知らない世界
帝都が、地図の隅に追いやられていた。
その西にアステリアがあり、湾を囲む町々は細かな点になっている。そこから先も陸地は続いていた。川を渡り、いくつもの国を通った線が、オーレリアンの知らない海まで延びている。線の終わりから先は、何も描かれていなかった。
ラザールから借りた本の巻末に、その地図はあった。夕食のあとで開き、本文も読まずに旅の道筋を追っていた。
「僕の読んだ西の戦史にも、この海は出てきませんでした」
椅子を寄せたテオヴァルドが、地図の端を見ていた。
「ここまで来た軍がなかったのかも。旅人は、もっと先へ行っていたんだね」
見慣れた帝国の地図では、国境の先に余白が広がっていた。こちらでは、帝都から東へ向かう道が途中で切れている。
頁を戻すと、湖畔の町の絵があった。岸から何段も積み上がった家々へ、揚水場が水を送っている。船から見た絵なのか、屋根の向こうに畑まで描いてあった。
著者が旅先で雇ったのは、この湖畔の町を離れた術者だった。故郷で水を上げる仕事をしていた男が、移り住んだ先では井戸の水さえ動かせずにいたのだ。
失敗の記録は、成功した時より長い。水を替え、器を替え、湖から水を取り寄せても、結果は変わらなかった。最後には男と一緒に湖へ戻り、同じフォルマで水が上がるところまで確かめている。
「ここまでやったのか」
運ぶ間に水の性質が変わったのか、それとも周囲で成り立つ別の法則に妨げられたのか。場所が違うから、で済ませず、ここまで調べた人がいた。
(この人と、話がしたい)
奥付へ戻り、刊行された年を確かめた。著者は、まだ生きているだろうか。
「楽しそうですね」
入口にクレイドが立っていた。寝ると言って部屋へ戻ってから、さほど経っていない。
顔を上げた途端、昼間のクレイドの話がよみがえった。
「読んでいたら、止まらなくなった」
「僕も、読んでいいですか」
テオヴァルドが隣の椅子を引いた。地図を広げ直そうとすると、クレイドは失敗の記録の方を指した。
「そこから、お願いします」
◇
クレイドが読み込んでいたのは、実験の間に挟まれた聞き書きだった。雇われた男は、帰りの船賃も払えずにいたらしい。故郷では弟子まで取っていたのに、知らない町では仕事が見つからなかった。
「学院では、土地ごとの違いも習いました。でも、使えないなら覚え直せばいいと。こういう話は、しませんでした」
「すぐに教えてもらえるとも限らない。弟子を取る家も、それで食べているからね。この人は、住み慣れた町を離れるだけで、ずいぶん失ったんだな」
男の旅費と滞在費には、金枝会から出た金が充てられていた。その箇所で、クレイドが読むのを止めた。
「会の客が来た時も、研究所の先生は喜んでいました。もうお金の心配はいらないって。僕は、それなら早く終わると思ったんです」
オーレリアンは本から手を離した。
「浮かれてたね、私。さっきまで」
「でも、続きを読むのはやめたくありません。あの人たちが何を知っていたのか、僕も知りたいです。ただ、読んでいると、あの部屋を思い出して」
テオヴァルドは口を挟まなかった。読む場所を照らすように灯りを寄せ、そのまま隣に残っている。
「ほかの本も読みたい。役に立つ知識だけ受け取って、あとは聞かずに済ませたいと思ってしまう」
「今日、話してよかったですか」
「うん。黙っていたら、私は喜んで続きを聞いてた。少なくとも、あの人にとっては都合のいい客だったと思う」
クレイドはしばらく黙っていた。やがて本へ目を戻し、挟んであった紙を抜く。
「この人、そのあとどうしたんでしょう。故郷に残ったのかも、書いてない」
次の章は別の町から始まっていた。実験の結果は詳しく残っているのに、雇われた男の話はそこで途切れている。
「著者に聞いてみようか。居所を探してもらえないか、ロートに頼んでみる」
「僕からも、聞いていいですか。試したことについても、幾つか」
「もちろん。どこが気になった?」
クレイドは少し迷い、湖の町へ戻った日の記録を選んだ。
「戻った時に使った水は、何でしょう。同じ水を持ち帰って試したのか、それとも、湖から汲み直したのか。そこが気になります」
オーレリアンは頁を戻した。故郷で再び使えた。その一文で、先へ進んでしまっていた。水を運んだことは書かれているが、戻った時に何を使ったかは、ここにはない。
「……書いてないね。それも聞こう」
クレイドが問いを書き留める間、テオヴァルドは地図で湖の位置を探していた。オーレリアンも続きを読んだが、隣から声がかかるたび、前の頁へ戻ることになった。
翌朝ロートへ託す手紙には、実験についての問いに加えて、クレイドの一文も入れた。
『あの術者の方は、今もお元気でしょうか』
「会の報告書も、届いたら読ませてください。僕の覚えていることと、比べたいんです」




