136話:真田の影
水音が変わった。屋根からの雪解けではなく、地面を流れる水の音。溝が溢れ、道の端に小さな川ができている。三月の半ば。会津の春は、足元から始まっていた。
左内の帳場で庄内米の輸送状況を確認していた。八代からの飛脚が昨日届き、庄内の蔵元との交渉が成立したと報せてきた。春の雪解けと同時に、最初の荷を出せる手筈が整った。左内が帳面に数字を書き込んでいく。第一便は馬二十頭、米四百俵。大峠の雪が消え次第、動き出す。
帳場の戸が開いた。曽根だった。
「湊殿。信尹殿が着いた」
筆を止めた。予定より二日早い。左内が帳面を閉じ、湊を見た。
「行ってください。帳面はわしが」
湊は帳場を出た。曽根と並んで歩く。兼続の屋敷に向かう道は、雪解け水で泥濘んでいた。曽根は泥を気にせず大股で歩きながら、口を開いた。
「信尹殿のことを少し話しておく」
「お願いします」
「武田の頃から、信尹は間者と使者の両方をこなした。昌幸殿が表の策士なら、信尹殿は裏の策士だ。だが裏にいながら、表にも立てる。それがあの男の特異な点だ」
曽根の目が遠くなった。武田、徳川、蒲生。共に主を渡り歩いてきた男の目だった。
「大名の座敷に上がれる真田の名と、影に消える間者の技。その両方を持っている人間は、わしの知る限り信尹殿だけだ。武田が滅びた後、徳川に仕え、北条と渡り合い、その後は蒲生家でわしと共に九戸の乱も戦った。どんな場所でも息ができる男だ。目立たぬところで、戦の形を作る」
兼続の屋敷に着いた。客間に通された。襖を開けると、一人の男が座っていた。
五十がらみ。痩せた体躯に地味な旅装。髭は短く整えられ、髪には白いものが混じっている。武士というより商人に見える風貌だった。街を歩いても誰の目にも留まらないだろう。目立たないことが、この男の武器なのだと湊は瞬時に理解した。
だが、目だけが違った。
湊と目が合った瞬間、信尹の瞳が動いた。上から下へ、一瞬で全身を見る。刀の位置、手の位置、体の重心。品定めをしている。武士の目だった。商人の皮を被った、戦場の目。その目が曽根を捉え、わずかに緩んだ。旧友への目だった。
「曽根殿。元気そうだな」
「お前こそ。蒲生が潰れた後、どこにいた」
「あちこちだ。兄の所に転がり込んでいた」
二人は短く笑い合った。蒲生家で共に仕え、九戸の乱でも轡を並べた同僚同士の再会。一年ほどの別離だが、その一年で天下の形が変わり始めていた。
信尹が湊に向き直った。
「清原湊殿か」
声は穏やかだった。低く、落ち着いている。だがその穏やかさの底に、何かが沈んでいる。湊にはそれが何か、まだ分からなかった。
「はい。お待ちしておりました」
「兄——昌幸から書状を預かっている」
信尹は懐から書状を取り出し、湊の前に置いた。封を切った。昌幸の筆跡は荒い。だが内容は明確だった。
上杉との連携を望む。そのための連絡役として弟の信尹を遣わす。上杉と真田は共に家康に対峙する立場にあり、協力は両家にとって利がある。
湊は書状を置いた。
「連絡役だけですか」
信尹の口元がわずかに動いた。笑みとも言えない、微かな変化だった。
「兄はそう書いている。だが湊殿、あなたは連絡役以上のものを求めておられるのでは」
湊は隠さなかった。この男には、隠しても意味がない。品定めの目を持つ男は、嘘を見抜く。
「使者として動ける人材が必要です。大名の座敷に上がれて、同時に影の仕事もできる方が。道及殿は裏の仕事に長けていますが、大名への正式な使者にはなれない。真田の名を持つ信尹殿なら、両方ができる」
信尹は茶碗を手に取った。一口飲み、置いた。
「買いかぶりだ。わしはただの真田の弟に過ぎない」
曽根が横から口を挟んだ。
「謙遜するな。武田の頃からお前はそうだった。信玄公が北条との交渉に困った時、誰を送った。お前だ。勝頼殿が織田との間合いを測りたい時、誰が動いた。お前だ。真田の弟ではない。真田の影だ」
信尹は曽根を見た。武田から蒲生まで、二つの家を共にした男同士が交わす目だった。
「曽根殿。昔話はやめてくれ」
「事実を言っているだけだ」
信尹は小さく息を吐いた。降参の息だった。
「昌幸からの伝言がもう一つある」
湊は姿勢を正した。
「家康が上洛を求めてくる前に、上杉から動くべきだと兄は言っている。待っていては後手に回る。上杉が会津で城を築き、兵を整え、外交を固める。それを見た家康が難癖をつけてくる前に、布石を打っておけと」
「昌幸殿の見立ては」
「家康は今年中に動く。利家殿が倒れれば、歯止めがなくなる。三成殿を排除し、上杉に上洛を命じ、従わなければ討伐の大義を立てる。兄はそう読んでいる」
湊の背筋が冷えた。昌幸の読みは、湊の未来知識とほぼ一致していた。この時代の人間が、未来知識なしにここまで正確に読めるのか。真田昌幸という男の恐ろしさが、弟の口を通じて伝わってきた。
信尹が続けた。
「兄は上田に城を持ち、中山道の要を押さえている。家康が北に向かえば、背後を突ける位置にある。だが真田だけでは力が足りない。上杉と真田が連携すれば、家康は北と西の両面を見なければならなくなる。兄が連絡役としてわしを送ったのは、その連携を実のあるものにするためだ」
「信尹殿ご自身は、どうお考えですか。昌幸殿の意思と、ご自身の意思は同じですか」
信尹は少し間を置いた。茶碗を両手で包んだまま、火を見ている。
「同じだ。家康殿が天下を取れば、真田は生き残れても飼い犬になる。兄はそれを嫌う。わしも嫌う。真田は真田のまま生きたい。そのために上杉と組む。利害が一致している。それ以上の理由は要らないだろう」
率直な男だった。嘘をつける男が、嘘をつかない時の言葉には重みがある。
襖が開いた。於梅が茶を載せた盆を持って入ってきた。三人分の茶碗を並べ、湯を注ぐ。手慣れた所作だが、目は信尹を観察している。見知らぬ客への好奇心を隠さない。信尹を見て、首を傾げた。
「あの、失礼ですが……真田殿というのは、あの真田昌幸殿の弟君ですか」
信尹が目を細めた。苦笑に近い表情だった。
「そうだ。だが兄とは違って、わしは地味な方の真田です」
「地味ですか? でも真田は真田ですよね。お父上は武田信玄殿にお仕えになって、今は上田のお城を守っておられるのでしょう? すごいですよ」
於梅は遠慮なく言った。曽根が小さく笑った。信尹の口元も緩んだ。本物の笑みだった。地味な方の真田と言われて、嫌な顔をしない。この男は自分の立ち位置を分かっている。影であることを受け入れている。だが於梅に「すごい」と言われた時、ほんの一瞬だけ、信尹の目の奥に温かいものが灯った。地味な男にも、認められたい気持ちはある。
於梅が去った。襖が閉まり、空気が戻った。だが信尹の表情は、於梅が来る前より少しだけ柔らかくなっていた。
湊は信尹を見つめていた。この男を信用できるか。真田昌幸は天下一の策士だが、同時に最も信用できない男でもある。上杉に味方しながら、徳川にも手を打つ。北条にも手を伸ばす。真田は常に複数の選択肢を残す。信尹もその血を引いている。
だが信尹個人を見る。曽根が信頼している。曽根は武田崩壊を内側から見た男だ。人を見る目は確かだ。裏切る男を、曽根は推さない。
そしてもう一つ。信尹の目は、品定めをした後に結論を出していた。湊と会い、話を聞き、於梅のやり取りを見て、この場所に留まると決めた目をしていた。試す段階は終わっている。信尹は昌幸の命令で来たが、湊の器を見て自分の意思で残ることを決めた。命令と意思は違う。命令で動く男は、命令がなくなれば去る。意思で残る男は、最後まで留まる。
「信尹殿。最初の仕事をお願いしたい」
信尹が茶碗を置いた。
「聞こう」
「堺に行っていただきたい。銀次という男がいます。倭寇との交易を担っている上杉の商人です。間もなく堺に戻るはずです。銀次と合流して、西国の情勢を見てきてください」
「西国の何を見る」
「黒田官兵衛殿の動向を」
信尹の目が光った。穏やかな目ではなかった。獲物を見つけた目でもなかった。面白いものを見つけた目だった。戦略の匂いを嗅ぎ取った男の目。
「官兵衛殿か。あの方は家康殿とは違う獣だ。天下を狙える最後の男だと、兄も言っていた」
「信尹殿は官兵衛殿に会ったことは」
「ない。だが噂は知っている。秀吉殿が最も恐れた軍師。中国大返しを献策し、九州平定の絵図を描いた。隠居して如水と号したが、あれは隠居ではない。爪を隠しただけだ。秀吉殿が死に、天下が乱れれば、あの爪が出てくる」
「その通りです。官兵衛殿は九州にいる。息子の長政殿は家康寄りですが、官兵衛殿本人は違う。天下が乱れた時、九州で独自に動く。その動きが大きければ大きいほど、家康殿は西に兵を割かなければならない」
信尹が指で膝を叩いた。考えを整理する時の癖なのだろう。
「官兵衛殿が独自に動けば、家康殿は西にも目を向けなければならない。上杉が北で構え、真田が中山道を押さえ、官兵衛殿が九州で動く。三方から家康を縛る。その絵を描くために、まず官兵衛殿の温度を知りたい」
「温度、か。官兵衛殿の温度は、天下の乱れの規模で変わる。小さな乱なら動かない。だが大きな乱——関東と畿内が同時に揺れるほどの乱なら、九州で旗を揚げる。そういう男だと、兄は言っていた。では、上杉と真田がどれだけ大きく動けるかが、官兵衛殿の温度を決めることになる」
湊は頷いた。信尹の分析は正確だった。史実では関ヶ原が一日で終わったために、官兵衛は九州で動き始めたものの間に合わなかった。だが戦が長期化すれば、官兵衛は本気で天下を狙う。そのためには、上杉が北で粘ることが条件になる。
信尹は黙って湊を見ていた。長い沈黙だった。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響いている。
「湊殿。あなたは恐ろしい男だ」
「恐ろしい、ですか」
「二十代の若者が、天下の図を引いている。北と中と西を同時に見ている。兄の昌幸でさえ、ここまでの絵は描かない。いや、描けるかもしれないが、実行する人材がいない。あなたには、道及殿がいて、わしを使おうとしている。駒を揃える力がある。それが恐ろしい」
湊は答えなかった。恐ろしいと言われても、返す言葉がなかった。未来の知識があるだけだ。駒を揃える力ではなく、歴史を知っているだけだ。だがそれは言えない。
「堺へは、いつ発てますか」
「三日後に。道中の手筈を整える時間をいただきたい」
「お願いします」
信尹が立ち上がった。襖に手をかけ、振り返った。
「湊殿。一つだけ聞いてよいか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜそこまで上杉のために動く。真田の人間でもない。会津の生まれでもない。兼続殿に恩があるのは分かるが、それだけでここまでやる人間はいない」
湊は少し考えた。
「逃げたくないからです。目の前にやるべきことがあって、やれる力がある。なら、やる。それだけです」
信尹は湊の目を見つめ、やがて小さく頷いた。
「分かった。それで十分だ」
信尹が去った。曽根が残った。
「曽根殿。信尹殿を信じていいですか」
「信じろとは言わない。だが使え。あの男は使われることで力を発揮する。真田の影は、光があって初めて動く。湊殿、あなたが光になればいい」
曽根も去った。湊は一人、客間に残された。囲炉裏の火が赤く燃えている。
道及が裏、信尹が表。銀次が経済、八代が武、上泉が剣。駒が揃い始めている。だが駒を動かすのは湊だ。動かし間違えれば、駒が死ぬ。道及は今、関東で徳川家中に潜り込んでいる。信尹は三日後に堺へ発つ。八代は庄内で米を動かしている。三人が同時に、三つの方角で動く。一人でも欠ければ、絵が崩れる。その重さが、懐の帳面と一緒に胸を圧していた。
信尹が最後に言った言葉が頭に残っていた。「あなたは恐ろしい男だ」。恐ろしいのは湊ではない。歴史を知っているだけだ。だがその知識で人を動かし、国の形を変えようとしている。知識は武器だ。武器は人を傷つける。秀康の不満を利用し、官兵衛の野心を煽り、真田の力を借りる。すべてが人の心を利用する仕事だった。
春が来る。駒が動き始める。利家が死ぬ。天下が回り始める。
湊は立ち上がり、兼続の書院に向かった。信尹の到着と、官兵衛への布石を報告するために。廊下に出ると、春の風が頬に触れた。冬の風とは違う、湿り気を含んだ柔らかい風だった。




