消えないもの
絵の上では、沢の水が黒碑の足元を流れていた。あの洞で見たものと似ている。だが、逃げる人々とテオヴァルドの血ばかりを覚えていて、石の形まで正確に思い出せなかった。
「運び出された跡は?」
「見つかりませんでした。崩れた斜面も調べましたが、石の欠片さえありません。もっと古い崖崩れに埋まっているのかもしれませんし、記録の方が間違っているのかもしれません」
ヴェラはそこで説明を切った。続きを欲しがらせるための間だと分かっていても、オーレリアンは絵から目を離せない。
「どうして、私にこれを見せようと思ったの?」
「これほどの町を作られた方ですから。古いフォルマもお読みになれる。私が学者を連れて歩くより、ずっと多くのことがお分かりになるかと」
「調査に誘いたいわけだ」
「関心を持っていただけたなら、続きをご相談したいです」
アッシュマークの地下について、探りを入れているようには聞こえなかった。そうであってほしいと思う自分にも、気づいていた。
「この写しも預かるよ。ただ、今は町を離れるつもりはない」
「では、お読みになったご感想だけでも」
エレンは二枚の地図を重ね、谷へ通じる道を確かめていた。見張りを置き直すなら、ほかの持ち場から人を割かねばならない。碑の行方より、今いる兵の数が彼女には重かった。
会見が終わるまで、洞のことは口にしなかった。
◇
「ここへ来るとは、思っていました」
オルカペルの地下へ下りると、テオヴァルドが先に来ていた。昼食のあとに見せた絵を、まだ手にしている。
「顔に出てた?」
「昼食の時から、ずっと。話しかけても、同じところを見ていらっしゃるので」
「それは……ごめん」
ミラには行き先を告げ、地上で待ってもらっている。あの広間へ踏み込まず、離れた場所からフォルマで見比べる。それだけでも、誰にも言わずに出かける気にはなれなかった。
西へ渡る人々は、広間を避ける道を通っている。分かれ道の先へ灯りを送ると、岩の隙間に、あの日と同じ黒い床が見えた。
足が止まった。すぐ横にいたはずのテオヴァルドも、少し後ろで床を見ている。
「覚えてる?」
「途中までは。あなたのところへ走ったことも、そのあと、抱いてくださったことも」
「もう一度、あれに触るおつもりではありませんよね」
「見るだけだよ。何が起きるか分からないまま、また君に運ばれるのは避けたい」
「では、ここから」
隣へ並んだ少年の肩に軽く触れ、オーレリアンは杖を上げた。
灯りを追うように、小さなオルビスが通路を進んだ。戦場では城壁の向こうを見るために使ったものだ。手元に映る広間には、避難してきた人も、追ってきた魔獣もいない。
自分が放ったフォルマの穴が、奥の岩を貫いていた。そこを避けて像を巡らせると、黒碑が正面に入った。
溝を光が走る。同じ順序で、また走る。町を作り、戦争をして、海を見て帰ってきた間も、ここではこれが続いていたのだろう。
「似てはいるけど、この絵だけでは同じものか分からないね。細かな刻みは省かれてる」
横から描いた方も見比べた。角の傾きまで似ているが、寸法は残っていない。谷から運ばれてきたのか、別に同じ形のものがあるのか。そのどちらも、まだ選べなかった。
「教会では、世界の中心に一つだけあると教わりました」とテオヴァルドが言った。「あの人たちは、ほかにも探しているんでしょうか」
「そこは、聞いておきたい。見つけて何をするつもりなのかも」
答えながら、光の走る溝へ意識が引かれた。あの時には、今よりはるかに多くのことを考えられた。まだ解けていない問いを持ち込めば、何が分かるだろう。
(近づけば、分かるかもしれない)
半歩出たところで、手をつかまれた。テオヴァルドは、先ほど立っていた場所から動かずにいる。
何を考えていたか、言う前から恥ずかしかった。
「怖いくせに、知りたくなる。困ったものだね」
「調べる方法なら、上でも考えられます」
返事の代わりに、その手を握り返した。もう先へは進まず、写せる範囲だけを持ち帰ろうと、像を足元へ下げる。
そこで、赤いものが見えた。
◇
黒い面に、血がついていた。指の形に広がり、掌を離したところで途切れている。オーレリアンはつながれた手を見てから、もう一度その跡を見た。
「私の手の跡だ」
テオヴァルドを抱き、ここへ手を押しつけた。外では何年も過ぎたのに、血はまだ、今つけたばかりの色をしている。
触れたものの時間が止まる。機械を作るたびに使ってきた性質だった。それなのに、あの時の血まで残っているとは、考えなかった。
「少し、右を見せていただけますか」
像をずらすと、掌の跡の下へ続く赤い筋が見えた。血が垂れたにしては、幅がある。その先が、溝を越えて指の形に分かれていた。
自分のものより大きな手形だった。
それに重ねて、あの日、オーレリアンは手をついていた。




