死を許さない
テオヴァルドは、オーレリアンの腕の中にいた。軽すぎる身体を抱き止めた瞬間、骨と包帯と、熱すぎる血が嫌になるほど現実になった。
魔獣が消えた広間では、少年の喉から漏れる湿った息だけが、ひどく大きく聞こえた。
「テオヴァルド」
テオヴァルドの目は開いていた。焦点が合わないまま、それでもオーレリアンを探して動く。
「……痛いです。オーレリアン様」
「話さないで。息を残して」
「死にたく、ないです」
泣けば、血で滑る指から力が抜ける。分かっているのに、視界が滲んだ。
「死なせない。だから、今は息だけして」
テオヴァルドは、血に濡れた唇をわずかに動かした。
「呼んだのに……間に合いませんでした」
「間に合った。君が前へ出る必要なんて――もう話さないで」
笑う形になりかけた口元から、息だけが抜けた。
オーレリアンは片腕で背を支え、もう片方の手で胸の穴を押さえた。血は指の間からあふれ、袖を伝って黒い床へ落ちる。胸は吸うたびに持ち上がり損ね、肺へ入るはずの空気が傷口から逃げていた。
テオヴァルドの胸が、もう一度だけ浅く持ち上がった。それきり、次の息は来なかった。
「テオヴァルド」
首へ当てた指に、脈は触れなかった。傷口を押さえているのに、胸はもう動かない。
一度、確かに死んだ。
戦場で死ぬための兵士ではない。死にたくないと言った、まだ十三歳の少年だった。オーレリアンの指の下で、鼓動のあった場所だけが急速に冷えていく。
(世界がこれを最後だと証言するなら、その証言を偽証にする)
オーレリアンはテオヴァルドを片腕へ抱き寄せ、血まみれの掌を背後の黒碑へ押し当てた。
Probatio Deficiens I:欠損を別の解で補う。 p̶e̶r̶s̶o̶n̶a ≠ figura
(残るのは、テオヴァルドに似た誰かだ)
腕の中の頭がわずかに傾いた。支え直しても、自分から戻る力はない。
Probatio Deficiens II:傷つく前の身体を現在へ重ねる。 p̷r̸a̶e̴t̷e̸r̵i̴t̶u̷m̶ ≠ h̸o̷d̴i̶e̷
(それでは、ここまで生きた彼をこちらから消してしまう)
血に濡れた唇から色が引いていく。黒碑へ触れた左手も、指先から動かなくなり始めた。
魂は身体を離れ、先へ滑っている。だが、オーレリアンを現在へ呼び戻した声と、ここに残る身体の間には、まだ同じ名の向きがあった。名は命令ではない。帰る道になる。
Probatio Finalis:n̵o̷m̶e̴n̵ + c̵o̴r̶p̷u̴s̷ → t̴e̷m̶p̵u̴s̷ + 1
(死をなかったことにはできない。なら、死を最後とする判定を留める。記憶も痛みも落とさず、名と身体を道にして、テオヴァルド本人を次の瞬間へ渡す)
式は一瞬で枝分かれし、崩れた箇所だけを次の式へ渡した。左腕の感覚が肩まで消えるより先に、崩れない関係が一つ残った。
「Quae erant demonstranda, in unum redacta.」
閉じる前に枝分かれしたオルビスが少年の胸へ降り、黒碑の手前で折れ、細い文字のような光を残して重なった。白い層は天井を越え、黒い石の向こうまで膨れ上がる。
ただし、完成した足場を現実へ留めるには何かを固定しなければならない。この世界では、何も払わずに永く残る印を置けない。
支払いにできるのは、オーレリアン自身の身体に折り畳まれた時間だった。そこへ足場を固定すれば、テオヴァルドの時間は奪わずに済む。代わりに身体は今の十二歳を正しい形として覚え、成長も声の変化も引き戻される。二度と動かなくなるかもしれないが、テオヴァルドの名も記憶も痛みも失わずに済む。
(俺の時間で済むなら、持っていけ)
黒碑ではなく、自分で閉じた解へ最後の条件を渡した。白い縁取りが左手から喉、背骨へ走る。呼吸は続いているのに、身体は少しずつ動かなくなった。
死で切れた場所へ、足場が固定されていく。何ひとつ別のものには置き換えない。裂けた身体を支え、離れかけた本人へ帰る道だけを残す。
(テオヴァルドを、テオヴァルドの身体へ)
オーレリアンは血に濡れた唇を開いた。声は身体から大きく遅れたが、それでも名だけは届いた。
「テオヴァルデリオン・ヴェイル」
「ここへ戻りなさい」
「ここが、君の身体だ」
広間の外まで広がっていたオルビスが縮み始めた。黒い石の向こうから光が戻り、白い層が少年の胸へ集まっていく。幾重もの円は互いを呑み込み、最後には掌に収まるほどの光球だけが残った。
オーレリアンの腕から、テオヴァルドの重みが消えた。少年の身体はゆっくり持ち上がり、光球を胸の上に浮かべたまま静止する。
光球の表面がほどけた。白銀の光が胸へ流れ込み、開いていた傷を細い白銀の傷跡へ変えていく。
光が退くと、身体は動かないオーレリアンの腕へ降りた。重みが戻るのと同時に胸が持ち上がり、血に濡れた唇から細い息が漏れる。それから、もう一度。浅く、弱く、それでも自分で吸った。
テオヴァルドの指が動き、オーレリアンの袖をつかんだ。目はまだ開かない。それでも、戻っていた。
「奇跡だ」
ミラが膝をついた。いつもなら先に駆け寄り、傷を確かめるはずの少女が、今は顔を上げられずにいる。ブラッカが割れた板を落とし、周りの者たちも頭を垂れた。
これは祈りでも、清らかな救いでもない。そう伝えようとしても、唇が動かない。指も首も、身体が動くべき時刻へ届かず、声を出そうとした意思だけが先に空回りする。
腕の中で、テオヴァルドがもう一度息をした。
その温かさだけを確かめたところで、オーレリアンの意識は白い残光の中へ落ちた。




