招かれた敵
「帝国の伯爵を、ここへ?」
歓迎の杯が配られている間に、その声は三度聞こえた。三度とも、聞こえないふりをされた。
オーレリアンは杯を受け、港を見下ろす窓際へ進んだ。迎賓館の背後には、越えてきた山が迫っている。坂に重なる家々の間を水路が下り、工房と倉の並ぶ岸辺へ注いでいた。
幾重にも重なる屋根の間から帆柱が突き出し、その上を木と色硝子の渡り廊下が横切る。向かいの家では、窓から隣の屋根へ洗濯物を渡していた。帆船の行き交う湾には島々が浮かび、その岸辺にも家が並んでいる。
帰還からひと月。評議会を通った招待に応じ、テオヴァルドと山を越えた。エレンの案内で洞の迂回路を抜け、この港町へ下りてきたのだった。
帝国で見たどの町とも違う。そのことを、隣のテオヴァルドへ話したかった。
「こちらには、お気に召すものがございますかな」
先に声をかけてきた男は、こちらの肩甲を見ていた。
「ええ。まだ、どこから見ればよいか迷っております」
「城を落とすお方に、港の暮らしなど退屈では」
「退屈なら、山を越えてまで来ません」
男の笑顔が止まり、横から別の杯が差し込まれた。
「城攻めの話は、私も聞きたいんですが。今日は造船所の方々をお招きしたので、沈める話は後日にしましょう」
マティアス・レンの言葉に笑いが起きた。取り残されかけた男にも杯を渡し、彼はそのまま港へ話を移した。沖に入った船は、隣町で造られたものだという。
「以前なら、ここで荷を積み替えさせていました。船を造る腕は認めても、この港で稼ぐ資格までは認めない。おかげで同じ湾を渡るだけなのに、荷が二度傷む」
「それを、君が変えた?」
「皆さんが変えました。私は、何度も同じ話をしました」
また笑いが起きた。今度は、何人かが苦い顔で笑っていた。
船の持ち主が杯を上げると、港で働く者たちも窓へ集まった。知らない町の紋章を掲げた船が、岸壁へ横づけされていく。
マティアスはそれを見届け、ようやくひと口飲んだ。
「アッシュマークの品も、この船で売りに出せます。もちろん、認められた品からですが。あなたとお会いした頃よりは、ずいぶん遠くへ運べるでしょう」
以前は、使者の荷に紛れた見本だけだった。今は商人たちが、こちらの返事を待っている。反対の声も、最初ほど大きくなかった。
「建材を欲しがる港は多いでしょうね」と、先ほどの男が言った。「ですが、戦になれば帝国へ戻される。そういう不安もあるのです」
「売った材を、私の都合で取り上げるつもりはありません。海でお使いになるなら、塩に耐えるかもお確かめいただきたい」
「保証までしていただけますか」
「分からぬことは、分からぬと申し上げます。試した結果は、こちらも買いたいくらいです」
窓際の職人が、初めてこちらを見た。商人を押しのけて質問し、気がつけば杯の置き場がなくなっていた。
◇
「助けてもらったね」
人の輪を抜けたマティアスへ声をかけると、彼は笑った。
「少し惜しかったです。もう一言くらい、言い返されるかと」
「君の客を困らせてほしかったの?」
「伯爵に嫌われても死刑にはならない、と知っていただければ」
思わず吹き出した。テオヴァルドも、口に運びかけた菓子を下ろして笑っている。
マティアスは向かいの人々へ目をやった。
「私の父も、帝国の血を引いています。ここで育っても、話がこじれると、どちらの人間なのかと聞かれる。便利な質問ですよ。答えている間は、こちらの話を聞かずに済みます」
「それでも、ここを変えたいんだね」
「ええ。よその国へ移って、この国は駄目だったと言うだけでは、たぶん気が済まない」
笑顔のまま言い切るので、オーレリアンも素直にうなずいた。
彼と一緒にいると、まだできていないことまで、形を持つように思えた。
卓の端で、テオヴァルドが造船所の図を開いていた。船底を抱く仕組みには、二人分のフォルマが別々に描かれている。
「これ、途中で片方が離れたら?」
「船は落ちないよ。岸に戻せなくなるだけで」
隣にいた女が、図を逆さから覗き込んだ。外套の裾に塩の跡があり、ほかの客のような飾りはつけていない。
指が触れたのは、オーレリアンも気にしていた箇所だった。
「でも、ここまで支えなくてもいいよね。相手が受ける形が分かっているなら」
「相手も、同じことを考えたら困るでしょう」
「二人とも手を離す?」
「うん。それで船を沈めたら、仲がよくても叱られる」
女は顔を上げ、声を立てて笑った。
「外で見ようか。その方が早いよ」




