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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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133話:帳場の朝

 雪が薄くなっていた。道の端に寄せられた雪の山が、日ごとに低くなっている。軒先の氷柱はもう落ちて、屋根の雪が黒ずんだ土色を見せ始めていた。二月の終わり。会津の冬が、ようやく折れ始めた朝だった。


 左内の帳場に向かう道を、三人で歩いていた。湊が先頭。少し後ろに於松。さらにその後ろに於梅。


 於梅がいるのは予定外だった。


 朝、兼続の屋敷に迎えに行った時、於松は支度を整えて待っていた。紺の小袖に薄墨の帯。帳面を胸に抱えている。湊が声をかけようとした時、奥の部屋から於梅が飛び出してきた。


 「わたしも行く」


 於松が振り返った。


 「於梅。今日は帳場の見学です。あなたには退屈ですよ」


 「退屈かどうかは行ってみないとわからない」


 於梅は草履をもう履いていた。止める気がないことは明らかだった。於松が湊を見た。湊は一瞬だけ迷い、頷いた。於梅を置いていく方が面倒なことになる。経験上、そう学んでいた。


 兼続の姿はなかった。朝から景勝のところに行っているらしい。庄内の米の件を報告しに行ったのだろう。湊が昨日渡した左内の帳面が、もう兼続の手を離れて景勝に届いている。動きが速い。


 城下の通りは朝の賑わいが始まっていた。商人が荷を運び、職人が店を開け、子供が走り回っている。雪解け水が溝を流れ、その上を飛び越える子供の足が泥を跳ね上げた。於松は通りの様子を目で追っていた。帳面の数字でしか知らなかった城下の暮らしが、目の前にある。


 「炭屋が三軒、並んでいますね」


 於松が小さく言った。声が少し高くなっていた。屋敷の外に出ること自体が、於松にとっては珍しいのだろう。兼続の娘は、城下を歩き回るような生活をしていない。


 「はい。その三軒が紙幣で取引をしている商人です。看板の横に小さな札が貼ってあるのが見えますか」


 「あの木札ですか。松の一枚板で、墨で何か書いてある」


 「紙幣取扱の印です。左内殿が考えた目印で、あの札がある店では紙幣が使える。商人にとっても客にとっても、一目でわかる仕組みです」


 於梅が横から顔を出した。二人の間に割り込むように首を伸ばして、木札を覗き込んだ。


 「あの札、かわいくないね。もっと色をつければいいのに。赤とか、藍とか。遠くからでも目立つように」


 湊は笑いかけて、止めた。於梅の言葉は軽いが、的を射ている。紙幣を使う敷居を下げるには、親しみやすさも必要だ。木札のデザインを変えるだけで、商人の印象が変わるかもしれない。現代の店舗でクレジットカードのロゴを貼るのと同じ発想だ。於梅は無自覚に、マーケティングの核心を突いている。


 左内の帳場は通りの奥にあった。間口は狭いが、奥に長い造りだ。戸を開けると、炭と墨の匂いが混じった空気が流れてきた。


 左内が立ち上がって迎えた。於松と於梅を見て、一瞬だけ目を見開いた。於梅は想定外だったのだろう。だがすぐに表情を戻し、二人に頭を下げた。


 「於松殿、ようこそ。帳場は狭いですが、どうぞ」


 「お邪魔いたします。父から許しをいただきました。帳場を見せていただけるとのこと、ありがとうございます」


 於松は深く頭を下げた。礼の角度が正確だった。兼続の娘らしい所作だと、左内の目が少し細くなった。


 「於梅殿も。いらっしゃいませ」


 於梅はきょろきょろと帳場の中を見回していた。棚に並んだ帳面、壁にかけた算盤、隅に積まれた炭俵。帳場というより、数字の城だった。天井が低く、明かり取りの小窓から差し込む光が帳面の上に細い線を引いている。


 「ここで商人とやり取りをするんですか」


 「はい。朝から夕方まで、ここで紙幣の兌換と記録をしています」


 於梅は炭俵を指差した。「あの炭も紙幣で買ったもの?」


 「商人が紙幣の代わりに置いていったものです。紙幣の信用が、ああいう形で目に見えるようになった」


 於松は帳場の奥に目を向けていた。棚の帳面に手を伸ばしかけ、止めた。左内の許しなく触れるのは礼を欠く。その抑制を、左内は見ていた。


 「どうぞ。お手に取ってください。湊殿に渡している帳面の元帳です」


 於松は帳面を一冊取り、開いた。指が数字をなぞる。いつもの仕草だが、今日は速度が違った。写しではなく原本を見ている。数字の密度が違う。書き込み、修正、注釈。左内の筆跡が帳面の余白を埋め尽くしている。ある数字の横に小さく「要確認」と書かれ、別の数字には日付と商人の名が添えられていた。帳面は記録であると同時に、左内の思考の痕跡だった。


 「……写しには載っていない数字がある」


 「はい。写しは要点だけを抜いています。原本には、商人ごとの取引の癖、値動きの記録、季節ごとの傾向が全部入っています。三年分の取引を追えば、会津の経済の流れが見える」


 於松はゆっくりと頁をめくった。一頁ごとに指が止まり、数字を確かめ、次に進む。左内は口を挟まなかった。於松の読み方を見ている。どこで止まり、何に気づくか。それ自体が、於松の能力を測る物差しだった。


 於松の指が止まった。ある頁を見つめている。


 「この数字。米の備蓄量ですね。ここだけ赤い印がついている」


 左内と湊が目を合わせた。於松が見つけたのは、昨日左内が湊に見せた数字だった。紙幣の裏付けとなる蔵の米。赤い印は、左内が「ここが問題だ」と湊に示した箇所。


 「於松殿。何が気になりましたか」


 左内が聞いた。試しているのではなかった。純粋に、於松の目がどこを見るかを知りたかった。


 「この備蓄量で、紙幣の兌換をすべて賄えるのか。帳面を見る限り、紙幣の流通量は増えている。でも備蓄量は変わっていない。流通量と備蓄量の比率が、月ごとに開いている」


 左内が息を吐いた。短く、だが深く。


 「湊殿。この方を帳場に連れてきて正解でした」


 湊は頷いた。於松は帳面を二度見ただけで、紙幣制度の急所を見つけた。左内が「あの目が要る」と言った通りだった。


 於梅は帳場の入口近くに座り、通りを眺めていた。商人が荷車を押して通り過ぎるのを目で追いながら、何かを考えている様子だった。


 「ねえ、湊殿」


 「はい」


 「商人さんたちは、紙幣を好きで使ってるの? それとも仕方なく?」


 湊は言葉を探した。於梅の質問は単純だが、紙幣制度の根幹に触れている。


 「両方です。便利だから使う人と、左内殿の信用があるから使う人がいる。今はまだ左内殿の信用に頼っている部分が大きい。便利さが上回れば、自然に広がる」


 「じゃあ、左内殿がいなくなったら?」


 帳場の空気が一瞬、止まった。於梅は悪気なく聞いている。だがその問いは、湊がまだ答えを出していない問題だった。左内という個人の信用に依存する紙幣は、左内がいなくなれば崩壊する。制度として自立させるには、左内の信用を仕組みに変換しなければならない。


 現代なら中央銀行がその役割を果たす。個人ではなく制度が通貨の信用を保証する。だがこの時代に中央銀行は作れない。では何が左内の代わりになるか。湊はずっと考えていたが、まだ答えが出ていなかった。


 左内が口を開いた。声に重みがあった。


 「於梅殿。良い問いです。わしもそれを考えています。わしが倒れても紙幣が回る仕組みを、湊殿と一緒に作っている最中です。帳面の書き方を統一し、誰が記録しても同じ結果が出るようにする。蔵の米の管理を複数の人間で確認する。一人の信用ではなく、仕組みの信用に変えていく。まだ途中ですが」


 於梅はにっこりと笑った。


 「難しいことはわからないけど、左内殿が元気なうちに作った方がいいよ」


 左内は声を上げて笑った。帳場に笑い声が響いたのは、おそらく初めてだろう。於梅にはそういう力がある。場の空気を、一瞬で変える力。


 昼近くになって、商人が一人やってきた。蝋燭屋の主人だった。四十がらみの痩せた男で、額に汗をかいている。寒い日にかく汗は、暑さのせいではない。紙幣を差し出し、米への兌換を求めた。左内が帳面に記録し、蔵から米を量って渡す。その一連の流れを、於松は食い入るように見ていた。於梅も、いつの間にか通りを見るのをやめて、商人のやり取りを見つめていた。


 商人が頭を下げて去った後、於松が言った。


 「商人の手が震えていました」


 湊は気づいていなかった。


 「紙幣を出す時、指先がわずかに震えていた。あの方は、紙幣を信じ切れていない。信じたいけれど、まだ怖い。銭なら目に見えるけれど、紙は紙だから」


 左内が頷いた。深く、ゆっくりと。


 「その通りです。あの蝋燭屋の主人は、先月から紙幣を使い始めたばかりです。まだ三度目の兌換。手が震えなくなるまで、あと五度は通ってもらわなければならない」


 「その五度の間に、何かが起きたら」


 於松の声が低くなった。何かが起きたら。戦が起きたら。米がなくなったら。紙幣が紙屑になったら。於松は言葉にしなかったが、その先を見ていた。昨日の帳面で備蓄量の問題に気づき、今日は商人の手の震えを見た。数字と人の両方から、同じ不安が浮かび上がっている。


 左内が静かに言った。


 「だからこそ、備蓄を守らなければならない。商人の手が震えなくなるまで、蔵の米は減らさない。それが、わしと湊殿の約束です」


 於松は左内を見た。左内は帳面を閉じ、両手を膝の上に置いていた。その手は震えていなかった。商人の信用を預かる男の手は、静かだった。


 湊は於松の横顔を見た。帳面を抱え、商人の手の震えに気づき、紙幣の脆さを見抜いた。この人は数字を読んでいるのではない。数字の向こうにいる人の心を読んでいる。


 帳場の外で、子供の笑い声が聞こえた。春が近いから、子供たちが外に出始めている。その声に、於梅が反応した。


 「ねえ、お姉様。帰りにお菓子を買って帰りましょう」


 「於梅」


 「だって、せっかく城下に出たんだから。父上へのお土産にもなるし」


 於松の肩がわずかに揺れた。あのさざ波。帳場で紙幣の急所を見抜いた直後に、妹がお菓子の話をする。その落差に、於松自身が救われている。


 左内が帳面を閉じた。


 「於松殿。また来てください。帳面の写しではなく、原本を一緒に見たい。商人が来る時間に合わせて来ていただければ、生きた数字をお見せできます」


 「はい。ぜひ」


 於松の声は静かだったが、芯があった。帳面の外の世界に、一歩踏み出した声だった。


 三人で帳場を出た。外の空気は朝より温かかった。雪解け水が道の端を流れている。小さな流れだが、確かに流れている。冬が終わりかけている。通りの人の数も、朝より増えていた。


 於梅が先に歩き出した。菓子屋を探しているらしい。通りの看板を一つずつ確認しながら、小走りで進んでいく。於松と湊が少し後ろに残った。二人の間に、帳場で過ごした半日分の沈黙があった。言葉にしなくても共有できるものが、少しずつ増えている。


 「湊殿」


 「はい」


 「商人の手の震え。あれを止めるのが、紙幣の本当の仕事ですね」


 湊は足を止めた。於松の言葉が、胸の奥に落ちた。紙幣の流通量でも、兌換率でも、備蓄量でもない。商人の手が震えなくなること。それが紙幣の完成形だ。


 「……はい。その通りです」


 於松は前を向いた。於梅の背中を目で追いながら、小さく言った。


 「わたくしにできることがあれば、何でも言ってください」


 その声は、帳場で帳面を読んでいた時とは違っていた。数字の正確さではなく、人としての覚悟がこもっていた。帳面の外に出た於松は、もう帳面の中には戻れない。数字の向こうに商人の手の震えがあることを知ってしまった。知った以上、目を逸らすことはできない。於松はそういう人だった。


 於梅が振り返った。


 「お姉様、湊殿、早く。あの店、栗饅頭がある」


 於松の口元にさざ波が立った。湊も笑った。戦の準備と、紙幣の急所と、栗饅頭。全部が同じ城下の通りにある。


 三人は菓子屋に向かった。於梅が栗饅頭を三つ選び、湊が銭を出した。於松は饅頭を受け取りながら、通りの炭屋の木札をもう一度見た。あの木札の向こうに、商人の震える手がある。紙幣の信用は、数字ではなく人の手で測る。今日、於松はそれを学んだ。


 春の匂いがした。雪の下から立ち上る、土と水の匂い。冬が終わる。帳面の季節が変わる。


 そして、その春に何が来るか、湊だけが知っていた。

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