時の果てに立つ黒碑
音のない魔獣は、動くものへ顔を向けた。
ミラが小石を右へ投げる。白い輪郭の頭が、その軌道を追った。二つ目を左へ投げると、今度は途中で止まり、次の石を持つ手へ視線を戻す。
「二度で覚えた。もう投げない」
オーレリアンは、魔獣と列の間にある割れ目へ小さな光を走らせた。
その頭が光を追った瞬間、もう一つのフォルマで床の層をずらす。
前足が割れ目へ沈む。ブラッカが板を横から叩きつけ、もう片方の足も石に噛ませた。
「今だ。負傷者から進め!」
背後で岩が軋んだ。閉じ込めた足は、もう石を砕き始めていた。
列の最後が角を曲がると、洞は巨大な広間へ開けた。
黒い壁には、円や格子、途中で切れた螺旋が継ぎ目なく走る。熱のない白い灯りは、その溝を流れて中央へ集まっていた。
そこに、黒い碑が立っている。
帝国の硬貨にも聖堂にも、同じ輪郭が「黒碑の印」として刻まれている。だが、実物を見たという記録を、オーレリアンは知らない。壁の光は同じ溝を、同じ順序で繰り返し走る。刻みそのものが、組まれた計算をここへ残しているように見えた。
「ここは、音がなくなる」
ノエは碑の足元まで進み、そこで鈴を下ろした。
背後で石が割れた。
魔獣が前足を引き抜き、広間へ滑り込む。逃げ道は、黒碑の脇にある浅いくぼみしかなかった。
「子どもと負傷者を奥へ!」
火杖から赤い光が走った。魔獣の輪郭が煙のようににじみ、火を消す。その隙にブラッカたちが板ごと肩へぶつかり、前足を砕いた。
黒碑の刻みが一つ、白く光った。
砕けた前足が、倒れた動きを逆にたどる。板も火も戻らない。ただ魔獣だけが、傷つく前の姿で立ち上がった。
(治ったんじゃない。傷ついた後の時間を捨てた)
同時に、オーレリアンの思考が加速した。
指を動かそうとする間に、十、百と考えが増える。床へついていない前足の、着く場所まで見えた。なのに、息が吸えない。身体はまだ、その前の息を吐いていた。
(あの身体だけを壊しても戻される。戻る先まで、一緒に潰せば――)
必要なフォルマは、これまで組んだどれより大きかった。今の速さでも、最後まで考え終える前に爪が届く。
テオヴァルドの手が、右腕をつかんだ。
今ここにいる身体だけが受ける温度だった。散らばった思考が、その一点へ戻る。
「黒碑へ近づく。このままつかんでいて。返事が止まったら、呼び戻して」
「はい」
一歩で、脈の一打が長くなった。
オーレリアンは黒碑へ近づきながら、広間を覆うオルビスを組む。世界が軌跡をずらすたび、先へ走った思考が修正し、別の思考が次のずれを拾った。
魔獣の爪が右肩を裂く。小さなオルビスで半歩だけ逸らし、その裏で巨大な円を閉じ続ける。
「オーレリアン様。ここにいますか」
声が遠い。腕を握る指の温度を選び直し、現在へ戻る。
「ここにいる」
銀環から伸びた白い軌跡は壁を昇り、天井を渡り、反対側から降りてきた。
残るのは、杖先へ帰る最後の一線だけだった。
魔獣が床を蹴る。
オルビスが閉じるより、爪が胸へ届く方が早い。
(間に合わない)
腕をつかんでいた手が離れた。引き戻そうとしたオーレリアンの指をすり抜け、テオヴァルドが前へ出る。
「オーレリアン様」
黒い前足が、テオヴァルドの胸を貫いた。
細い身体が持ち上がる。それでも両腕で前足を抱え、ほんの一瞬だけ、その場へ留めた。
テオヴァルドが弾き飛ばされる。
支えを失った魂が黒碑へ滑り、現実の一瞬が底のない深さへ開いた。
オーレリアンの瞳の奥で、無数の計算が同時に走り切る。未完成の円は広間の外まで押し広がり、最後の一線が銀環へ帰った。
「フラクタ・グラヴィタス」
白い軌跡が一斉に魔獣へ落ちた。
駆ける姿と崩れる姿が同時に浮かび、逃げ場を失って重なった。元の身体へ戻ろうとするたび、その先で光が待っている。白い輪郭が内側から砕けた。
光が魔獣を貫き、黒い壁の奥まで巨大な穴を穿つ。遅れて届いた轟音に、洞全体が震えた。
オーレリアンは杖を捨て、床へ落ちるテオヴァルドを両腕で抱き止めた。
軽い。軽すぎる。
白い服の胸から、熱い血があふれていた。
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それでは、また次のお話で。




