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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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127話:静かな水

 兼続の屋敷は、雪の重みで軒が低く沈んでいた。通されたのは奥の書院ではなく、庭に面した小座敷だった。火鉢がひとつ、畳の上で炭を燃やしている。障子の向こうで雪が降り続けていた。松の枝に積もった雪が、時折ぼたりと落ちる。その音のたびに、庭の静けさがいっそう深くなった。


 於松が膝を揃えて座している。白い小袖に薄藍の帯。髪は後ろでひとつに束ね、飾りはない。湊より三つ年下の十八。兼続の長女であること以外、湊はこの人のことをほとんど知らなかった。何が好きで、何が嫌いで、普段どんな声で笑うのか。半年も兼続の下で働いていて、その程度のことすら知らない。廊下ですれ違えば頭を下げ、それだけだった。声を交わしたことも、数えるほどしかない。


 於松の前には茶が二つ置かれていた。湊の分と、於松の分。湯気が細く立ち、火鉢の熱でゆらいでいる。


 「左内殿との帳面、こちらに写しを」


 声は穏やかだった。湊は懐から帳面を取り出し、於松の前に広げた。


 「紙幣の兌換記録です。米での兌換が七割、銭が二割、残りが物品です」


 於松は帳面に目を落とした。指先が数字の列をゆっくりなぞる。その仕草に迷いがなかった。帳面の扱いに慣れた手つきだった。数字を追う目の動きが早い。読んでいるのではなく、読み取っている。兼続の娘だ、と湊は思った。数字の前に座る姿勢が、父親と同じだった。


 「物品の内訳は」


 「漆が三件、蝋が二件、炭が五件。いずれも小口です」


 「炭が多いのは、この寒さですか」


 「はい。冬場は需要が上がるので、紙幣で炭を買う者が出てきました。紙幣が日用の取引に入り始めた証です。これが春になれば、米以外の物品での兌換がもっと増えるはずです」


 於松が小さく頷いた。帳面から顔を上げず、しかし確かに頷いた。その頷き方にも癖があった。首を深く折るのではなく、顎をわずかに引くだけ。小さな動作だが、聞いている、理解している、という意思がはっきり伝わる。


 兼続から「帳面の写しを娘に渡せ」と言われたのは三日前だった。そのとき兼続は「於松は、嫁にやるには惜しい娘だ」と独り言のように呟いた。湊に向けた言葉かどうか、判断がつかないまま三日が過ぎている。兼続という男は、何気ない一言にも必ず意図を仕込む。それを湊は半年かけて学んでいた。だからこそ、あの独り言が引っかかり続けている。


 於松は帳面を丁寧にめくった。指の動きは静かだが、速い。一枚一枚を確かめるようにめくり、数字の並びを目で追っている。


 「銭での兌換が二割。これは増えますか」


 「春になれば。今は雪で商人の出入りが減っています。街道が開けば、銭を持った旅商人が会津に来る」


 「では、春までに銭の備蓄を増やしておくべきですね」


 質問ではなかった。判断だった。湊の手が止まった。十八の娘の口から、左内と同じ言葉が出た。


 「その通りです。左内殿にも同じことを言いました」


 「左内殿は何と」


 「笑って、もう手を打ってあると」


 於松の口元がわずかに動いた。水面にさざ波がひとつ立って、すぐ消えるような動きだった。


 「左内殿は早い方ですね」


 「俺より早いです。数字のことでは、かなわない」


 「湊殿は数字が苦手なのですか」


 「苦手ではないけれど、左内殿の勘には追いつけない。帳面を見ただけで市の空気がわかるのだそうです」


 「それは数字の力ではないでしょう。市を見てきた年月の力です」


 湊の手が止まった。数字を読む力と、数字の奥にあるものを読む力は違う。それを十八の娘がさらりと言った。左内の本質を、会ったこともないのに言い当てている。


 「……その通りかもしれません」


 於松はまた帳面に目を戻した。部屋に二人きりなのに、圧迫感がなかった。空気が澄んでいた。雪の降る音だけが障子の向こうから届いてくる。炭が時折ぱちりと爆ぜるほかは、何の音もしない。


 於松が帳面のある箇所で指を止めた。


 「ここ。兌換の日付が三日空いています」


 「正月の三が日は蔵を閉めました。兌換を受け付けない日を作ることで、紙幣を持ち続ける習慣をつけたかった」


 「なるほど。蔵を閉めても紙幣を手放す者が出なかったということですね」


 「はい。それが一番の収穫でした。三日間、誰も紙幣を米に戻しに来なかった」


 於松の指が、その三日間の空白をもう一度なぞった。数字がない場所にこそ意味がある。それを読み取れる人間は多くない。左内ならわかる。兼続もわかるだろう。そして、この人も。


 湊はふと、この感覚に覚えがあることに気づいた。大学の図書館だ。判例集を開き、蛍光灯の白い光の下で条文を追っていたあの時間。余計な音がなく、ただ目の前の文字だけに集中できた。隣の席に誰かがいても気にならない。むしろ、同じ静けさを共有している安心感があった。あの白い光に包まれる前の、最後の記憶。この世界に来てから、あの静けさを感じたことは一度もなかった。戦の気配と、人の思惑と、絶えず動き続ける政の歯車。それが止まったのは、今この瞬間が初めてだった。


 炭が崩れ、小さな火の粉が散った。於松の指が帳面の上で止まった。


 「湊殿。紙幣の裏付けに、交易品を加えると父から聞きました」


 「はい。銀、絹、香辛料。米だけでは凶作ひとつで揺らぎますので、裏付けを分散させたいと考えています」


 「海の道は途絶えませんか」


 湊の背筋がわずかに伸びた。同じだ。評定の間で兼続が発した問いと、一字一句違わない。


 (聞いていたのか。それとも同じ頭で考えているのか)


 どちらにしても、ただ帳面を預かっているだけの娘ではない。兼続が「惜しい」と言った意味が、今この瞬間に少し見えた気がした。


 「途絶える可能性はあります。だからこそ、ひとつに頼らない。銀が切れても絹がある。海が荒れれば山で補う。会津は山にも海にも道を持っている。その事実そのものが、紙幣の信用を支えるのです」


 於松は静かに聞いていた。反論でもなく、同意でもなく、ただ聞いていた。言葉の重みを量るように黙って受け止めている。その態度が、湊には心地よかった。問い詰めるでもなく、安易に頷くでもない。水が器に沿うように、言葉を受け入れている。


 「……銀次殿という方が、春に戻られるのですね」


 「はい。堺で鉄砲と硝石も調達してくれています。交易品だけでなく、軍備にも繋がる道です」


 「軍備」


 於松の声がわずかに低くなった。


 「この紙幣は、いずれ戦の支えにもなるのですね」


 湊は一瞬、言葉に詰まった。於松の目は帳面ではなく、湊を見ていた。問いかけではなかった。確認だった。


 「……はい。なります」


 於松は小さく息を吐いた。それから、また帳面に目を落とした。何も言わなかった。だがその沈黙には、覚悟に似た重さがあった。


 やがて顔を上げた。目が合った。黒い瞳は深く、しかし冷たくはなかった。水底が見えるような澄んだ目だった。


 「父は……帳面を人に預けることはしません」


 静かな声だった。


 (帳面を預けない男が、娘に写しを渡せと言った)


 その意味を、湊は噛んだ。兼続は試しているのだ。湊と於松の両方を。帳面を媒介にして、二人がどう向き合うかを見ている。あの独り言も、この場も、全てが仕組まれた舞台なのかもしれなかった。だが不思議と、不快ではなかった。


 「わたくしに帳面の中身を見せよと申したのは、湊殿の分だけです」


 於松は視線を庭に移した。雪が音もなく降り続けている。それだけ言って、帳面を閉じた。話が終わったという合図だった。


 湊は頭を下げ、帳面を受け取った。指先がわずかに触れた。冷たい指だった。於松は何も言わず、湊も何も言わなかった。ただ、その冷たさだけが指の先に残った。


 立ち上がりかけた時、襖の向こうから足音がした。軽い。弾むような歩き方。於松のものではない。


 「姉上、まだ終わらぬのですか」


 襖が開いた。於梅だった。赤い小袖に花柄の帯。髪に小さな簪が揺れている。十四。於松とは何もかもが対照的だった。声も、色も、空気の動かし方も。於松が水なら、於梅は炎だった。部屋に入っただけで温度が変わる。


 「あ、湊殿。まだいらしたの」


 部屋の空気が一瞬で塗り替わった。炭火の静けさが、賑やかな色を帯びる。


 「今、終わったところです」


 「つまらない帳面の話ばかりでしょう。姉上はいつもそう。もっと楽しい話をすればいいのに」


 「帳面の話は楽しいぞ」


 湊が言うと、於梅が目を丸くした。於松の肩がわずかに揺れた。笑ったのかもしれない。


 「湊殿、変な方」


 於松は何も言わず、静かに座したまま妹を見ていた。口元にさっきとは違うさざ波が立っていた。


 「於梅、湊殿はお帰りです」


 「えー、もう少しいればいいのに。お茶は出しましたか」


 「出しました」


 於梅が唇を尖らせた。十四の娘そのもので、戦のある世にいることを忘れさせた。


 湊は会釈して廊下に出た。草履を履き、雪の庭を横切る。冷たい空気が頬を打った。さっきまでの静けさが嘘のように、外の空気は鋭かった。息を吸うと肺の奥が痛むほどの冷気だった。背後で於梅の声が聞こえた。


 「姉上、帳面に何か挟んでおりますよ」


 「何も挟んでおりません」


 「嘘。さっきまでなかった栞が入ってる。姉上の字で何か書いてある」


 於松の声は返らなかった。障子が静かに閉まる音だけが、雪越しに届いた。


 屋敷の門を出ると、八代が塀の前で腕を組んで待っていた。肩に雪が積もっている。鼻の頭が赤い。相当待たされたのだろう。足元の雪を何度も踏み固めた跡があった。


 「終わったか」


 「うん。待たせた」


 「いいよ別に。慶次と上泉殿は先に戻った。上泉殿が道場で弁之助と稽古があるとかで」


 「そうか」


 「で、どうだった」


 「帳面の話をした」


 八代が呆れた顔をした。大きく息を吐いて、白い靄が二人の間に漂った。


 「お前な、兼続様の娘御と二人きりで帳面の話か」


 「何が悪い」


 「悪かないけど……ところでお前、兼続様が娘御に帳面を預けたの、ただの勉強だと思ってるのか」


 湊は黙った。思っていなかった。だが、口にすると形が変わってしまう気がした。まだ言葉にしたくなかった。


 「まさかな」


 八代はそれ以上言わなかった。雪道を二人で歩いた。屋根から落ちる雪の音だけが通りに響いている。人影は少ない。冬の会津は、日が落ちる前から静まり返る。味噌の匂いがどこかの家から漂ってきた。夕餉の支度が始まっている。


 「於松殿が、春までに銭の備蓄をと言った。左内殿と同じ判断だ」


 八代の足が一瞬止まった。それから、ゆっくり歩き出した。


 「兼続様の娘だな」


 「うん」


 「お前もそう思うなら、わかってんじゃねえか」


 「何がだ」


 「兼続様が何をしようとしてるか、だよ」


 湊は答えなかった。胸の中に、さっきの目が残っていた。澄んだ黒い瞳。水底が見えるような深さ。於松は「静かな水」だと、誰かが言っていた。今日、その意味が少しわかった。静かだが、深い。表面は凪いでいるが、底には確かな流れがある。流されるのではなく、自分で方向を選んでいる水だ。


 (あの人は、聞いているだけではない。考えている。父と同じ速さで、同じ深さで)


 慶長四年の正月が過ぎ、雪はまだ降り続けている。春に銀次が戻れば交易が動く。紙幣の裏付けが強くなる。鉄砲の調達も進む。だがその全てを支えるのは、帳面の中の数字だ。数字を読み、数字の奥を読み、会津の未来を数字で繋ぐ。左内がそれをやり、於松がそれを見ている。見ているだけではない。見て、考えて、判断している。あの「銭の備蓄を」という一言が、それを証明していた。


 そして兼続は、その全てを見越してこの場を作った。帳面を渡す相手に湊を選び、受け取る相手に於松を選んだ。兼続の頭の中では、とうに先の絵が描かれているのだろう。湊にはまだ、その絵の全体が見えない。だが輪郭だけは、今日少しだけ見えた気がした。


 ふと、帳面の端に目がいった。薄い紙片が挟まっている。さっきまでなかったもの。於松の筆で、小さく二文字だけ書かれていた。


 「感謝」


 湊は紙片を帳面に戻し、懐にしまった。指先に、あの冷たさがまだ残っていた。


 「八代」


 「ん」


 「左内殿のところに寄る。春までに銭の備蓄を確認したい」


 「……帳面の話の続きかよ」


 「大事な話だ」


 八代が笑った。雪がまた肩に落ちた。遠くで犬が一声吠え、それきり静かになった。春はまだ遠い。だが帳面の中の数字は、確かに動き始めていた。

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