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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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135話:三人の器

 雪解けの水音が、朝から絶えなかった。屋根の雪が溶け、軒先から滴り、溝に落ちて流れていく。三月の会津は水の音に満ちている。冬の沈黙が、少しずつ壊れ始めていた。


 湊は自分の部屋に曽根昌世を呼んだ。曽根は神指城の図面作業の合間に来たらしく、指先に墨がついたままだった。囲炉裏の前に座り、茶を受け取った。


 「曽根殿。徳川家中の後継者争いについて、聞かせてほしいことがあります」


 曽根の手が止まった。茶碗を口に運びかけた姿勢のまま、湊を見た。武田滅亡後に一時徳川に仕えた男の目が、一瞬だけ遠くなった。


 「後継者争い、か。具体的に何を知りたい」


 「秀康殿、秀忠殿、忠吉殿。三人の器と、家中の空気を。道及を関東に送る前に、見取り図を持っておきたい」


 曽根は茶を飲んだ。一口、二口。考えをまとめている。この男は急がない。武田の参謀として、信玄の傍で戦略を練った男だ。言葉を選ぶのに時間をかける。


 「秀康殿は知っている。徳川に仕えていた頃に、二度ほど会った。まだ若かったが、武勇の片鱗はあった。家康殿の息子の中で、最も戦場の匂いがする男だ。槍を持たせれば、家康殿の若い頃に似ている」


 「だが嫡子ではない」


 「ない。家康殿は秀康殿を秀吉殿への人質に差し出した。実の子を他家に送るのは珍しくないが、嫡子をそうはしない。あの時点で、嫡子から外す判断をしている。結城家に養子に出したのも同じ文脈だ。能力があるからこそ、手元に置かず外に出す。手元に残すのは、自分の意に従う者だけだ」


 曽根は火を見ながら続けた。


 「秀康殿の母は、側室の中でも家康殿との関係が複雑だった。そういう事情が、秀康殿の立場に影を落としている。能力で選ぶなら秀康殿だ。だが家康殿は能力だけで選ばない。従順さと、扱いやすさと、そして血筋の整理。そのすべてを計算している」


 「秀康殿はそれを」


 「分かっている。分かった上で、それでも父に認められたいと思っている。そこが危うい。認められたい男は、認められるために無理をする。その無理が、周囲に波を立てる」


 曽根は茶碗を置いた。


 「本多正信殿のことも聞きたいのだろう」


 「はい」


 「正信殿は家康殿の参謀だが、秀康殿とも近い距離にいる。あの男は常に二つの道を持っている。家康殿が秀忠殿を選べば秀忠殿を支え、万一秀康殿が浮上すれば秀康殿にも手を差し伸べられる位置にいる。どちらが勝っても生き残れるように立ち回る男だ。信玄公の傍にもそういう者がいた」


 廊下に足音がした。二人分。湊が振り返ると、浅香と名古屋が立っていた。


 「曽根殿と話していると聞きました。我らもお力になれるかと」


 浅香が遠慮なく部屋に入ってきた。名古屋がその後ろに続く。湊は少し驚いたが、断る理由はなかった。蒲生家臣として東国の大名との付き合いを重ねてきた二人は、徳川家中を別の角度から見ている。


 四人が囲炉裏を囲んだ。茶碗が四つ。湯気が四筋、天井に向かって立ち上る。


 「浅香殿。秀忠殿に会ったことがあると聞きましたが」


 浅香が腕を組んだ。


 「蒲生家の使いで徳川家を訪ねた時に、何度か顔を合わせました。秀忠殿は真面目な方です。礼を重んじ、約束を守り、人の話をよく聞く。だが線が細い。戦場に立つ器ではない。刀を振るうより、書状を書く方が似合う御方でした。宴席でも隅に座って、静かに杯を傾けておられた」


 名古屋が補足した。


 「蒲生の若い侍たちは、秀忠殿を軽く見ていました。武芸の話をしても加わらず、戦の話になると黙る。侍の間では、そういう男は評価されない」


 「戦場の器ではない男を、家康殿は後継にしようとしている」


 「そうです。だが湊殿、俺はそこに家康殿の恐ろしさを感じるのです」


 浅香の声が低くなった。囲炉裏の火が浅香の顔を照らしている。蒲生家で戦場を駆けた男の表情だった。


 「戦の時代は終わる。家康殿はそう見ている。天下を取った後に必要なのは、戦場で槍を振るう男ではなく、天下を治める男だ。秀忠殿は治世の器だ。家康殿は次の時代まで見て、後継を選んでいる。目の前の戦だけを見ている大名とは、考え方の桁が違う」


 曽根が頷いた。「浅香殿の言う通りだ。家康殿が秀忠殿を選ぶのは、弱いからではない。治世に向いているからだ。だが家中の武士たちはそうは見ない。武功のない男に従いたくないという声は、表に出ないだけで確実にある」


 名古屋が扇子を軽く鳴らした。この男は蒲生家きっての伊達者だ。一番槍を何度も立てた武勇と、氏郷が初見で少女と見間違えたという美貌を持つ。華のある男だが、戦場と人を見る目は鋭い。


 「忠吉殿について一つ。忠吉殿は井伊直政殿の娘婿です。井伊の赤備えが後ろにいる。蒲生家時代に井伊殿とは何度か戦場で一緒になりましたが、あの方は遠慮なく前に出る。忠吉殿も同じ気性で、関東では先鋒を任されるほどの器量だと聞いています。しかも人望が厚い。諸侯が忠吉殿のためなら命も惜しくないと口にするほどだと。銀箔の白い具足を纏い、井伊の赤備えと対を成すように戦場に立つ。見映えもする」


 「忠吉殿自身に野心は」


 「秀康殿のような不満はない。だが、それがかえって厄介です。野心なく人望がある男は、周囲が勝手に担ぎ上げる。井伊直政殿には野心がある。直政殿が忠吉殿を押し上げる展開は、十分にありえます」


 湊は四人の話を頭の中で組み立てていた。秀康は武の器。秀忠は治の器。忠吉は未知の器。三つの器が、家康の懐の中でぶつかり合っている。


 曽根が整理した。


 「三人の器はそれぞれ違う。家康殿は秀忠殿を選ぶだろう。だが家中の武士たちは秀康殿を推す。武功の時代に生きた者は、武功のある主を欲しがる。この歪みが、上杉にとっての隙になる」


 「隙を突く方法は」


 曽根が湊を見た。試すような目ではなかった。湊がどう考えているか、確認する目だった。


 「秀康殿本人には触れません。秀康殿の周囲にいる武士たちの不満を、可視化する。秀康殿を推す声を、少しだけ大きくする。噂でいい。『秀康殿こそが家督を継ぐべきだ』という声が関東で広がれば、家康殿はそれを無視できない。声を潰すか、調整するか。どちらにしても時間を取られる。その時間が、上杉の準備期間になる」


 浅香が口笛を吹きかけて、止めた。


 「……えげつない策ですな」


 「えげつなくなければ、家康には勝てません」


 「承知しております。褒めているのです」


 曽根が付け加えた。


 「重要なのは、秀康殿本人を動かさないことだ。秀康殿が実際に反旗を翻せば、家康殿はすぐに潰しにかかる。そうなれば上杉にとっても都合が悪い。秀康殿には不満を溜めたまま、動かずにいてもらう方がいい。煮え切らない空気が続くことが、上杉にとっては最善だ」


 「その通りです。煮えさせず、冷めさせず。曖昧な状態を維持する。家康殿が最も苦手とするのは、はっきりしない状況です。敵が見えれば潰せる。だが家中の不満は敵ではない。潰せないし、無視もできない」


 湊は自分の言葉を聞きながら、胸の奥に重いものを感じていた。秀康という人間を利用している。報われなかった男の不満を、上杉の盾にしようとしている。秀康に非はない。父に認められたいという、ただそれだけの望みを持つ男だ。その望みを利用することの後ろめたさが、喉の奥に貼りついていた。


 だが、やるしかなかった。上杉の命運がかかっている。会津の紙幣を信じてくれた商人がいる。左内の帳場がある。於松の「信頼」がある。それを守るために、秀康の不満を使う。正しくはないかもしれない。だが必要だった。


 名古屋が小さく頷いた。「道及殿が関東で動くなら、秀康殿の周辺にいる蒲生旧臣を紹介できます。蒲生家が潰れた後に結城家に仕えた者が何人かいる。道及殿の取り次ぎになるかもしれません」


 湊は名古屋を見た。華やかな外見の裏に、人脈の網が張られていた。蒲生家の崩壊後、散り散りになった家臣たちが各地に散らばっている。その一部が結城秀康のもとにいる。名古屋はそれを知っていた。


 「名古屋殿。その蒲生旧臣の名前を、道及殿に伝えてもらえますか」


 「承知しました。三人います。一人は秀康殿の近習に取り立てられた者で、結城の城下で暮らしています。もう一人は下野で浪人をしている。三人目は秀康殿の領内で庄屋をしている。いずれも蒲生時代は会津にいた者で、わしの顔は覚えているはずです。紹介状を書きます」


 浅香が名古屋を見た。


 「お前、そういうの全部覚えてるんだな」


 「蒲生の仲間ですから。散り散りになっても、消息は追っています」


 名古屋の声は軽やかだったが、そこに蒲生家臣としての矜持が滲んでいた。主家が潰れても、仲間の消息を追い続ける男。派手な外見に似合わぬその律儀さが、今、上杉の武器になろうとしている。


 浅香と名古屋が去った。二人の足音が廊下に消え、雪解け水の音だけが残った。曽根だけが残った。囲炉裏の火が低くなっている。曽根は火を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 「湊殿」


 「はい」


 「武田が滅んだのも、家中の歪みからだった」


 曽根の声が静かになった。墨のついた指で、膝の上をなぞっている。無意識の仕草だった。


 「信玄公の後継を巡って、義信殿と勝頼殿の間に亀裂が走った。家臣が割れた。義信派と勝頼派に分かれ、互いを疑い、互いを排除しようとした。わしはそれを内側から見ていた。止められなかった。義信殿は幽閉され、自害された。あの日のことは、四十年経った今でも忘れられない」


 曽根の声が震えた。わずかに、だが確かに。墨のついた指が、膝の上で握られていた。


 「家臣が割れる時、最初に壊れるのは信頼だ。昨日まで隣で戦っていた男が、翌日には敵になる。それが後継者争いの恐ろしさだ」


 火がぱちりと爆ぜた。


 「今、同じことを外から仕掛けようとしている。因果なものだ」


 湊は曽根を見た。曽根の目は火を見ている。だがその火の向こうに、四十年前の武田の崩壊を見ているのだろう。自分が内側で経験した悲劇を、今度は外側から他家に仕掛ける。それが因果だと、曽根は言っている。


 「曽根殿。武田と徳川は違いますか」


 「違わない。どの家も同じだ。主が衰えれば、後継を巡って家臣が割れる。人の欲は時代が変わっても変わらない。だからこそ、湊殿の策は効く。効いてしまう」


 曽根は茶碗を手に取り、もう冷めた茶を飲み干した。


 「もう一つ。真田から文が来ている」


 湊は顔を上げた。


 「昌幸殿の弟、信尹殿が会津に来たいと言っている。わしの旧知だ。武田の頃から切れる男だった」


 「信尹殿が」


 「使者としてこれ以上の人材はいない。武田旧臣、真田の名、徳川にも仕えた経歴。どの家に行っても顔が通る男だ。道及殿とは性質が違う。道及殿は影に入る男だが、信尹殿は表に立てる男だ。大名の座敷に上がれる」


 湊の頭の中で、駒が一つ増えた。道及が裏、信尹が表。二人が揃えば、関東から九州まで糸が張れる。


 「いつ来られますか」


 「文の日付からすれば、もう発っているだろう。十日もすれば着く」


 曽根は立ち上がった。膝の埃を払い、襖に手をかけた。振り返って、一言だけ言った。


 「湊殿。わしは武田の崩壊を止められなかった。だが上杉は止める。そのために図面を引いている。城だけではない。この国の形を引いている」


 曽根が去った。部屋に湊一人が残った。囲炉裏の火が灰に沈みかけている。


 秀康の不満を利用する。武田の崩壊と同じ手を、外から仕掛ける。それを因果だと曽根は言った。因果でも、やるしかない。上杉を守るために、徳川を内から揺さぶる。湊にはそれしかなかった。


 曽根の震えた声が耳に残っていた。四十年前の武田の崩壊を語る時、あの男の声は震えた。城の図面を引く時には微動だにしない手が、義信の名を口にした時に握られた。曽根にとって後継者争いは、分析の対象ではない。傷だ。その傷を持つ男に、同じ手を他家に仕掛けさせている。湊はその重さを忘れてはならないと思った。


 浅香の言葉も残っていた。「家康殿は次の時代まで見ている。目の前の戦だけを見ている大名とは、考え方の桁が違う」。その通りだ。家康は戦の先を見ている。だからこそ秀忠を選ぶ。治世の器を。湊もまた、戦の先を見なければならない。上杉が生き残った後、何を作るのか。紙幣と帳面で支える国は、戦が終わった後にこそ意味を持つ。


 懐の帳面に手を当てた。帳面と「信頼」の紙片。紙幣で国を支え、情報で敵を削り、人の心を利用して時間を稼ぐ。全部が同じ懐に入っている。


 十日後に信尹が来る。道及は三日後に発つ。名古屋が紹介状を書く。駒が揃い始めている。


 湊は灰になりかけた火に、炭を一つ足した。火が炭を掴み、赤い光が部屋に戻った。


 あとは、春が来るのを待つだけだった。

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