余白
「ここの線は、賛成って意味じゃないよ。腹が立ったから引いたの」
返した本を膝に広げ、エルネリスが言った。『何の役に立つかも分からぬことに、一生を費やすべきではない』。その一節の脇に、オーレリアンが余白を埋めていた。
「君に反論してしまった。何に使えるかなんて、調べたあとで分かることも多いのに、と思って」
「私は、役に立たないと分かっても読みたいよ。知りたかったことが分かったら、それだけでうれしいもの」
何かには使えるはずだ、と言いかけてやめた。彼女は、役に立つと言ってもらいたくて読んでいるのではなかった。
「なら、なおさら余計なことを書いたね。君を説得しようとして、裏まで続いてる」
「消さないで。そこまで私に話したかったんでしょう。読ませてよ」
谷から戻って三週間。商人たちの来訪に合わせ、彼女もアッシュマークへ来ていた。見せたい場所をずいぶん考えていたのに、庭の長椅子から動けない。エルネリスは頁をめくるたび、書いた本人へ続きを尋ねた。
工房では、クレイドも彼女に見せたいものを用意していた。
「僕に使えるフォルマを、描いてみました」
緊張して差し出す手へ、彼女は腰をかがめた。
「取り消したところも、見せてくれる?」
彼は少し驚いたが、隠していた紙も出した。
剣へ光を通すことはできる。その先へ出そうとすると、消える。話しながら試すと、彼女は失敗を途中で止めず、刃へ光が戻るまで待った。
「じゃあ、外は私が受け持つね」
庭の石が浮いた。彼女のフォルマで持ち上がった重さが剣へ返り、クレイドは切っ先を下げた。石が傾くより早く、手元へ力を寄せる。
二人で同時に直し、石は反対へ回ってしまった。謝りかけたクレイドへ、彼女は自分の方が遅かったと笑い、もう一度試した。次は、半回転したところで止まった。
外へフォルマを使えるようになったわけではない。それでも、クレイドの目は剣ではなく、浮いている石へ向いていた。
テオヴァルドが相手を代わると、また石が回った。二人で止めようとして、今度は動かなくなる。
先に笑ったのは、クレイドだった。
◇
翌朝のオルカペルには、見知らぬ司祭がいた。
ミラに紹介されると、エルネリスは相手の法衣より、抱えていた祈祷書を見た。隣にいたマルタも、自分の本を開く。
「正式に戻ることが、認められたんです」
マルタの声は抑えていた分だけ弾んでいた。協力する司教たちが、追放された聖職者を一人ずつ受け入れ直している。ヨナスの返事はまだだが、祈りの場を奪われることはなくなった。
話が済むと、エルネリスは祈祷書の一節を尋ねた。
「ここ、海では違う言葉で唱えるの。帰ってこない船を待つ人のために」
ミラも椅子を寄せた。議事堂で話す時より、ずっと遠慮なく聞き返している。
オーレリアンは入口で待った。彼女を早く連れ出したいと思っている自分が、おかしかった。
やがてエルネリスが出てきた。港の沖にある修道院の話をしたという。
「泊まれるし、料理もおいしいよ。祈りの本を持って帰ると約束した」
「案内してくれる?」
「うん。お忍びの方が、いいけど」
伯爵の訪問になれば、挨拶と席がついてくる。彼女自身も、長く生きた証人として迎えられるのは望んでいなかった。
「今度は、二人で行きたいな。港で待ってもらっても、大丈夫?」
言われてから、オーレリアンは歩調を間違えた。
「……聞いてみる」
◇
三週間後、山を越えて同じ港町へ戻った。そこに残って待つと言ったのは、テオヴァルドの方だった。
クレイドと槍を試したい場所がある。エルネリスの紹介で、石切り場を借りられることになったのだ。
「戻る日は、教えてくださいね」
「延びたら、手紙も出す」
肩甲を外し、旅の服へ着替えた。そこからエルネリスと海沿いの道をたどると、大きな帆船に代わって漁船の並ぶ港へ出た。彼女は帽子で髪を押さえ、島へ渡る舟を指した。
小舟に座ると、彼女は隣を空けた。港の屋根が離れるにつれ、潮の匂いが濃くなる。
「修道院のあと、私の昔の家にも行かない? もう、誰も住んでないけど」
「行きたい」
今度は、すぐに答えられた。




