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翌朝、アステリア公爵邸の門前には、夜明け前から王家の紋章をつけた馬車が列をなしていた。
かつて私が王宮へ向かう際は、一介の「婚約者」として、検問や作法に時間を取られたものだ。しかし今はどうだろう。王の代理たる侍従長が、朝露に濡れた地面に額を擦り付けんばかりにして、私の「お目覚め」を待っている。
「お嬢様、準備が整いました」
アンが持ってきたのは、王妃教育で着せられていたような、清楚で控えめなパステルカラーのドレスではない。
深紅のベルベットに、黒いレース。まるで夜の女王を思わせる、傲岸不遜なまでの美しさを湛えた特注品だ。胸元には、王家から「預かっていた」婚約の証たるペンダントではなく、アステリア商会が独自に買い付けた、どの王冠の宝石よりも巨大な真珠が鎮座している。
「鏡を見て、アン。……誰の目から見ても、今の私が『可哀想な被害者』には見えないでしょう?」
「ええ。どちらかと言えば、これから国を一つ買い取りに行く最高の商人にしか見えませんわ。最高に素敵です」
私は満足げに微笑み、一歩を踏み出した。
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王宮の謁見の間。
そこには、昨夜のパーティーでの狂乱が嘘のような、葬式のような静寂が支配していた。
玉座に座る国王アルドラス二世は、一晩で十歳も老け込んだように見える。その傍らには、顔を真っ青にして震えるエドワード殿下が、騎士たちに左右を固められて立たされていた。
私が大扉を開け、絨毯の上を悠然と歩いていくと、居並ぶ重臣たちが一斉に道を開けた。
本来なら私が跪くべき場所。しかし、私は立ち止まり、扇をパチンと閉じて、ただ軽く会釈をしただけだ。
「……不敬であるぞ、アイリス! 王の前だぞ!」
エドワードが、堪り兼ねたように叫んだ。その声は裏返っており、恐怖を隠せていない。
私は彼を一瞥もせず、国王を真っ直ぐに見据えた。
「陛下。お体の具合はよろしいですか? 私が昨日提出した『請求書』の束を御覧になって、お疲れではないかと心配しておりましたの」
「アイリス……。いや、アイリス・アステリア公爵令嬢。……エドワードの件は、弁明の余地もない。あのような痴れ者が、君のような至宝を傷つけたこと、王として、そして父として深く詫びよう」
国王が、公衆の前で頭を下げた。
会場にどよめきが広がる。だが、私は冷ややかに言葉を継いだ。
「謝罪など、一銀貨の価値もございません。陛下。……私がここへ参りましたのは、謝罪を受け入れるためではなく、『精算』を行うためです」
私はアンに合図を送り、羊皮紙の束を広げさせた。
「現在、王宮がアステリア商会、および公爵家に負っている債務の総額です。……これには、先代から続く軍事国債、昨年の不作に伴う食糧支援の立て替え金、そして――エドワード殿下がリリア嬢のために、私の名義を無断で使用して購入した宝飾品の代金が含まれています」
私が読み上げる数字は、国家予算の数年分に相当するなものだった。
財務卿が泡を吹いて倒れそうになるのを、隣の騎士が支える。
「これを……今すぐ返せと言うのか? 公爵家と言えど、国家を破滅させる気か!」
「破滅させたのは、私ではなく殿下の方ですわ。……陛下。私は先見を見据えた貴族であり、商人です。投資に見合わないと判断した案件からは、手を引く。それだけのこと。……ですが、一つだけ、慈悲深い提案を差し上げましょう」
私は玉座の階段の下まで歩み寄り、声を低めた。
「エドワード殿下を正式に廃嫡し、北方領土の塔へ幽閉すること。……そして、リリア嬢には『王家に対する詐欺罪』を適用し、一生、最果ての鉱山で働いていただくこと」
「なっ……! アイリス、貴様!」
エドワードが掴みかかろうとしたが、彼を抑えていた騎士たちは、動かなかった。彼らの給与を支払っているのは王家だが、その金の出処が私であることを、現場の武官たちは熟知している。
「……それだけか? それだけで、債務を待ってくれるというのか?」
国王が、縋るような目で問いかける。しかし、私は首を振った。
「いいえ。それは単なる『前菜』です。……本題は、今後の王政の在り方について。……陛下、あなたには、もう国を運営する能力も資金もありません。ですから、今後のグランヴェール王国の予算編成権、および徴税権の一部を、私……『アステリア経済再建委員会』へ譲渡していただきます」
それは、事実上の国家乗っ取り宣言だった。
王は象徴として残るが、財布の紐はすべて私が握る。王室は私の承認なしに、パン一つ、ドレス一着買うこともできなくなるのだ。
「そんな……そんなことは認められん! 臣下が王を支配するなど!」
「では、今この瞬間、すべての債務の履行を要求いたします。……陛下、明日の朝にはこの王宮のシャンデリアも、陛下が座っておられるその椅子も、すべて市場に売りに出されることになりますが、よろしいですね?」
私の言葉に、国王は力なく項垂れた。
彼にはもう、拒否する力など残っていなかった。
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数時間後。
王宮の地下牢に近い尋問室で、私は「かつての婚約者」と対面していた。
エドワードは豪華な礼装を剥ぎ取られ、みすぼらしい罪人服を着せられている。
「アイリス……。嘘だろう? 君は私を愛していたはずだ。ただの嫉妬だろう? 嫌がらせが過ぎるぞ。……今すぐこれを解け。そうすれば、リリアを側室に下げて、君を正妃として迎えてやる……。これが最後のチャンスだ」
「……まだ、そんな夢を見ているのですね。エドワード様」
私は牢越しに、彼を憐れみの目で見つめた。
「愛? ええ、確かに以前の私は、義務感からあなたを愛そうと努力しましたわ。でも、あなたがリリア嬢と睦み合い、私の努力を『冷酷な女の傲慢』と切り捨てた瞬間、その感情は枯れ果てました」
「あ、あれは……彼女が、君が私のことを馬鹿にしていると言ったから……!」
「彼女の言葉を信じ、私の実績を信じなかった。それがあなたの敗因です。……ご安心ください。リリア嬢なら、隣の部屋で『私は殿下に脅されていただけです! 悪いのは全部あの男です!』と、必死にあなたを告発していますわよ」
エドワードの顔が絶望に染まる。
扉の向こうからは、確かにリリアの金切り声が聞こえていた。彼女は最後まで「悲劇のヒロイン」を演じ、生き残るためにエドワードを差し出そうとしていた。
「……醜い。本当に醜いわ、あなたたち。……お似合いよ、泥の中で愛を語り合いなさい」
私は背を向けた。
背後でエドワードが、私の名を叫びながら鉄格子を叩く音が響く。
かつて私を突き放したその手が、今は必死に私を求めている。けれど、その指先が私のドレスに触れることは二度とない。
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王宮の回廊に出ると、セドリック殿下が待っていた。
彼は私の顔を見るなり、深く一礼した。
「……驚いたよ。王家を潰すのではなく、生かさず殺さず『管理』する道を選ぶとは」
「潰してしまえば、借金は回収できませんもの。……セドリック殿下。あなたはこれから、隠居した陛下の代わりに、私の『代理人』として王宮を統治していただきます。……不平不満は、私の机の上に積み上がった帳簿を見てからおっしゃってくださいね」
「……君には敵わないな。……いや、債権者様には、一生頭が上がらないということか」
セドリックは苦笑しながら、私の手を取ろうとした。
だが、私はその手を優雅にすり抜け、自らの馬車へと歩き出した。
「誰の人生も、その人だけのもの。……でも、私の人生を邪魔しようとするなら、その代償は国一つでも足りないということを、忘れないでくださいませ」
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
窓の外には、朝日を浴びて輝く王都の街並みが広がっていた。
昨夜まで、私は「王太子の婚約者」という狭い檻の中にいた。
けれど今、私の目の前には、広大な世界が広がっている。
アステリア商会の支店を隣国へ広げ、新しい産業を興し、この国を私の色に染め変えていく。
私の人生は、私だけのもの。
そして、私の意志は、この大陸の歴史さえも書き換えていくことになるだろう。
「……さて、アン。次の予定は?」
「はい。隣国の商団との会合と……それから、新しいドレスの新調ですね。今度は『勝利』に相応しい色を」
「ええ、それがいいわ」
私は、満足げに目を閉じた。
心の中には、もう「復讐」の余韻すら残っていない。
ただ、新しく始まる私の日々に、期待で胸が高鳴るばかりだった。




