海を仰ぐ
海が、帆柱を越えてせり上がった。
船台の前から立ち上がる水が、沖の島を隠していく。見上げる間にも、その縁は高くなった。海鳥が波頭をかすめ、帆柱の影が岸壁から消える。オーレリアンの足元まで海の影に沈んだ。
波の頂が、こちらへ傾いた。
落ちてくると思った水は、頭上を越えて伸びていった。向こうの海へ弧を描き、船台をまたぐ天蓋になる。両端から滝が落ち、岸壁が轟音に震えた。
空のあったところを、魚が泳いでいた。
腹を返した群れに陽が当たる。無数の鱗がひらめき、透けた波をくぐる光が船腹を走った。その下で、女は片手を上げている。
外套が風に流され、振り向いた頬を水の影が横切った。両目の虹彩に、淡い輪が二重に浮かんでいた。
「あなたも、やってみる?」
すぐには答えられなかった。船台の両脇では、組になったフォルマ使いたちが、岸に刻まれたオルビスへ力を通している。女がそれぞれに応じるたび、水はつながり、船の上を渡っていく。
「上げる方はこちらで持つから、向こうへ返してほしいの」
杖先にオルビスを開き、滝の裾へ力をかけた。落ちる水が沖へ広がると、彼女も腕を動かした。
頭上の海が傾いた。
太陽が波に砕かれ、船の帆にも人々の顔にも光が散る。流れを速めても、彼女は慌てなかった。こちらを見て、もっと、と手を上げる。
(もう少し。ここまで、行けるか)
杖を進めた。波が駆け上がり、飛沫が空へ散った。
降ってくる雫の一つずつが陽を弾いた。テオヴァルドの顔にも雨がかかり、見上げたままの口元が笑っている。オーレリアンも頬に水を感じたが、拭う手が惜しかった。
女が笑い返した。
やがて彼女が腕を下ろすと、両脇のフォルマ使いたちも波を緩めた。オーレリアンは最後の流れを海へ返した。
頭上の青が割れ、陽が差した。水の天蓋は沖へ倒れ込み、しぶきの幕となって入り江を隠す。風に押されてその幕が退くと、船も島も、元の場所にあった。
◇
「エルネリス。名乗るのを忘れてた」
海鳴りが引くと、歓声が聞こえてきた。船は何事もなかったように船台へ収まり、職人たちはもう腹の下を覗いている。
「オーレリアン・ヴェイル。……知ってた?」
「知ってたよ。でも、あなたは私を知らないものね」
差し出された手を握った。濡れていたのはお互いで、どちらも謝らなかった。
「あれを毎日?」
「船を上げるだけなら、もっと簡単に済むよ。あなたが面白そうに見てたから、少し余計なことをした」
「私のため?」
「うん。楽しかった?」
そんなことをまっすぐ尋ねられたのは、いつ以来だろう。うなずくと、彼女は満足そうに髪をかき上げた。
岸壁から手を振る者へ振り返し、若いフォルマ使いには、無理をした腕を休ませるよう言う。相手も遠慮なく、次は先に教えてくれと笑った。
オーレリアンは、もう一度海を見た。
初めてフォルマを使いたいと思った時も、こういうものを見たかったのかもしれない。何を壊せるか、どれだけ守れるかと考える前に。
◇
翌日の昼には、会談で決めることがなくなっていた。
品を試し、商人同士が値を決める。工房を訪ねたい者には、両国で認めた範囲の滞在を許す。それ以上を今日決める必要はないと、マティアスも言った。
「もう少し、お引き留めしたかったのですが」
「私なら、山へ帰るところだよ」
エルネリスが窓から声をかけてきた。いつから聞いていたのか、片手に旅の袋を持っている。
「三日あれば、町とは違うところを見せられる。二人も来ない?」
隣を見ると、テオヴァルドは返事を待つより先に笑った。
マティアスが、山道の通行も招待の範囲に加えられると請け合う。エレンに確認を頼みながら、自分も行きたかったとこぼした。
「私は、明日も評議会です。皆さんが海を持ち上げている間に、積み残した話がありまして」
「君を残して遊びに行くのは、少し気が引けるね」
「では、うまくいった話だけ聞かせてください。失敗の話は、こちらで足ります」
エルネリスは笑って、港を見下ろした。
「この国を好きになってもらうのに、会議ばかりじゃもったいないよ」
彼女の視線の先に、昨日の波より低い岩場が並んでいた。
「あそこから、帝国の人たちを上げたこともあるの。今の岸壁ができる前。小舟が一艘ずつしか入れなくてね」
古い戦記にあった最初の上陸地点だった。聞き返そうとすると、彼女は袋の紐を肩へ掛け直した。
「明日は、寝坊しないでね」




