潮の祈り
崖に見えたものが、近づくにつれて建物になった。
島の斜面を占める修道院は、船着き場から幾段にも重なっていた。窓の下を波が洗い、いちばん低い回廊を船の帆がくぐっていく。上の食堂から、女が身を乗り出して手を振った。船頭が同じように返し、今日の魚を高く掲げた。
エルネリスは立ち上がりかけ、舟を揺らして座り直した。
「あの人、料理を作ってる?」
「そうだよ。気に入らなければ、自分で台所へ入れって人だ」
「それなら、期待できそう」
石段を上ると、先ほどの女が魚を待っていた。修道女の服の裾をたくし上げ、旅人の荷まで一緒に受け取ろうとする。
「私はロザ。お泊まりですね。お昼を食べてから、お部屋へどうぞ」
名と泊まる日だけを聞かれた。肩甲のないオーレリアンには、席を空ける者もいない。長椅子を詰めてもらい、エルネリスと隣り合って座った。
漁師の向かいで、足に包帯を巻いた女がパンを割っている。二人は知り合いらしく、帰ったあとの仕事の話をしていた。
昼の祈りが始まると、食堂の声が重なった。海へ出る者の無事を願う言葉に、エルネリスも声を合わせる。
「帰りを待つ者の家にも、灯を」
最後の一節だけ、彼女は聞いていた。
「前に来た時には、なかった言葉だと思う」
「嵐から戻った漁師が、唱え始めたんですよ。船は帰れたのに、浜の家が流されていて」
ロザは鍋を抱え、空いた椀へ魚をよそった。
「誰の家へも、灯が戻りますようにって。本には載っていませんが、ここでは皆で」
ミラへ教えたいと頼むと、食後に書いておくと言ってくれた。エルネリスは、その漁師が今もいるか尋ねた。
年を取って、少し前に島を離れたという。
彼女は残念そうにうなずき、今も残る祈りをもう一度、口の中で唱えた。
◇
回廊から見える岬が、明日の行き先だった。
「あの下に、私の家があるの。潮が引いたら入れるよ」
エルネリスの腕越しに覗いたが、まだ岩しか見えなかった。
「子どもの頃も、そこに?」
「うん。暗くなるまで帰らなくて、よく叱られた。迎えが来ると隠れるくせに、日が暮れると、早く見つけてほしくなるの」
「想像できるな」
「今の私も、そう見える?」
返事をせずに笑うと、彼女は肘で軽く押してきた。
借りた旅の本には、その岬の絵があった。実物より高すぎると彼女は言ったが、登ったあとなら、こう見えたのかもしれない。
「あなたなら、どう描く?」
「先に見せると、家を間違えたって言われそうだ」
「じゃあ、明日一緒に。私が住んでた部屋に、あなたがいる絵がいい」
その絵を思い浮かべている間に、下で食器が割れた。
踊り場に男がうずくまっていた。療養着の膝を抱え、追ってきた者から身を隠すように、ロザの後ろへ寄る。
「今日はやめてくれ。歩けるから。もう、ここまで来られたから」
「落ち着きなさい。部屋へ戻れば、楽になる」
医師らしい男が手を伸ばした。患者はロザの袖を離さない。
「休ませましょう。少し、私と話してから」
ロザの声を遮り、掌にオルビスが浮かんだ。
患者の背が反った。袖をつかむ指が外れ、石段へ突き立つ。人の指が、石を砕いた。
オーレリアンは欄干を越えた。
抱き止めた膝が、腕の中で逆へ曲がり始める。男の目はその脚を見ていた。自分の身体なのに、何が起きているか分からない顔だった。
「そのフォルマを止めろ」
医師の目が、こちらの服と杖を見比べた。
階上では、エルネリスがロザを引いている。
「見ていたのか」
患者へ向いていた光が、こちらを撃った。




