海の部屋
岬を回ると、崖に窓が並んでいた。岩を掘って作られた家々が、浜に沿って続いている。今朝、修道院の島から対岸の漁村へ渡り、ここまで歩いてきた。
エルネリスの家には、魚がいた。
窓から入った小さな群れが、足元を抜けて奥へ逃げる。炉には砂がたまり、棚の縁に貝がついていた。潮が引いても、床までは乾かないらしい。
「ここに住んでたの?」
「海が来る前はね。崖が崩れて、下の道ごと沈んだの。村を出たあとだったけど」
振り返ると、戸口の向こうにも窓が並んでいる。家をつないでいた石段は、波の下へ消えていた。
エルネリスは炉へ近づき、縁の砂を払った。
「母がここで魚を焼くと、寝床まで煙が来たんだ。文句を言うと、じゃあ外で寝なさいって」
「外へ出た?」
「途中まで。暗かったから、すぐ帰った」
彼女は笑ったが、炉に触れた手は動かなかった。
オーレリアンも隣へ座った。低い天井を、窓からの光が揺れていた。
「声だけが、思い出せないの」
エルネリスは誰に言うでもなく続けた。
「何を言われたかは覚えてる。叱られて泣いたことも。なのに、母の声で聞こうとすると、何も出てこない。ずいぶん前から、そうなんだ」
オーレリアンには、電話の向こうで聞いた母の声が蘇った。最後に何を話したかより先に、着信を見て面倒がった自分が浮かぶ。
(あれで最後になるなら、もう少し――)
「あなたも、会いたい人がいる?」
「母に。忙しいから、また今度って、いつも後回しにしてた。何か一つ、うまくいってから話そうと思ってたんだ」
「そんなに、いい話ばかり聞きたかったのかな」
「私が、聞かせたかったんだと思う」
仕事の中身など、ろくに分からずに聞いてくれた。それを、話さなくていい理由にしていた。
エルネリスは水へ足を伸ばし、こちらのそばへ寄せた。
「国のために力を貸してほしいと、何度も言われた。みんなが組むフォルマへ合わせて、誰かが倒れたら、その人の分まで支えて。身体が戻れば、また出来たから、魂まで傷めているとは思わなかった。もっと休んでいれば、母の声も覚えていられたのかな。ただ長く生きたせいかもしれないけど」
何百年も前の判断へ、正しい答えを差し出す気にはなれなかった。自分もテオを助けるために、成長する時間を手放した。
「でも、断れなかったと思う。あそこにいる人たちを、私なら助けられるって知ってたもの。……だからって、仕方なかったで済ませたくもないんだ」
今ならほかに任せられる、とも彼女は言った。オーレリアンは炉を見ていた。
奥の部屋へ誘われるまで、二人はそこに座っていた。
◇
案内役の額が、天井へぶつかった。
オーレリアンまで首をすくめた。だがこちらは、背を伸ばしても届かない。
「……昔も、そこで?」
「昔は、私もそのくらいだったの」
彼女は窓へ腰を掛け、足を外へ投げ出した。対岸に、修道院の島が見える。
「約束の絵、描いてくれる? 奥の部屋も入れたいんだけど」
低い天井も描いた。炉と棚を足すと、横から手が伸び、筆を借りて窓の下へ人を足している。
「あなたはここ。さっき、そんな顔をしてた」
描かれた自分は、こちらが思うよりずっと楽しそうだった。
筆を返してもらい、隣に彼女を描いた。頭を押さえている姿にすると、絵を取り上げられた。
「港で見せちゃ駄目。私がもらうんだから」
「じゃあ、取りに行かないと見られないね」
「今の家は、山の方。天井は高いよ」
またおいで、とは言わなかった。来るものとして話す声が、うれしかった。




