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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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128話:水底の光

 三日後、また兼続の屋敷に呼ばれた。


 前と同じ小座敷だった。火鉢の位置も、障子の開き具合も変わらない。ただ雪の量が増えていた。庭の石灯籠が半分ほど埋まり、松の枝がしなるほど白く重い。屋根の雪が時折ずるりと滑る音がする。会津の冬は、音をすべて雪の下に埋めてしまう。町を歩いていても聞こえるのは自分の足音と、屋根から落ちる雪の塊だけだった。


 於松が座していた。前と同じ白い小袖。薄藍の帯。ただ、髪にひとつだけ違うものがあった。束ねた髪の根元に、細い紺の組紐が結んである。前回はなかった。些細な変化だが、湊の目はそれを捉えていた。三日前には気づかなかったはずのものに気づいている。自分の目が変わったのか、それとも於松が変えたのか。


 茶が二つ、前回と同じ位置に置かれていた。湯気が細く立っている。


 「帳面をお持ちしました」


 湊は懐から帳面を出した。三日分の兌換記録。数字は少ない。雪が深くなり、蔵への出入りがさらに減っている。


 「米の兌換が三件、銭が一件、物品はなし」


 於松が帳面を受け取った。指先が触れた。前回と同じ冷たさだった。


 「物品がないのは」


 「雪です。町に出る者が減りました。物品を持ち込む余裕がない」


 「では紙幣は手元に留まっていますか」


 「はい。持っているが使えない状態です。春まで紙幣が死蔵される恐れがあります」


 於松の指が帳面の上で止まった。


 「死蔵」


 「紙幣は流れなければ意味がありません。持っているだけでは、ただの紙です。流れて初めて、米になり、銭になり、炭になる。止まった紙幣は、止まった血と同じです」


 於松は帳面を見つめたまま、しばらく黙っていた。炭がぱちりと爆ぜた。庭の松から雪がぼたりと落ちた。湊の比喩が強すぎたかと思ったが、於松の表情は変わらなかった。むしろ、湊の言葉を自分の中で咀嚼しているように見えた。


 「冬の間に使える仕組みがあればいいのですね」


 湊は頷いた。


 「たとえば、紙幣で炭を買える場所を増やす。味噌、塩、蝋燭。冬に必要なものを紙幣で買えるようにすれば、紙幣は止まらない」


 「それは誰がやるのですか」


 「左内殿と相談しています。ただ、問題は商人の側です。紙幣を受け取っても、冬場は蔵に行けない。雪で道が塞がれば、紙幣を米に換えることもできない。紙幣で仕入れができなければ、商人にとって紙幣を受け取る意味がない。結局、銭の方が確実だということになる」


 「では、商人同士で紙幣を回す仕組みがあれば」


 湊の手が止まった。


 商人同士の紙幣流通。蔵を介さずに、紙幣が商人の間を巡る。それは手形に近い。左内もまだそこまでは踏み込んでいなかった。湊の頭の中に、現代の経済学の教科書が開いた。信用創造。銀行がなくても、信用さえあれば通貨は増殖する。だがそれには、紙幣の発行者への絶対的な信頼が必要だ。今の会津にはまだ早い。だが、いずれ必ずそこに辿り着く。


 「……それは、かなり先の話になります。今の紙幣はまだ、蔵の米を裏付けにしたただの兌換券です。商人同士で回すには、紙幣そのものに信用がなければならない」


 「信用は、どうすれば生まれますか」


 湊は答えを探した。法学部で学んだ知識が頭をよぎる。信用とは何か。制度が保証するのか、実績が積み上げるのか、それとも人が人を信じることなのか。教科書には「制度的信用」と「人格的信用」があると書いてあった。だがこの時代に制度的信用は薄い。紙幣を支えているのは、景勝と兼続の名であり、左内の帳面であり、蔵にある米だ。つまり、人だ。


 「……時間です。紙幣を使い続けて、一度も裏切られなかったという経験が積み重なって、信用になる。近道はありません」


 於松が顔を上げた。澄んだ黒い瞳が、湊を見ていた。


 「近道はないと知っていて、それでも作ろうとしている」


 問いかけではなかった。確認だった。湊はその目をまっすぐ受けた。


 「はい」


 「……強い方ですね」


 湊は首を振った。


 「強くはないです。ただ、他に方法がない。剣が使えるわけでもない。戦で先陣を切れるわけでもない。俺にできるのは、仕組みを作ることだけです。上泉殿のように剣で道を開けるなら、そうしたいと思うこともあります。でも、俺の手には剣ではなく帳面がある。それだけのことです」


 於松の目がわずかに揺れた。それは前回までになかった動きだった。水面が風で乱れるような、小さな揺れ。澄んだ水の底で、何かが光ったように見えた。


 「仕組みを作ることだけ、と申しますが」


 於松は帳面を閉じ、膝の上に置いた。


 「父も同じです。剣は下手です。戦は嫌いです。ですが、仕組みを作ることにかけては、誰にも負けぬと」


 「兼続様が戦嫌いとは知りませんでした」


 「嫌いというより、無駄が嫌いなのです。戦は無駄が多いと。人が死に、田が荒れ、銭が消える。それを防ぐために仕組みを作る。父はそう申しておりました」


 湊は黙って聞いていた。兼続の言葉を、於松の声で聞いている。それは不思議な感覚だった。兼続の前では決して聞けない、兼続の本音のようなものが、娘の口を通して漏れてくる。


 「湊殿は父に似ています」


 「俺が、兼続様に」


 「仕組みで人を守ろうとするところが。剣ではなく、理で」


 上泉が同じことを言っていた。「湊殿の道は、剣ではなく理で開かれている」と。上泉と於松が同じことを言う。それが偶然なのか、それとも湊という人間の本質がそこにあるのか。


 「上泉殿をご存じですか」


 「父からお話は。剣の達人で、湊殿のお側にいる方だと」


 「上泉殿にも同じことを言われました。俺の道は理で開かれていると」


 「では、皆が同じことを感じているのですね」


 於松の声に温度があった。前回までの静けさとは違う。水面の下で、何かが動いている気配がした。


 茶が冷めていた。於松が気づき、火鉢の脇に置いてあった鉄瓶から湯を注ぎ足した。白い湯気が二人の間に立ち上った。於松の手つきは滑らかだった。湯の量を測り、茶碗の縁で切り、一滴も溢さない。その所作ひとつに、育ちが出ていた。


 「……前回の栞、ありがとうございました」


 湊が言うと、於松の手が一瞬止まった。鉄瓶を戻す動きがわずかに乱れた。


 「栞などは」


 「感謝、と書いてありました」


 「……読まれたのですか」


 「帳面に挟んでありましたので」


 於松は黙った。視線が畳の目に落ちた。首筋がわずかに赤い。だが顔は上げなかった。指先が帯の端を無意識に摘んでいる。


 「あれは……帳面の整理のための覚書です」


 「感謝が覚書ですか」


 「帳面を丁寧に作ってくださったことへの、記録です」


 湊は黙った。覚書だと言うなら、そういうことにしておく。だが帳面に挟む覚書に「感謝」とだけ書く人間を、湊は於松以外に知らなかった。左内なら数字を書く。兼続なら指示を書く。「感謝」と書くのは、この人だけだ。


 「では、今回の帳面にも覚書を挟んでいただけますか」


 於松の目がわずかに見開かれた。それから、ほんの一瞬、口元がほころんだ。前回のさざ波よりも少しだけ大きな波だった。


 「……考えておきます」


 障子の向こうで、雪がまた松の枝から落ちた。どさりと重い音がした。


 「於松殿」


 「はい」


 「兼続様は、紙幣のことをどう見ていますか。俺の前では、いつも淡々としていて、本心が読めない」


 於松は少し考えるように目を伏せた。


 「父は……期待しています。ただ、父は期待するほど、厳しくなります。湊殿に厳しいのは、期待の裏返しです」


 「厳しいとは思っていません。的確だと思っています」


 「そう言えるのが、湊殿の強さです」


 二度目の「強い」だった。湊はまた首を振ろうとして、やめた。否定し続けるのは、於松の言葉を軽く扱うことになる気がした。この人が選んだ言葉を、軽々しく打ち返してはいけない。


 「……ありがとうございます」


 於松が目を伏せた。まつげの影が頬に落ちていた。火鉢の灯りが、その影をかすかに揺らしている。


 廊下から足音がした。今度は弾んでいない。落ち着いた、重い足音。


 「湊」


 襖が開いた。兼続だった。


 「帳面は終わったか」


 「はい。今、お返しいただいたところです」


 兼続の目が於松に移った。於松は姿勢を正し、帳面を父の前に差し出した。


 「父上。紙幣の冬場の流通について、湊殿と話をしておりました」


 兼続が帳面を受け取り、ぱらぱらとめくった。数字の少なさに眉がわずかに動いた。


 「冬は止まるか」


 「止まります。ですが、春には動きます」


 「春まで待てるか」


 「待たせません。冬場でも紙幣が回る仕組みを、左内殿と考えます」


 兼続は帳面を閉じた。於松を見た。於松は静かに座している。親子の間に言葉はなかったが、目だけで何かが交わされた気がした。湊には読めない言語だった。半年仕えていても、兼続の目の奥は読めない。於松はそれを読める。血の力か、それとも十八年かけて学んだ力か。


 「於松。覚書はつけたか」


 於松の肩がわずかに強張った。


 「……これからつけます」


 兼続の目が細くなった。笑ったのか、試しているのか、湊には判断がつかなかった。


 「そうか。丁寧につけろ」


 兼続はそれだけ言って、立ち上がった。襖を閉める直前に、ちらりと湊を見た。その目は何も言っていなかった。だが、何もかも見ていた。


 兼続が去った後、部屋に沈黙が残った。炭が崩れ、灰が薄く舞った。兼続の足音が廊下の奥で消えるまで、二人とも動かなかった。


 「……父は、知っています」


 於松が小さく呟いた。声が少し震えていた。だがそれは恐れではなく、気恥ずかしさのようだった。


 「覚書のことですか」


 「全部です」


 湊は笑いそうになった。兼続の娘が「全部」と言うなら、本当に全部なのだろう。帳面のことも、栞のことも、二人がどんな顔で話していたかも。


 「怖い父上ですね」


 「怖くはありません。ただ、逃げられないだけです」


 於松の声に、初めて色がついた。諦めでも、不満でもない。敬意と、少しの可笑しさが混じった声だった。


 湊は立ち上がった。帳面を懐にしまい、頭を下げた。


 「次の帳面は五日後に持ちます」


 「お待ちしています」


 於松の声は静かだった。だが前回の「お待ちしています」とは、何かが違った。言葉は同じなのに、温度がひとつ上がっている。水底に差し込む光が、わずかに明るくなったような。


 廊下に出ると、冷たい空気が頬を打った。雪はまだ降っている。廊下の板が冷え切っていて、足の裏から寒さが昇ってくる。草履を履くと、雪を踏む感触が柔らかかった。


 屋敷の門を出ると、八代がまた待っていた。今度は塀に背を預けて、腕を組んでいる。鼻の頭が赤い。足元の雪が踏み固められている。


 「今日は早かったな」


 「兼続様が来たから」


 「兼続様が? お前、何か怒られたか」


 「怒られてはいない。多分」


 八代が首をかしげた。


 「多分って何だよ」


 「覚書を丁寧につけろと言われた」


 「覚書?」


 「帳面の話だ」


 「また帳面か」


 八代が笑い、湊も笑った。雪の上に二人分の足跡が並んで伸びていく。


 懐の帳面に手を当てた。まだ栞は挟まっていない。五日後にはあるだろうか。於松の筆で、今度は何と書いてあるだろうか。


 考えている自分に気づいて、湊は少しだけ足を速めた。


 「八代、左内殿のところに寄る」


 「またか」


 「冬場の紙幣流通について相談がある。於松殿から面白い案をもらった」


 「於松殿から?」


 八代が立ち止まった。雪の上で足跡が途切れた。それから、大きく息を吐いた。白い息が雪に溶けた。


 「お前、本当にわかってねえのか。わかっててやってんのか」


 「何がだ」


 「兼続様の娘御から面白い案をもらった、だと。お前それ、帳面の話をしてたんじゃなくて、もう——」


 八代は言いかけて、口をつぐんだ。湊の顔を見て、何かを諦めたような表情を浮かべた。


 「もういい。行くぞ」


 八代が先に歩き出した。湊はその背中を追った。雪がまた降り始めた。細かい粒が、音もなく肩に積もっていく。


 懐の帳面に手を当てた。覚書はまだ挟まっていない。五日後に於松が何を書くのか。「感謝」の次は何だろうか。考えても仕方のないことだと分かっている。だが考えている自分がいた。帳面のことではなく、於松のことを考えている自分がいた。


 五日後が、少しだけ待ち遠しかった。

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