絵にない人
絵の中のエルネリスは、笑っていなかった。
山から戻った晩、迎賓館の廊下で足が止まった。剣を地面へ置く帝国の兵と、杯を差し出す山の人々。その間で水を配る女だけは、今も隣に立っている。
アステリア最初の盟約。書庫で見た歴史の挿絵より、はるかに大きかった。
「描いた人、私が笑うと困ってたの。厳粛な場だから、黙っていてくれって」
「……君が、その時の話をしたんだね」
「うん。絵はずっと後に描いたものだよ。本当は、こんな立派な服を着てなかった」
彼女の指が、絵の隅の老人を示した。
「この人が約束を決めたの。私は山道を案内して、あとは水を配ってた。年上ばかりで、話に割って入るのも怖かったな」
屋根の上で、帰りたくないと笑った人だった。あの顔の後ろに、国の歴史が丸ごとあった。
「ずっと、その姿で?」
「大人になってから、ほとんど変わってないよ。病気はするし、怪我も治るまで痛い。年を取らないだけ」
テオヴァルドと目が合った。どちらも、次の言葉を見つけられなかった。
「驚いてるんだ。少し待って」
「待つよ」
エルネリスは絵へ目を戻した。そこにいる者の名を、全部は思い出せないという。描く時には覚えていたはずなのに、と首をかしげた。
聞きたいことは幾つもあった。どれを口にしても、彼女が図書館の奥へ移されてしまいそうだった。
「あの魚を切ってた人も、知ってるの?」
「私が長生きなこと? 知ってるよ。だから私の取り分を大きくする、とは言ってくれないけど」
ようやく笑えた。テオヴァルドも絵から離れ、夕食の場所を聞きに行った。
◇
エルネリスは食堂を通り越し、台所の前で椅子を借りた。
「あっちは、座ると立ちにくくなるから」
奥では楽器が鳴っていた。自分たちを見つければ、主催者はまた上座を空けてくれるだろう。
分けてもらった魚の包み焼きを開くと、彼女は待ちかねたように匙を入れた。
「君が来たら、皆うれしいんじゃない?」
「うれしそうにしてくれるよ。でも、昔の約束を確かめたい時と、今日の料理が好きか聞きたい時では、顔が違う」
「今日は、どっちがいい」
「料理」
即答だった。こちらの皿へ手を伸ばして、自分とは違う香草が入っている、と勝手に比べている。
「この国を作った人として、席をもらったことは?」
「あるよ。ずっと断ってる。私が座ったままなら、次の人が来られないでしょう。会議に出るより、会議を休んだ人と話す方が好きだし」
「マティアスは聞きたくないだろうね」
「あの人は、休んだ人を集めて会議を始めるよ」
笑い声に、料理人が顔を出した。二人分のパンを追加して、また台所へ戻る。
オーレリアンは包みの底の汁をパンへ吸わせた。上座なら、こうして食べるところまで見られる。
「あなたも、ここが好きみたいだね」
「食べ方を褒められなくて済む」
「それだけ?」
見つめられ、答えるのが遅れた。彼女は急かさず、こちらの返事を楽しみにしていた。
「……一緒にいて、黙ってもいいから」
言ってから気恥ずかしくなった。これも、昔なら口にしなかった。
エルネリスは匙を置き、少しだけ椅子を寄せた。
「じゃあ、私も食べ終わるまでここにいて」
◇
「あなたの町へ行ったら、やっぱり皆が跪くの?」
皿を返したあとで、エルネリスが尋ねた。
「する人もいる。やめてほしいんだけどね」
「慕ってるからでしょう」
「それは、うれしい。でも、私のことが嫌いになっても、安心して暮らせる町であってほしい。嫌われるたびに追い出していたら、私もずいぶん忙しいだろうし」
笑ってもらうつもりだった。彼女は、食事をしていた時よりじっとこちらを見た。
「ほう。あなたは、本当に面白いことを考えるね。分かった気になると、急に分からなくなる。……いったい、何者なの?」
子どもの伯爵を演じる言葉なら、すぐに出せた。今、それを言いたくなかった。
黙っていると、彼女がふっと笑った。
「すまないね。悪い癖だ。長く生きてると、覚えてないことまで、勘で埋めようとしてしまう。人のことも、それで分かったつもりになるんだ」
「それで、私は何に見えた?」
「分からなくなったから、聞いたの」




