134話:帰還
軒先の氷柱が消えていた。昨日まで残っていた最後の一本が、朝には跡形もなくなっている。屋根から雪が滑り落ちる音が、一日に何度も聞こえるようになった。三月。会津の冬が、ついに折れた。
左内の帳場で庄内米の輸送計画を詰めていた時だった。上泉が帳場の戸を開けた。息が白い。走ってきたらしい。
「湊殿。道及殿が戻りました」
湊は帳面を閉じた。左内と目を合わせ、小さく頷いた。左内は何も言わなかった。道及が何の任務で関東に行っていたか、左内は知らない。だが帳面を閉じる湊の速さで、それが軽い用事ではないことを悟ったのだろう。
「行ってください。帳面は預かります」
湊は帳場を出た。雪解け水が道の端を流れている。水の量が昨日より多い。上泉と並んで歩きながら聞いた。
「道及殿の様子は」
「痩せておられます。だが足取りは確かです。今、湊殿の部屋でお待ちです」
痩せている。一月の関東行で、どれだけの道を歩き、どれだけの人間と会い、どれだけ眠れない夜を過ごしたか。道及は何も言わないだろう。この男は自分の苦労を口にしない。
部屋に入ると、道及が座っていた。囲炉裏の前で、両手を火にかざしている。関東から会津への帰路は、まだ冬の名残が残る山越えだったはずだ。旅装のまま。泥がついた脚絆をまだ外していない。草鞋は玄関で脱いだようだが、足袋にも泥が滲んでいた。一月の道のりが、足元に刻まれている。
顔を見て、湊は息を呑んだ。痩せたという上泉の言葉は控えめだった。頬が削げ、顎の線が鋭くなっている。白髪が増えたようにも見える。だが目は違った。疲れてはいるが、鈍ってはいない。一月分の情報を抱えた目。報告すべきことがある人間の目だった。
「お帰りなさい。まず休んでください」
「いえ。先に報告を。忘れないうちに」
道及の声は掠れていた。喉を痛めている。冬の山道で冷たい空気を吸い続けたのだろう。湊は茶を淹れた。湯気が道及の顔を包んだ。道及は茶碗を両手で包み、しばらく温もりを味わうように目を閉じた。一口飲み、それから話し始めた。
「佐竹から。義宣殿の側近、小貫頼久殿と接触しました。関八州の絵図を描いた折、佐竹領も調べて回りましたので、その時に面識を得た方です。話は通りました」
「義宣殿の反応は」
「前向きです。上杉との連携に興味を持っている。ただし——」
道及は茶碗を置いた。
「父の義重殿が壁です。義重殿は慎重な方で、家康と事を構えることを嫌っている。義宣殿がいくら前向きでも、義重殿が首を縦に振らなければ佐竹は動けない。小貫殿の言葉を借りれば、『若殿は走りたがっている。だが手綱を握っているのは御隠居だ』と」
湊は黙って聞いた。義重と義宣の関係。史実でも、関ヶ原で佐竹が動けなかった最大の原因は義重だった。義宣は西軍に味方したかったが、義重が止めた。結果、佐竹は中立を保ち、戦後に秋田へ減封された。
「二つ目。三成殿の件」
「島左近殿の配下に、忠興の動きを伝えましたか」
「伝えました。左近殿の配下——田中という男です。堺で会いました。忠興が本多正信と密会していること、武断派が家康の屋敷に出入りしていること、すべて渡しました」
「三成殿本人に届いたかは」
「わかりません。田中は確かに受け取りました。だが左近殿を通じて三成殿に届くかどうかは、左近殿の判断次第です。左近殿は慎重な方だと聞いています。情報の真偽を確かめてからでないと、三成殿には上げないでしょう」
湊は頷いた。島左近の慎重さは、この場合はむしろありがたい。情報が確認されてから三成に届けば、三成は信用する。慌てて伝えて疑われるより、遅くても確実な方がいい。
「三つ目」
道及の目が一段鋭くなった。ここからが本題だという目だった。
「堺の噂——上杉が会津で大普請を始めるという噂の出所を追いました」
「掴めましたか」
「噂そのものの出所は掴めませんでした。商人の間で自然に広がった形になっていて、最初に誰が言い出したかは消されている。だが、一つだけ掴んだことがあります」
道及は懐から小さな紙片を取り出した。名前が二つ書いてある。
「噂を広めている商人の一人が、堺の両替商・淡路屋です。この淡路屋の番頭が、月に二度、江戸の本多正信殿の屋敷に出入りしています。商用という名目ですが、正信殿の屋敷に出入りする商人は限られている。しかも番頭が直接行く。普通の商取引なら手代で済む話です」
湊の頭の中で、線が繋がった。堺の噂の背後に本多正信がいる。道及が以前報告した忠興と正信の密会。兼続と分析した「家康が意図的に上杉謀反の空気を作っている」という読み。その読みが、今、淡路屋という具体的な名前を伴って裏付けられた。点と点が線になり、線が一本の策として見えてきた。
「正信が堺の商人を使って噂を流している」
「断定はできません。だが、繋がりは確かにある。正信殿は家康の懐刀です。あの方が動いているなら、家康の指図と見て間違いない」
道及は茶碗を両手で包んだ。指が白くなっている。冷えているのだ。一月の旅路の疲れが、指先に溜まっている。
「道及殿。もう一つ、聞きたいことがあります」
「何です」
「徳川家中の後継者争い。何か見えましたか」
道及の眉がわずかに動いた。湊が後継者争いに関心を持っていることに、少し驚いたようだった。
「見えました、というほどではありません。ですが、関東にいれば空気は感じます」
道及は茶を一口飲んだ。
「結城秀康殿は、能力が高い。武勇も知略もある。だが家康殿は秀康殿を後継にする気がない。秀康殿自身もそれを感じている。周囲の者は口には出さないが、秀康殿が嫡子から外されたことへの不満がある。本多正信殿は秀康殿に近い位置にいますが、同時に家康殿の側近でもある。正信殿がどちらに付くかで、家中の空気が変わる」
「秀忠殿は」
「大久保忠隣殿が後見しています。秀忠殿は真面目な方だと聞いていますが、武功がない。関東の武士たちの間では、秀忠殿より秀康殿を推す声が多い。ただ、家康殿の意思は秀忠殿にある。そこに歪みが生まれている」
「四男の忠吉殿は」
「榊原康政殿が付いています。忠吉殿はまだ若いが、武勇に優れると評判です。秀康殿と秀忠殿の争いが激しくなれば、忠吉殿が漁夫の利を得る可能性もある。ただ、今のところ忠吉殿自身に野心は見えません」
湊は目を閉じた。道及の報告を頭の中で組み立てている。秀康の不満、秀忠の脆さ、忠吉の可能性。三つの線がある。どこに楔を打てば、最も効果的に家康の足を止められるか。
未来の知識が頭の隅で囁いている。関ヶ原で秀忠は中山道を進軍し、真田昌幸の上田城に足止めされて本戦に間に合わなかった。あれは秀忠の能力不足だったのか、それとも別の力が働いていたのか。大久保忠隣が傍にいながら、なぜ上田城に拘泥したのか。秀忠の遅参には、まだ見えていない文脈があるのかもしれない。
そして秀康。関ヶ原の後、結城から越前に移封されたが、三十四歳で早逝する。能力がありながら報われなかった男。その不満を今の段階で煽れば、家康は内部の調整に時間を取られる。外に向ける力を、内に向けさせる。それが湊の狙いだった。
「道及殿。次の任務です」
道及は顔を上げた。一月ぶりに帰ってきたばかりの男に、湊はまた任務を告げようとしている。その重さは分かっていた。道及の指が白いことも、喉が掠れていることも、頬が削げていることも、全部分かっていた。分かった上で、言わなければならない。
「徳川家中の後継者争いを、もっと深く探ってほしい。秀康殿の周囲に入り込めるか。秀康殿に近い武士や商人に接触して、不満の温度を測ってほしい」
「探るだけですか。それとも仕掛けますか」
「まず探る。仕掛けるのは、情報が揃ってからです。拙速に動けば足がつく。道及殿の身が危なくなる」
道及は黙った。囲炉裏の火が爆ぜ、小さな火の粉が散った。道及の顔を赤く照らし、すぐに消えた。
「承知しました。佐竹の件も並行して動きますか」
「いえ。佐竹は次の段階です。まず義重殿を動かす材料が要る。秀康殿の周辺を探ることで、徳川の内情が見えてくる。それが佐竹への説得材料になる。義重殿が慎重なのは、家康の強さを知っているからだ。家康の内側に亀裂があると分かれば、義重殿の態度も変わるかもしれない」
道及が小さく頷いた。湊の考えの筋道を、すぐに理解した。この男は頭がいい。戦場を駆けた武将であると同時に、関八州の地図を描き上げた頭脳を持っている。
「いつ出ますか」
「十日は休んでください。体を戻してから」
「五日で十分です」
湊は言葉を探した。五日では足りない。道及の体は限界に近い。だが道及の目は、五日で出ると決めた目だった。この男を止めることは、湊にはできなかった。
「……分かりました。五日後に」
道及が立ち上がりかけた。湊が止めた。
「もう一つだけ。佐竹の義宣殿は、どんな方でしたか。小貫殿から聞いた印象で構いません」
道及は少し考えた。
「あなたに似ている、と思いました」
「俺に」
「目の前のことから逃げない方だと。義宣殿は若い。父の義重殿とは考え方が違う。上杉と組みたい、三成殿を支えたい、家康に屈したくない。その気持ちは本物です。だが父親に勝てない。義重殿の前に出ると、義宣殿は言葉を飲む。小貫殿がそう言っていました」
「父親に、勝てない」
「はい。そこだけが、湊殿とは違います。湊殿には父親がいないから」
道及の言葉が、妙に深く刺さった。湊にはこの世界に父親がいない。現代の父親は四百年先にいる。それは自由でもあり、孤独でもあった。義宣には超えるべき父がいる。湊にはいない。どちらが幸せかは分からなかった。
道及が去った。足音が廊下を遠ざかり、消えた。囲炉裏の火だけが残った。
湊は立ち上がり、兼続の屋敷に向かった。報告すべきことが三つある。佐竹の反応。三成への情報伝達。そして堺の噂と本多正信の繋がり。
兼続は書院にいた。前回と同じ場所に座っていた。火鉢は今日もない。だが前回ほど寒くはなかった。春が近づいている。書院の障子に、外の光が淡く透けていた。冬の間は灰色だった光が、わずかに白くなっている。
「道及が戻りました」
「聞いた。上泉から報せがあった。報告を」
湊は三つの報告を順に出した。兼続は黙って聞いた。佐竹の件では表情を変えず、三成の件でもわずかに頷いただけだった。だが三つ目——堺の噂と淡路屋と本多正信の繋がりを聞いた時、兼続の目が変わった。鋭く、冷たく、だが同時に熱を帯びた。獲物を見つけた鷹の目だった。
「正信か」
「はい。断定はできませんが、繋がりは確かです」
兼続は立ち上がった。障子を開けず、部屋の中を歩いた。三歩で壁に当たり、向きを変え、三歩で戻る。狭い書院の中を、獣のように歩いた。
「家康は本気だ」
兼続の声が低かった。
「正信が動いているなら、家康の意思だ。噂を流し、武断派を操り、上杉を追い詰める。すべて一つの計画だ。利家殿が倒れた瞬間に、その計画が動き出す」
「はい。時間がありません」
兼続は足を止めた。湊を見た。
「庄内の米は動いているか」
「八代が出発しています。雪解けと同時に輸送を始めます」
「神指城の図面は曽根に渡した。着工は四月だ」
兼続は再び歩き始めた。三歩、三歩。考えている。天下の地図を頭の中に広げている。
「道及をまた出すのか」
「はい。徳川家中の後継者争いを探らせます」
兼続の足が止まった。湊を振り返った。
「後継者争い。お前はそこまで見ているのか」
「家康を外から止められないなら、内から揺さぶるしかありません」
兼続は長い間、湊を見つめていた。書院の空気が張り詰めている。やがて兼続は小さく息を吐いた。
「やれ。ただし道及を潰すな。あの男は替えが利かない」
「はい」
兼続の言葉の奥に、道及への敬意があった。佐野四天王の猛将を、兼続は正しく評価している。
湊は書院を出た。廊下の空気は、書院より温かかった。春の気配が、屋敷の中にまで入り込んでいる。
五日後、道及はまた関東に発つ。その間に利家が死ぬかもしれない。天下が動くかもしれない。春は、すべてを一度に連れてくる。雪解けの水が、音を立てて流れ始めていた。




