129話:風の向き
左内の帳場で紙幣の冬場対策を話し合っている最中だった。
冬場の紙幣死蔵を防ぐため、炭と味噌と塩の三品目を紙幣で取引できる仕組みを作る。左内は既に町の炭商人三軒と話をつけていた。「紙幣で炭が買える」と知れば、冬場でも紙幣を持つ意味が生まれる。於松が言った「冬の間に使える仕組み」が、左内の手で形になりつつあった。
八代が障子を開けた。息が白い。走ってきたのだろう、肩で息をしている。
「湊。道及が戻った」
左内が帳面を閉じた。湊も立ち上がった。道及が単独で戻るのは予定外だった。関東に送り出したのは正月前で、次の報告は春と言ってあった。それが二月に戻ってきた。急ぎの報告がある、ということだ。
左内の帳場を出ると、外は雪だった。もう何日降り続いているのか数えていない。軒から下がる氷柱が腕ほどの太さになっている。通りに人影はなく、犬の足跡だけが雪の上に点々と続いていた。
道及は八代の長屋にいた。旅装を解かずに囲炉裏の前に座っている。髪に雪が残り、草鞋の紐が切れかけていた。頬がこけている。まともに食っていないのだろう。湊が入ると、道及は軽く頭を下げた。
「戻りました」
「早い。何があった」
道及の目が鋭くなった。普段は穏やかな目をしている男だが、今は違う。情報を持っている時の目だった。
「三つあります」
八代が障子を閉めた。囲炉裏の火が揺れた。
「一つ。前田利家殿の体調が悪い。伏見の屋敷から出なくなりました。医者の出入りが日に三度。食が細くなり、面会を断ることが増えています。側近の者に聞いたところ、年明けから急に痩せたと。歩くのも難儀な日があるそうです」
湊は黙って聞いた。利家は今年の閏三月に死ぬ。湊はその日付を知っている。だが道及は知らない。道及は自分の足で伏見まで行き、自分の目で利家の屋敷を見張り、自分の耳で側近の話を聞いてきた。その重みは、未来知識とは比べものにならない。
「二つ。家康の屋敷に諸大名の出入りが急に増えました。福島正則、加藤清正、黒田長政。いずれも三成殿と不仲の武断派です」
「誰が中心にいる」
道及は一瞬、言葉を選んだ。
「細川忠興です」
湊の指が膝の上で動いた。忠興。知っている。この男が七将襲撃を主導する。表向きは福島正則が筆頭に見えるが、実際に絵を描いたのは忠興だ。戦後、家康から豊前小倉三十九万石を与えられている。元の丹後十八万石から倍以上の加増。それが褒美だった。褒美の大きさが、功績の大きさを語っている。
「福島や加藤は目立ちますが、動きの中心にいるのは細川です。あの方だけ、会う相手が違う。家康の側近と直接話しています。他の武断派は家康の屋敷に出入りしているだけですが、細川だけは側近の本多正信と密会している。私が確認しただけで三度。いずれも夜半、人目を避けて」
八代が腕を組んだ。
「本多正信と。それは臭いな」
「臭いどころではありません。細川が武断派を束ねて、何かを仕掛ける気配があります。狙いは三成殿でしょう」
湊は囲炉裏の火を見つめていた。知っている。全部知っている。閏三月に利家が死ぬ。その直後、忠興が主導して七将が三成を襲撃する。三成は佐竹義宣に護衛されて伏見から逃れ、家康の仲裁で佐和山に隠退する。五大老体制は崩壊し、家康の独走が始まる。
全部知っている。だが、全部は言えない。「俺の勘だ」で押し通すには重すぎる情報だ。利家の死期を言い当てれば、勘では済まない。しかし動かなければ間に合わない。道及の「半年以内」は正確だが、湊には日付が見えている。その差が、重い。
「三つ目は」
「堺で噂が流れています。上杉が会津で大普請を始める、と。出所は不明です」
「出所が不明というのは」
「探りましたが、掴めませんでした。商人の間で自然に広がった形です。ただ、自然に広がるような話ではない。誰かが意図的に流している可能性があります」
湊は頷いた。神指城の計画はまだ極秘のはずだ。兼続と景勝と、ごく限られた者しか知らない。それが堺で噂になっている。漏れたのか、それとも家康側が探りを入れているのか。どちらにしても厄介だった。
史実では、上杉の軍備増強を口実に家康が会津征伐を決める。「上杉に謀反の疑いあり」という大義名分だ。堺で噂が広がっているなら、それは家康にとって好都合な材料になる。湊の知る歴史が、静かに動き始めていた。
「道及。その噂、潰す必要はない。だが広がり方は監視してくれ。誰が噂を拾い、誰に伝えているか。流れの地図を作れるか」
「やります」
道及は短く答えた。情報の流れを追うのは、この男の本領だった。
囲炉裏の薪が崩れた。火の粉が舞い、すぐに消えた。
「道及。お前の読みを聞きたい」
道及は火を見つめたまま答えた。
「利家殿が倒れれば、家康を止める者がいなくなります。武断派は三成殿を潰しにかかる。そうなれば五大老体制は崩れ、天下は家康の手に落ちます」
「いつだと思う」
「半年以内です」
正確だ、と湊は思った。道及の読みは正確だ。だが湊は日付まで知っている。閏三月四日、利家が死ぬ。その日から全てが動き始める。あと二ヶ月。
八代が口を開いた。
「俺たちにできることは何だ」
湊は答えなかった。しばらく沈黙が続いた。囲炉裏の火が音を立てて燃えている。障子の向こうで、屋根から雪がずるりと落ちた。
上泉が静かに入ってきた。誰も呼んでいないが、気配を察したのだろう。障子を閉め、囲炉裏から離れた場所に座った。
「戦の匂いがする」
上泉が短く言った。道及を見て、それだけで状況を読んだらしい。
湊は顔を上げた。四人の顔を見渡した。八代、道及、上泉。この三人は、湊が最初に信頼を得た仲間だ。この三人の前でなら、考えを口にできる。
「動く」
八代が身を乗り出した。
「何をする」
「三成殿の近習に、細川が武断派を束ねて動いていることを漏らす。三成殿に備える時間を与える」
道及の目が細くなった。
「三成殿を助けるのですか」
「三成じゃない。佐竹だ」
三人が黙った。湊は続けた。
「三成殿が武断派に襲われた時、護衛したのは——いや、護衛するのは佐竹義宣殿だと俺は読んでいる。佐竹と三成は近い。三成が危機に陥れば、佐竹が動く。その時、上杉からの情報が佐竹に届いていれば、佐竹は上杉を信頼する。それが欲しい」
道及が頷いた。諜報の人間は、理屈が通れば動く。
「佐竹との繋がり、ですか」
「関東に攻め込む時、背後に佐竹がいるかいないかで全てが変わる。佐竹は常陸五十四万石。北関東最大の大名だ。家康の背後を突ける位置にいる。だが佐竹は慎重な家だ。理由がなければ動かない。動く理由を、今のうちに作っておきたい」
上泉が静かに言った。
「義宣殿は動きたがっている、と聞いたことがある。だが父の義重殿が止めている」
「その通りです。義宣は三成寄りだが、義重は徹底した現実主義者だ。勝ち目がなければ動かない。義重殿を動かすには、上杉が本気で戦う覚悟があること、そして勝てる算段があることを見せなければならない。その前段として、情報で繋がっていた実績が要る。信頼の種を、今のうちに蒔いておく」
八代が腕を組み直した。
「つまり、三成殿に情報を流すのは餌で、本当の狙いは佐竹との信頼関係を作ることか」
「そうだ」
道及が囲炉裏の火を見つめたまま、指を組んだ。
「三成殿の近習には伝手があります。島左近殿の配下に、以前堺で世話になった者がおります。そこから三成殿に細川の動きを伝えることはできる。左近殿は三成殿の右腕ですから、情報は確実に届きます。佐竹に関しては、義宣殿の側近に一人、私と同郷の者がいます。小田原の役の前からの付き合いです。そこから糸を引けます」
「頼む」
「ただし」
道及の声が低くなった。
「この動きを兼続様に報告しますか」
湊は一瞬、黙った。兼続に報告すれば、兼続は止めるかもしれない。佐竹との接触は外交だ。湊の権限を超えている。兼続は慎重な男だ。道及の情報を吟味し、景勝に諮り、家老衆と評定にかけるだろう。そのすべてに時間がかかる。だが利家の死は二ヶ月後だ。その前に佐竹との糸を作っておかなければ、七将襲撃の時に間に合わない。
(初めてだ。兼続様の判断を待たずに動くのは)
胸の奥で何かが軋んだ。兼続への信頼は変わらない。だが信頼と服従は違う。信頼しているからこそ、事後に説明すれば分かってもらえると信じている。甘いかもしれない。だが、動かなければ失うものの方が大きい。
「する。ただし、佐竹への接触は俺の判断でやる。兼続様には事後報告にする」
道及の目が光った。危険を承知で踏み込む湊の覚悟を測るような目だった。
「危ない橋ですな」
「橋がなければ渡れない」
八代が小さく笑った。上泉は黙っていたが、わずかに頷いた。
道及が立ち上がった。
「では、明日発ちます。まず三成殿の近習に接触し、それから常陸に回ります。戻りは一月後になるでしょう」
「体は大丈夫か。ろくに食っていないだろう」
「食えば動けます」
道及は笑った。諜報の人間の笑い方だった。疲れていても、任務があれば笑える。湊は八代に目配せした。八代が頷き、囲炉裏の上に鍋をかけた。味噌汁の匂いが部屋に広がった。道及の目が一瞬だけ緩んだ。腹が減っているのだ。
湊は道及が飯を食う間に、帳面を開いた。道及に持たせる書状の下書きだった。三成の近習宛てではない。佐竹義宣の側近宛てでもない。自分自身に向けた整理だった。
(一手目。三成に忠興の動きを伝える。二手目。佐竹義宣の側近に上杉からの情報として流す。三手目。三成が佐竹に助けられた後、義宣から上杉への感謝が来る。それが四手目——佐竹との軍事連携——への布石になる)
四手先まで読んでいる。だが相手があることだ。一手目が外れれば全てが崩れる。道及の腕を信じるしかない。
道及が飯を食い終え、湯を飲んだ。
「湊殿。一つだけ」
「何だ」
「佐竹との糸が繋がったとして、兼続様がそれを受け入れる保証はありますか」
「ない」
道及は一瞬、目を閉じた。それから口の端を持ち上げた。
「正直な方だ。それで良いと思います」
道及は頭を下げ、奥の間で横になった。明日には発つ。雪の中を、また一人で。
湊は道及を見送ってから、囲炉裏の前に戻った。八代と上泉が残っていた。
火が低くなっていた。薪を足さなければならない。だが三人とも動かなかった。
「湊」
八代が言った。
「お前、兼続様に怒られるぞ」
「わかってる」
「わかっててやるのか」
「やる。怒られても、佐竹との繋がりが残ればいい。俺の首と佐竹五十四万石を天秤にかければ、答えは明らかだ」
上泉が立ち上がった。
「湊殿。剣の道では、踏み込みが浅いと斬られます。踏み込むなら、深く」
それだけ言って、上泉は出て行った。障子が閉まり、足音が遠ざかった。上泉は多くを語らない。だがその一言が、いつも湊の背を押す。剣を持たない湊に、剣の理で道を示してくれる男だった。
八代と二人になった。囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。
「帳面の話だけしてた頃が懐かしいな」
八代が呟いた。湊は笑えなかった。
於松の顔が浮かんだ。「この紙幣は、いずれ戦の支えにもなるのですね」と言った時の、静かな目。あの言葉が、予言のように胸に響いている。帳面の数字が、戦の数字に変わり始めている。於松は最初からそれを見ていたのかもしれない。静かな水は、水底まで見通す。
窓の外で風が鳴った。北からの風だった。雪を含んだ冷たい風が、障子の隙間から入り込んでくる。風の向きが変わった。冬の風ではない。何かを運んでくる風だった。利家の衰え、忠興の暗躍、堺の噂。三つの風が、同じ方角から吹いている。
湊は立ち上がり、薪を囲炉裏に足した。火が勢いを取り戻した。橙色の光が部屋を満たした。八代が黙って火を見ている。
「八代」
「ん」
「明日から忙しくなる。兼続様への報告の準備と、左内殿への相談と、鉄砲の調達の前倒しと。全部同時に動かす」
「寝る暇あるのか」
「春まで寝なくていい」
「お前が倒れたら元も子もねえぞ」
「倒れない。倒れる前に、仕組みを作る」
八代が笑った。小さな、だが温かい笑いだった。
二ヶ月。あと二ヶ月で、天下が動く。




