある。我が渡した情報が役に立ったかは不明だが、左近殿の動きに迷いがなかった。


 湊は紙を畳んだ。密使は既に去っていた。商人の足で、会津の城下に消えている。帳場に戻ると、左内と於松が湊を見ている。密使の訪問と、湊の表情の変化を見逃していない。於松の目が問いかけている。だが帳場で話すべき内容ではなかった。


 「少し席を外します。戦時帳面の件、二人で詰めておいてください」


 左内が頷いた。於松も頷いた。二人とも、湊が何を受け取ったか察している。だが聞かなかった。聞くべき時ではないと分かっている。


 湊は帳場を出た。兼続の屋敷に向かう。道を歩きながら、頭の中で情報を整理した。七将の襲撃は史実通り。佐竹が三成を匿ったのも史実通り。三成が佐和山に退いたのも史実通り。だが左近の動きに迷いがなかったという道及の報告が引っかかった。道及が島左近の配下に事前情報を渡した。それが三成の退却を助けた可能性がある。歴史が少し変わり始めているのか。それとも、元々こうなる運命だったのか。区別がつかない。だが区別がつかないということは、まだ大きな逸脱は起きていないということだ。


 神指城の杭打ちの音が遠くから聞こえている。曽根が指揮する槌の音が、一定の間隔で響く。城が形を成し始めている。その城が、これから来る嵐を受け止める砦になる。


 兼続の屋敷に着いた。書院に通された。兼続は座って書状を書いていた。各地への連絡だろう。利家の死後、兼続の書状の量は倍に増えている。筆を止め、湊を見た。湊の顔を見て、兼続の目が変わった。何か来た、と分かったのだろう。


 「道及殿から報せが」


 湊は道及の報告を伝えた。一つずつ。七将の襲撃。三成の脱出。佐竹の保護。家康の仲裁。三成の佐和山退去。


 兼続は黙って聞いていた。最後まで聞き終えて、目を閉じた。長い沈黙だった。書院の外で、鳥が鳴いている。春の鳥だ。のどかな声が、部屋の緊張と不似合いだった。


 「三成殿が生きている。それだけで十分だ」


 兼続の声に安堵があった。だが安堵だけではなかった。悔しさが混じっている。三成が政治の表舞台から消えたことへの悔しさ。共に秀吉の天下を支えた同志が、佐和山に追い込まれた。だが生きていれば立て直せる。死んでいなければ、まだ手はある。


 「家康殿の仲裁は見せかけです」


 湊は分析を述べた。


 「三成殿を殺さずに退場させたのは、三成殿を殺すと武断派が暴走しすぎるからです。正則殿や清正殿は三成殿を殺したかった。だが三成殿が死ねば、武断派は次の標的を探す。それが家康殿に向かう可能性すらある。家康殿は武断派も制御下に置きたい。三成殿の退場で武断派を満足させ、自分は仲裁者として双方に恩を売った。一手で三つの利を取っている」


 兼続の目が光った。「家康殿らしい。力で押すのではなく、流れを利用する。利家殿の死すら利用した。あの男は、人の死を道具にできる男だ」


 「佐竹が三成殿を匿ったことの意味は大きいです」


 「どう大きい」


 「義宣殿が反家康の旗色を見せました。佐竹と上杉の連携が既成事実になった。これは我々にとって好材料です。ただし、家康殿もそれを見ている。佐竹への圧力が強まります。義重殿が慎重だったのは正しい判断でしたが、義宣殿が動いてしまった以上、佐竹は引き返せない。道及が小貫殿を通じて繋いだ線が、ここで活きた形です」


 「道及殿の関東での動きは」


 「徳川家中の後継者争いについて、秀康殿周辺の不満の声を拾い続けています。七将の襲撃で家康殿の注意が畿内に向いている今、関東は手薄になる。道及が動きやすい時期です」


 兼続は筆を取った。書状を書き始めている。


 「道及殿に返書を出す。湊、文面を考えろ」


 「はい。三成殿の佐和山での動向を見張るよう伝えます。三成殿が何を考えているか、誰と接触しているか。佐和山は近江にある。畿内の大名への連絡が容易な場所です。三成殿が隠居のふりをして、反家康勢力を糾合し始める可能性がある」


 「そうだ。三成殿はそういう男だ。退いたように見せて、水面下で動く。わしの知る三成殿は、そうやって何度も窮地を切り抜けてきた。秀吉殿の下で鍛えられた政治の腕は、佐和山に退いたくらいでは錆びない」


 兼続は書状を書き終え、墨を乾かしている間に湊を見た。


 「信尹殿と銀次殿は堺にいるな」


 「はい。七将の襲撃で堺にも波が来ているはずです。信尹殿なら、その波の中から情報を拾えます。三成殿が佐和山に入ったことは、堺の商人も知っているでしょう。商人の反応を見れば、畿内の空気が分かる」


 「曽根殿には神指城の着工を急がせる。もう待てない。家康殿が上杉に目を向ける前に、形を作りたい」


 「曽根殿の図面は完成しています。着工は四月。予定通りです」


 「予定通りでは遅い。前倒しできるか」


 「曽根殿と相談します」


 兼続は頷いた。立ち上がり、書院の窓を開けた。外から杭打ちの音が入ってきた。兼続はその音を聞きながら、しばらく外を見ていた。


 「湊。これから半年が勝負だ。半年で、上杉が戦える体を作る。紙幣、兵糧、城、情報。全てを同時に走らせろ」


 「承知しました」


 兼続は振り返らなかった。外を見たまま、低く言った。


 「三成殿を、決して見捨てるなよ」


 その声に、執政ではなく友としての感情が混じっていた。湊は頭を下げ、書院を出た。


 帳場に戻った。於松と左内が待っていた。二人とも帳面を開いたまま、湊の帰りを待っていた。だが待っている間も手は止めていなかった。白紙だった帳面に、既に戦時用帳面の構成が書き込まれている。左内の筆跡と於松の筆跡が交互に並んでいる。二人で議論しながら書いた跡だった。


 於松が聞いた。


 「三成殿は」


 「生きています。佐和山に退きました」


 於松の表情がわずかに緩んだ。左内も小さく息を吐いた。三成が生きていれば、反家康の軸が残る。上杉が潰れなければ、紙幣の信用も守れる。於松はそこまで読んでいる。左内も同じだ。帳場の二人は、天下の情勢を紙幣の言葉で翻訳できる人間だった。


 左内が帳面を開き直した。


 「戦時の紙幣運用の続きをしましょう。嵐が来ていますが、帳場は止まりません」


 左内の声に力があった。利家が死に、三成が退き、天下が揺れている。だが帳場には帳面がある。数字がある。数字は嘘をつかない。


 「提案があります」


 左内が言った。


 「戦時用の別帳面を作る。兵糧米と紙幣裏付け米を、完全に分離して管理する。同じ蔵に入れない。同じ帳面で扱わない。二つの米が混ざった瞬間、紙幣は死にます。帳面で壁を作ります」


 於松が頷き、続けた。


 「壁を作るなら、商人にもそれを見せるべきです。帳面の公開です。裏付け米がいくらあるか、商人が自分の目で確認できるようにする。蔵の中身を直接見せる必要はありません。左内殿の帳面の数字を公開すればいい。左内殿の帳面を商人が信じているなら、帳面の数字を公開することが最大の保証になります」


 湊は二人を見た。左内が壁を作り、於松が透明性を提案する。守りの左内と、攻めの於松。二つの知恵が噛み合って、戦時の紙幣を守る具体策が生まれている。湊が口を出す必要はなかった。帳場が自力で答えを出し始めている。


 「やりましょう。二人にお任せします」


 左内と於松が顔を見合わせた。左内が小さく笑った。於松の口元にさざ波が立った。二人はすぐに帳面に向かった。左内が戦時用帳面の構成を書き始め、於松が商人への説明文案を練り始めた。二人の筆が同時に走っている。師弟ではない。同僚だった。戦の影が迫る中で、数字を武器にして紙幣を守ろうとしている。


 帳場の外で、神指城の杭を打つ音が響いている。城と帳場。戦の準備と紙幣の準備。二つが同時に進んでいる。上杉は二本の足で立とうとしている。片方は武力、片方は経済。どちらかが折れれば倒れる。曽根が城の図面を引き、左内と於松が紙幣の図面を引く。どちらも上杉を支える骨格だ。


 湊は懐の帳面に手を当てた。天下が動き始めた。三成が退き、家康が実権を握り、七人の武将が刃を振るった。だが帳場は止まらない。杭を打つ音と、筆を走らせる音。戦の足音と紙幣の鼓動。二つの音が、会津の春に重なっている。

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