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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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142/201

141話:杭の音

地が鳴っていた。槌が杭を打つ音が、会津盆地に響いている。一本打つごとに、地面が揺れる。その揺れが足の裏から伝わってくる。四月の朝。空は青く、風は柔らかい。だが大地は揺れている。神指城の着工だった。


 湊は現場に来ていた。城の予定地は会津盆地の西側、阿賀野川の流れに沿った平地だった。見渡す限りの田園の中に、測量の杭が打たれ、縄が張られ、人夫が動いている。既に三万を超える人夫が、曽根の指揮の下で土を掘り、杭を運び、縄を引いている。城の輪郭が、大地の上に薄く浮かび始めていた。


 土の匂いが濃い。掘り返された黒い土が、朝日を浴びて湿った光を放っている。会津の土は肥えている。この土が米を育て、その米が紙幣を支えている。今、その土が掘り返されて城の堀になろうとしている。農の土地が、戦の土地に変わる。その変化を、湊は足の裏で感じていた。


 曽根が図面を広げていた。木の板に墨で描かれた図面。城の全体像が一枚に収まっている。曽根の字は細かく、正確で、美しかった。武田流築城の知恵が、一本一本の線に込められている。図面の隅に「慶長四年四月」と日付が入っている。この図面が、上杉の覚悟を形にした最初の一枚だった。


 「来たか、湊殿」


 曽根は図面から目を離さずに言った。土埃で顔が汚れている。朝から現場にいるのだろう。髪に砂が混じっている。


 「進捗を見に来ました」


 「見ての通りだ。今は外堀の位置を決めている。阿賀野川の流れを引き込んで水堀にする。川の水量は豊富だから、堀の幅は三十間取れる。攻め手が渡るには船が要る」


 曽根が図面を指で叩いた。城の外周を示す線の上に、水の流れが青い墨で描かれている。


 「城は四角ではない。川の蛇行に沿って、不整形に作る。直線の城壁は攻められやすい。蛇行に沿えば、城壁の角度が自然に変わる。どこから攻めても横矢が掛かる設計だ」


 「武田の城と同じ考え方ですか」


 曽根の手が止まった。湊を見た。目の奥に、懐かしさと痛みが混じっている。


 「武田の城を作っている気分だ。躑躅ヶ崎の館を思い出す。あれも山城ではなく平城だった。信玄公は民の中に城を置いた。城下町と城が一体になっている。城壁の中に逃げ込むのではなく、城が町を守る。神指城も同じだ」


 曽根は図面の中心を指した。本丸の位置だ。


 「本丸の周りに二の丸、三の丸を配し、その外側に城下町を置く。城下町の外周にも低い土塁を回す。戦になれば、城下の民も土塁の中に入れる。城は戦うためだけのものではない。民を守り、経済を回す拠点だ。左内殿の紙幣が使える市場も、城下に作れる」


 曽根は図面の別の箇所を指した。城の南側に、広い空地が描かれている。


 「ここに市を立てる。南からの街道が城下に入る地点だ。庄内からの米もここに集まる。市場と蔵が隣り合えば、紙幣と米の交換がその場でできる。商人が蔵の米を目で見て、紙幣を信用する。左内殿が言っていた裏付けの可視化が、城の構造として実現する」


 湊は驚いた。曽根は築城の専門家だが、紙幣のことまで考えている。左内の帳場と曽根の城が、一つの設計思想で繋がっている。


 「曽根殿。左内殿と話しましたか」


 「何度か。あの男の紙幣の仕組みを聞いて、城の設計に組み込んだ。城は壁と堀だけではない。中で何が動くかまで考えて、初めて城になる。信玄公はそう教えた」


 湊は図面を見つめた。曽根の城は、単なる軍事施設ではなかった。城下町の配置、水路の設計、市場の位置。すべてが一つの絵になっている。武田が滅びた後も、曽根の中に信玄の城作りの思想が生きている。


 「曽根殿」


 「なんだ」


 「ここが居場所ですか」


 曽根は図面を畳んだ。ゆっくりと、丁寧に。図面に砂が入らないように。


 「居場所か。武田が滅び、徳川に仕え、蒲生に仕え、ようやくここに来た。四つ目の主だ。だが居場所というのは場所ではない。仕事だ。わしは城を作る。城を作っている時だけ、武田の亡霊が黙る」


 曽根は図面を懐にしまい、現場に目を向けた。人夫たちが土を運んでいる。列を作り、籠に土を入れ、一歩ずつ運ぶ。単調な作業だが、その一歩一歩が城の形を作っていく。


 「信玄公の城は完成しなかった。勝頼殿の代で武田は滅び、躑躅ヶ崎は焼けた。わしはあの時、城が焼けるのを見ていた。自分が手伝った城が灰になるのを。あの火を、まだ夢に見る」


 曽根の声に感情はなかった。事実を語る声だった。だがその事実の重さが、声の奥に沈んでいる。四十年前の火が、今も曽根の目の裏で燃えている。


 「徳川に仕えた時も城を作った。だが徳川の城は、わしの城ではなかった。命じられて作る城と、自分の城は違う。蒲生家でも城の修繕を手伝ったが、蒲生の城もわしの城ではなかった。だがここは違う。兼続殿がわしに図面を任せた。好きに作れと言った。好きに作れと言われたのは、信玄公以来だ」


 曽根の目が潤んでいるように見えた。だが次の瞬間には乾いていた。涙を見せる男ではなかった。


 「この城は、焼かせない。完成させて、守り抜く。それがわしの仕事だ」


 湊は何も言えなかった。曽根にとって神指城は、武田の城の続きなのだ。焼けた城を、もう一度建てている。場所は違う。主は違う。だが城を作るという行為そのものが、曽根の生きる理由だった。信尹が「使われることで力を発揮する」男なら、曽根は「作ることで生きる」男だ。武田の残り火が、会津の大地に新しい城として形を成そうとしている。


 曽根は視線を現場に戻した。人夫たちの動きを目で追いながら、時折大声で指示を飛ばす。「そこの杭、もう半尺深く打て。地盤が柔らかい」「縄の位置がずれている。三尺東にやり直せ」。声に迷いがない。この男は現場に立つと別人になる。書院で図面を広げている時の静かな曽根ではなく、大地の上で城を生み出す曽根。信玄の城を見て育った男の本領が、ここにある。


 「曽根殿。完成は間に合いますか」


 「正直に言えば、全体の完成は二年かかる。だが外堀と本丸の骨格は、秋までに形にできる。戦が来ても、骨格があれば戦える」


 「秋までに」


 「急がせている。人夫の数を増やせるなら、もっと早くなる。兼続殿に伝えてくれ。越後と庄内からも動員をかけたい。今の三万に加えて、あと五万は欲しい。八万の人夫がいれば、秋の前に本丸の石垣まで積める」


 「五万人分の人件費と飯の手配は」


 「左内殿に聞いてくれ。米で払うか、紙幣で払うか。わしは城を作るだけだ。金の計算は帳場の仕事だ」


 曽根は笑った。珍しい笑顔だった。城の話をしている時の曽根は、他の時とは別人のように見える。目が生きている。声に張りがある。城を作ることが、この男の命そのものなのだ。


 「伝えます」


 現場を歩いていると、声が聞こえた。明るい声だった。


 「はい、こちらに並んでください。怪我をした方はあちらで手当てを受けてください。名前を聞きますよ、覚えますからね」


 於梅だった。人夫たちの間を歩き回っている。炊き出しの手配をしているらしい。現場のあちこちに大きな釜が据えられ、飯の湯気が立っている。於梅はその前に立ち、人夫たちに握り飯を配っていた。一人一人に声をかけている。名前を呼んでいる。数万の人夫の中で、於梅は既に何百人もの名前を覚えているようだった。握り飯を渡す時に「昨日の腰の具合はどうですか」「息子さんの熱は下がりましたか」と添えている。人夫たちの顔が緩む。重労働の中で、於梅の声だけが明るい色を帯びていた。


 「あ、湊殿。見に来てくださったんですか」


 於梅が湊を見つけて駆け寄ってきた。手に握り飯を持っている。土で汚れた手で握ったらしく、飯粒に砂が混じっている。だが於梅はそれを気にしていない。


 「兼続様に言われて、炊き出しの手伝いをしています。人夫の皆さん、朝から重い物を運んで大変なんです。せめてお腹だけでも満たしてもらいたくて」


 於梅は曽根にも握り飯を差し出した。


 「曽根殿。食べてください。朝から何も召し上がっていないでしょう」


 曽根が受け取った。不格好な握り飯だった。形が歪で、大きさも不揃い。だが温かかった。曽根は一口食べ、小さく頷いた。


 「美味い」


 「本当ですか。嬉しいです。塩加減が難しくて。人夫の方たちは汗をかくから、少し濃い目にしたんですけど」


 「濃い目でいい。掘削の仕事は汗が出る。塩が足りないと体が持たない。よく分かっている」


 曽根の言葉に、於梅の顔が明るくなった。褒められたことが嬉しいのではない。自分の判断が正しかったことが嬉しいのだ。於梅は人の体の必要を読み取り、それに応えた。帳面の数字ではなく、人の汗と疲労から正解を導き出す力。それも知性だ。


 於梅は笑った。屈託のない笑顔だった。城の建設現場で、数万の人夫の中で、この女性は自分の仕事を見つけている。於松が帳場で数字に向き合うなら、於梅は現場で人に向き合う。姉妹で性質が違うが、どちらも自分の場所で力を発揮している。兼続の血だろうか。いや、兼続だけではない。母の血もあるだろう。会ったことのない兼続の妻の顔を、於松と於梅の中に湊は見ている気がした。


 湊は於梅の握り飯を受け取り、食べた。塩が効いている。汗をかく人夫に合わせた塩加減。旨かった。現場の土埃と汗の匂いの中で食べる握り飯は、帳場で飲む茶とは違う味がする。体が欲しているものを、体に入れている。その単純な充足感があった。


 怪我をした人夫が於梅のところに来た。手に擦り傷を負っている。於梅は布を取り出し、丁寧に傷を包んだ。手慣れた手つきだった。


 「痛いですか。明日もありますから、無理しないでくださいね。お名前は」


 「与助です」


 「与助さん。覚えました」


 人夫が照れたように笑った。城の建設は重労働だ。怪我も疲労もある。だが於梅がいることで、現場の空気が少しだけ柔らかくなっている。曽根の図面が城の骨格を作り、於梅の握り飯が人夫の気力を支えている。


 湊は現場を一通り見て回った。外堀の掘削が始まっている。土の匂いが立ち込める中で、人夫たちが黙々と働いている。城の建設は順調だが、完成は間に合わない。家康が上洛を要求してくるのは夏から秋。城が半ばで戦が来る可能性がある。


 だが城の建設そのものが意味を持つ。上杉が会津に根を下ろす意思表示。家康への「ここを動かない」という宣言。完成しなくても、建てていること自体が戦略になる。数万の人夫が土を動かしている姿は、上杉の覚悟そのものだ。その情報は必ず家康の耳に届く。淡路屋の背後にいる正信が、この情報をどう使うか。「上杉が大普請を始めた」という噂が、家康に上洛要求の口実を与えるかもしれない。だがそれは覚悟の上だ。景勝が「戦の覚悟をせよ」と言った。曽根が杭を打っている。覚悟は大地に打ち込まれている。


 夕方、現場から帰る道で於梅と並んで歩いた。夕日が会津盆地を橙色に染めている。田んぼの水面に夕日が映り、盆地全体が光っている。杭打ちの音が遠くなり、代わりに蛙の声が聞こえ始めた。


 「湊殿。城ができたら、城下に市が立ちますか」


 「立てます。左内殿の紙幣が使える市を」


 「楽しみです。於松姉様にも見せたい。姉様は帳場でお仕事ばかりだから、市が立てば外に出てくるかもしれません。姉様、最近ずっと数字のことばかり考えていて。たまには外の空気を吸ってほしいんです」


 於梅は笑った。姉を思う笑顔だった。於松が帳場で数字の壁を作り、於梅が現場で人の輪を作る。二人の力が合わされば、城下町はきっと活気のある場所になる。於梅の目には、もう完成した城下町が見えているのだろう。市が立ち、商人が行き交い、人夫たちが家族と一緒に買い物をする。その光景を於梅は信じている。


 だが湊は知っている。この城が完成する前に、戦が来る。於梅が夢見る市が立つかどうかは、これからの半年で決まる。於梅の笑顔を守るために、湊は帳面を握り、情報網を張り、戦の準備を進めなければならない。於梅が信じている未来を、湊が作らなければならない。それは重い仕事だった。だがこの笑顔を見てしまった以上、逃げることはできなかった。


 杭の音が夕暮れの中で遠く響いている。一本、また一本。城が形を成していく音。上杉が覚悟を大地に打ち込む音だった。

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