弍 払暁
本日もよろしくお願いします。
出発から、三日。今は、水口の宿場町への道中。走れば走るほど、琴葉は自分の弱さというものに打ちのめされていた。
道中は、大坂よりも酷い様子だったからだ。
半壊した旅籠屋で、夜を越すこともあった。
物乞いに声を掛けられることも、一度や二度じゃない。
救いたいのに、救えない。
目の前に、今にも倒れてしまいそうな人がいるというのに。
さらに、持ち金が尽きかけている。
このままでは、江戸に着く前に飢え死ぬ。
物乞いになるしかない。
明日も知れない日々、いや、明日を考えたくない日々を、琴葉は過ごしていた。
だが、そのことを蒼葉に言う気には、やはりなれなかった。僅か六歳の、小さな妹には。
「あ…… お姉ちゃん、草鞋の緒、ぼろぼろ」
未明、琴葉の背で仮眠を取っていた蒼葉が、まだ半分微睡みの中、下を指さした。
琴葉が草鞋を見ると、確かに緒が切れている。蒼葉を一旦降ろして、緒を結ぶ。
「あれ、これ、読売だよね? 何でこんな所に?」
そのとき、蒼葉の目に、一枚の読売が留まった。読売は大切な情報源。こんな場所に落とすとは、かなりのおっちょこちょいがこの道を通ったようだった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
上体を起こした姉に向けて、蒼葉は両手で握った読売を掲げる。
地震が起きてから落ち込むばかりだった蒼葉の声。
だが今は、年相応のものへ変わっている。
琴葉は思わず、頬が緩むのを感じた。
「葉怪……? 何? お姉ちゃん知ってる?」
『葉怪の力、神を超える』
その読売には、そんな見出しが躍っていた。
― ― ―
困ったときに、神様と願われても困る。その声も、その様子も、何一つ、神には解らないのだから。自分は何もできないのだから。視界にかかる霞も、何もかも祓えないのだから。
「天照大神よ。この言姫に、お力を預けてくださりませぬか」
狂い始めた歯車は、止めなければ。全て、壊さなければ。
― ― ―
「言葉、の、妖、怪…… 」
書いてある内容を、琴葉は一つ一つ嚙み砕いて咀嚼していく。
江戸には妖が多いとは聞いたが、葉怪については何一つ知らなかった。
『言葉とは、時に剣よりもよく切れると言うが、それが具現化されたものが、葉怪と言っていい。葉怪とは、姿形は柏の葉、けれど様々な力を持つ妖。人を殺しかねない大いなる力で、攻撃してくる。捕まえれば、少々戦闘時よりは弱化するものの、強大な力を得られる』
要約すればこの通り。真、信じられそうにないことが、読売には書いてあった。
「お姉ちゃん、この先、森でしょ? ねーね、ちょっと行ってみようよ」
琴葉は眉を顰めた。妖は危険だ。遊び半分に遭いに行くものではない。けれど。
「お願い。一回行って、いなかったら諦めるから」
琴葉は自分自身の足の速さというものを自負していた。
少しは誇りというものがあるし、逃げ切れる自信もある。
何より、ずっと落ち込むばかりだった妹が、今は胸をときめかせている。
姉としては、ここで否を唱えたくなかった。
「一回、だけ、ね」
「やった!」
しかし琴葉は、答えたその瞬間に、早くも後悔し始めていた。
― ― ―
覚えている。何もかも覚えている。川の向こう岸にいても覚えている。
自分の下敷きになって冷たくなったものを。
片時も絶えず思い出し続けている。もう届かない声で歌っている。
少女は後悔していない。
ただ神様を恨んでいる。自らのいない未来を恨んでいる。
― ― ―
蔚然たる森に向けて、琴葉たちは歩み出した。
これから妖と遭うつもりでいるのに、恐ろしいほど軽装備であることは自覚していた。
だが、仕方がなかった。上着は燃えて灰になってしまったし、それ以外の身を守る物なんて、もうすでに津波に流されている。
森の中は、おどろおどろしい雰囲気に包まれていた。訪れる者全てを呑み込んでいくよう
な、魔の森と表現できるぐらいに。
頂にぞわりとした感覚が走り、二人は来た道を振り返った。
もう後戻りはできない、それでいいのかと森が問うてくるようだった。
至る所に見える倒木が、地震の惨状を示している。
緑の匂いが、鼻の奥を突いては消える。
「なんか、怖いよ… 」
蒼葉は、琴葉の体にぴたりとくっついた。
今の森は明らかに異常だった。全く音がしない。
鳥や虫の鳴き声も、晴嵐で木々が揺れる音さえも。
聞こえてくるのは、自分たちが落ち葉を踏む音のみ。
森が意志を持って、侵入者を拒んでいるかのようだ。
「!」
災いは突然に訪れた。
琴葉は、自分の腹が鋭利な刃に切り裂かれていくのを〝視た〟
反射的に、蒼葉を抱えて大きく左に跳ぶ。
すると、裂かれていたように〝視えた〟体は、通常通りに生命の輝きを宿していて、文字通り息の詰まるような緊迫感を伝えていた。
あと一歩まで死が近づいていたことに、魂を冷やす時間すらも無く、二人は奴を視認した。
奴は、化け物だった。人が二人分の長さのある、大きな刀。
しかし、操る者はおらず、刀だけが宙に浮いている。なるほど、あれが葉怪。
燻銀の刀身が、木漏れ日を反射してぎらりと光り、琴葉たちに向かって近づいてくる。
蒼葉が恐怖のあまり尻餅をついた。
琴葉は急いで蒼葉を背負い、通った道を全速力で駆け戻る。
草木が揺れる音。走っても、走っても、光の見えない道の先。
悪夢だと思いたい。いや、思わざるを得ない。
「は、やっ…… 」
刀は人を凌駕する速度で、二人との距離を縮めていく。
いくら足が速くても、底なし沼のようなこの森から、瞬時に抜け出すことは不可能と琴葉は判断した。
どうにかしてあの化け物を止めなければ、自分たちは数秒もしない内に斬り殺される。
先ほど〝視えた〟あの幻覚のように。
振り返り、琴葉は注視する。刀の後方に、空中に浮いた葉が一つあった。
弱点だろうと琴葉は推測して、蒼葉に声をかける。
「は、しって」
「う、うん!」
蒼葉は、思いっきり森の外へ駆けていく。
その後ろ姿を見送る暇も無いまま、琴葉は刀の正面に立ち塞がる。
一つ目の賭けに、琴葉は勝った。
刀は琴葉に注目していて、逃げた蒼葉を追うことはしない。
だからと言って、この隙に蒼葉が後ろから葉を掴む、みたいな芸当はできない。刀が大きすぎるし、すぐに気づかれるだろう。
だが、蒼葉が助けを呼んでくれば、勝算はぐっと上がる。
琴葉は高く跳躍し、近くの木によじ登る。
そこからまた別の木に跳び移り、そこからまた別の木に跳び移り…… と、刀を撹乱していく。
踊るように、鮮やかに。
琴葉が跳ぶたび、葉は擦れて戦ぐ。
浮いた葉が掴めるほどの速度は出ない。
葉怪に疲れが存在するかも分からない。
よって、持久戦だ。
琴葉が動けなくなるのが速いか、助けが来る方が速いか。
「…… あ」
刀の動きが変化したのを、琴葉は確かに見た。
刀は、その巨体を斧のように扱い、周囲の木を切り倒し、琴葉の行動範囲を狭めていった。
まだ、乗り移れる木はある。なるべく早くに移ってしまいたいが、離れすぎて蒼葉の方に照準が切り替わったら困る。
時間の問題であることが、改めて琴葉の胸を突き刺す。
さらなる時間稼ぎの方法を、前頭葉から解答を振り絞る。
森は神聖で、平等だ。
こんなつもりなんてなかった、そんなこと言っていても始まらない。
進まなければ。
―― 私は飛脚の娘だから。
最後まで、届けてみせる。その決意が、琴葉に残された、ただ一つの人らしさだった。
― ― ―
少女は神を信じない。ただ走る。走り続けた先にあるものを少女は知っている。
「助けて!」
少女が転がり込んだ先が、はてさて幸と地続きであるかどうか。
全ては葉のみぞ知る。
誤字脱字報告ありがとうございます。
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