死の向こう
治療のフォルマを弱めると、喉の痛みも遠のいた。オーレリアンはニコに触れたまま、力が返ってくる箇所をたどった。
「手を上げなさい。もう一度だ」
男を見上げる子どもの視界が、瓦礫の庭へ重なった。寝台の縁に小さな足が見える。差し出された掌で、オルビスが消えた。
(この子の記憶か)
「組み方は合っています。もう少し、試させてください」
幼い声にも、ニコの面影があった。
「人の姿に戻せても、これでは兵にできん。次の処置を試す」
その言葉に、記憶の中の手が握り込まれた。寝台から下りようとしても、背中の金具が許さなかった。
昇位の儀で倒れた時も、父は身体が応じなかった理由を問わなかった。オーレリアンは、街道で人を助けていた少年の顔を思い浮かべた。自分には使えないフォルマを、ルーカスへ教えていた。
庭でテオヴァルドの剣が鳴った。膝にいるのは、息の止まったニコだ。寝台も子どもの声も、少年へ通したフォルマの先にある。
人の身体をたどっても、魔獣の力をたどっても、同じ記憶へ戻ってくる。一人に二つの身体を押しつけたのだと、あの戦場では考えた。だがニコは、その身体で何年も生きてきたのだ。
互いに異なる法則を、一つの魂が結びつけて身体を保つ。この子には、そこへ魔獣の法則まで加えられていた。
「身体を変える前は、できたんです」
寝台の子どもが訴えた。人と魔獣の法則を支え続けるうちに、魂そのものが変わっている。元の人間へ戻そうと組み直した途端、その声まで途切れかけた。慌てて、直前の形へ戻す。
道端で消えたオルビスを思い出した。学院で教えるフォルマは、人の魂と身体を前提にしている。ニコの魂から力を通すと、魔獣の法則までついてくる。外の物へ届くところで、形が崩れていた。
握った剣なら、腕から刃へ伝わる力を強めればいい。変わった魂と身体がすでに支える働きだから、あの光だけは消えなかった。
死後、その結びつきはほどけ始めていた。胸からは届かなくなっても、魔獣の法則が残る腕からは、まだ同じ記憶へたどれる。傷を直すだけでは止まらない。今も、届かない箇所が増えている。
(今なら、まだ)
「テオ。ニコを連れ戻す。私が動かなくなっても、引き離さないで」
テオヴァルドがそばへ戻り、剣を手に立った。
*
町図を押さえる子どもの指が見えた。城壁と地下を結ぶ線が、その下で重なっている。
「町の守りまで落ちる。地下だけ切り離せ」
「僕には組み直せません。でも、止める場所は分かります」
地下から助けを求める声が届いた。オーレリアンは黒碑の材を生み出し、少年へ通したフォルマをそこへ留めた。この材なら、別の計算へ移っても、組んだ形は残る。魂は離れていく。記憶へ届くつながりを失う前に、その動きへ合わせて修正を重ねた。
変わった魂を元には戻さず、その魂が生きてきた身体へつなぐ。魔獣の力も、その一部として残す。
庭の剣戟が間延びした。記憶を追う傍ら、別の思考で傷を直すフォルマを組む。使う瞬間にはもう条件が変わり、次の思考がそれを直す。考える速さを上げるほど、膝の重みが遠のいた。
「クレイド、やめろ!」
剣が石柱を断った。子どもの指が示していた場所だ。地下を塞ぐフォルマとともに、城壁を覆うオルビスまで消えた。
外から放たれた光が、家々へ落ちる。
炎の熱に顔をしかめながら、オーレリアンは傷を直すフォルマを黒碑の材へ留めた。空いた思考が、離れていく魂を追う。
地下の廊下で、扉を守る男が剣を抜いた。視界が跳ね、刃で肉を断つ感触に、オーレリアンの指まで強張った。
少年は死者の手を掛け金から外し、扉を開けた。出てきた者たちは、もう人の形をしていなかった。それでも笑い、肩へ触れ、礼を言って走り去った。
その先で悲鳴が上がった。
悲鳴の方を見ようとしても、視界は動かない。少年が見なかった先へは、オーレリアンも行けなかった。扉の向こうに炎が広がりかけ、その光景さえ途切れた。
*
「もう、斬ってくれ」
ルーカスの顔に、オーレリアンは息を詰めた。変わり果てた身体を戻そうとするフォルマが崩れ、握った剣だけが光っている。
胸へ刃が入った。抱き止めた身体から、力が抜けていく。背へ回された左手の感触まで、フォルマを伝わった。
そばに横たわるルーカスの唇は動かない。最後までニコを逃がそうとした声を、オーレリアンは聞き続けた。
途切れた記憶の先で、ニコはその剣を自分へ向けた。喉に痛みが戻る。最初に伝わったのは、これだった。
記憶が途絶えても、ニコを支える腕は動かなかった。抱き直そうとする意志だけが先へ走り、自分の身体を動かすフォルマまで噛み合わない。
「オーレリアン様」
テオヴァルドが手首をつかんでいた。声は引き延ばされて聞こえる。その手の感触を頼りに、腕を動かすフォルマのずれを直した。
膝の重みが戻った。ニコへ届くつながりも、まだ残っている。
自分の魂が死を越えた時のつながりを見本に、黒碑の材へ留めたフォルマを組み替え、少年の魂と身体の間へ渡した。
幾重ものオルビスが広間を満たした。飛んできた石が光に押し返され、テオヴァルドの影が壁を上る。腕から浮いた身体へ光が集まり、傷を覆った。
オルビスが重なって縮み、喉へ沈む。腕の黒も、伸びた髪も残っていた。
(町の守りが落ちると知っていて、あの柱を斬った。その先を思い出すたびに――)
魂が身体へ重なり、最後の光がほどけた。
戻った重みを抱き止めると、胸が跳ねた。ニコは息を吸い、咳き込みながら目を開いた。そばに横たわるルーカスを見て、その唇が震えた。
「……どうして、助けたんですか」
「今度こそ、運命から目を逸らすな。ニコ、いや……クレイド」




