慟哭
「――っ!」
跳ね起きたニコの前に、ルーカスの背中があった。制服を着て、両足で立っている。
「ルーカス……戻れたんだ」
手を伸ばして初めて、枷に気づいた。膝の下は石床で、見覚えのない柱が吹き抜けを囲んでいる。それでも目の前の袖をつかめば、ここから連れ出してもらえる気がした。
ルーカスが振り返った。ニコとは目を合わせず、階段の上を見た。
「その子を押さえろ」
学院長の声に、柱の間のオルビスが光った。右腕を上げたルーカスの袖が裂け、人の指を包むように爪が伸びる。脇腹から獣の胸がせり出し、突き出した脚が床を砕いた。
爪を手枷で受けたが、両腕ごと床へ叩きつけられた。ルーカスが身をかがめ、胸に重みがのしかかる。
「ひ、ひひっ……戻しても、命令は利くな。礼を言うよ、クレイド。……今は、ニコだったな」
呼ばれた名に、思わず顔を向けた。どうして、その名を。口を開いても息が出ず、爪が枷を押し下げて喉へ食い込んできた。
轟音とともに床が跳ね、ニコを押さえていた巨体が横へ崩れた。柱が軋み、天井から剥がれた石が階段へ降り注ぐ。学院長が手すりにしがみつくと、柱の間のオルビスが乱れ、喉に食い込んでいた爪が外れた。
両腕を引くと、手枷の金具が歪んだ。ニコは手首を切られる痛みもかまわず、それを引きちぎった。床を転がった背後で石が砕ける。階段脇の剣へ飛びつき、そのまま学院長の喉を狙った。
「止めろ!」
刃の前に、ルーカスの顔が割り込んだ。とっさに剣を引いた。その隙に拳が胸へめり込み、背中が柱にぶつかった。
「邪魔をするなよ……あいつを、止めれば」
答えもためらいもなく、爪が振り下ろされた。這うように逃れた頭上で柱が折れ、吹き抜けへ倒れ込む。上階の窓が内側から弾けた。
ルーカスが学院長の前へ戻るたび、柱の間から光が追う。あれを断てば。倒れた柱を駆け上がり、剣をオルビスへ叩き込んだ。光が砕けると、ルーカスは膝をついた。
「来るな……ニコ、逃げろ」
ようやく目が合った。涙をこぼしながら、ルーカスは左手で右腕を引き戻そうとしていた。それでも爪は床を掻き、ニコへ伸びてくる。
「一緒に出るんだ。手を貸して」
爪を剣で押し返しながら、差し出された左手を握った。ルーカスがフォルマを組み始める。だがニコがその組み方を確かめる間もなく、握った手が強張り、ルーカスの口から血があふれた。
「待って。もう少しだから」
ニコは自分でもフォルマを使おうとした。指先に浮かんだオルビスは、ルーカスへ光を渡す前にほどけてしまう。剣ばかりが光っていた。
ルーカスの胸が膨れ、骨が制服を突き破った。首の脇に開いた獣の顎が、ニコの顔へ噛みつこうとする。剣で遠ざけても、人の唇からは血がこぼれ続けた。
「もう、斬ってくれ」
「そんなこと、僕に言わないでくれ」
爪が肩を裂いた。声を上げたのはルーカスだった。左手を離し、ニコを押し退けようとする。ニコは離れず、その手を握り直した。
「頼む。お前まで……」
その先は言わせなかった。握っていた手を離し、ルーカスの胸へ剣を突き入れた。骨に止められた刃を、両手で押す。力の抜けた身体が覆いかぶさってきて、ニコは剣を離して抱き止めた。
左手が背へ回り、弱く布をつかんだ。抱き締め返そうとした時には、もう力が抜けていた。
頬を口元へ寄せて待ったが、息はかからなかった。
「ルーカス」
頭上の窓を光が斜めに横切り、庭で轟音が上がった。吹き込んだ屋根石からルーカスの頭をかばう。抱き寄せても、顔は肩に伏せられたまま動かなかった。
階段を上っていく靴音に、顔を上げた。学院長は出口へ向かっていた。ニコはルーカスを横たえ、胸から剣を抜いた。
「どこへ行くんですか」
「私に剣を向けてどうする。あの子を殺したのは、お前だろう!」
柄を握る手が震えた。夢の廊下が視界へ割り込み、背骨を引き抜かれるような痛みに、立ちかけた身体が折れる。床をつかんだ指が石を砕いた。食いしばった口の中で犬歯がわずかに伸び、唇の裏を傷つけた。
「分かってるよ、そんなこと……!」
腕の皮膚がひび割れ、その奥から黒が広がった。手首から肘へ、太い帯が食い込むように肌を分断していく。その間に残った肌が引きつれ、肩まで痛みが突き抜けた。
泣き声が悲鳴に変わった。髪が肩を越えて伸び、うつむいた顔を覆う。背へ流れ落ちるその髪にも構わず、床へ拳を叩きつけた。膝の下まで石が陥没し、破片が階段を打った。
顔を上げた時には、虹彩が淡い銀色に変わっていた。頬に張りついた髪の間から、涙をこぼす目が学院長を睨み据える。血の滲む唇からは、まだ嗚咽が漏れていた。
逃げる男の靴底が、階段で滑った。
「下がれ! その身体も、私なら戻せる。まだ間に合うぞ」
「だったら、ルーカスを返せよ!」
返事を待たず、床を蹴った。学院長のオルビスが放つ衝撃をまともに浴び、壁へ叩きつけられる。
背中を打った壁を蹴り返し、杖の先に開いたオルビスへ剣を叩きつけた。撃ち出された光は頭上をかすめ、吹き抜けの柱を砕いた。
上階の床が沈み、壁を引き倒して落ちてくる。学院長は自分の頭上に障壁を張った。その足元へニコが滑り込み、喉へ突き出した剣も、寸前で光に阻まれた。
両手で柄を握り、叫びながら押し込んだ。光を帯びた刃が障壁を裂き、差し出された杖を断つ。逃げようとする肩をつかんで壁へ叩きつけると、男の背から石に亀裂が走った。
崩れた壁の向こうを、二つに裂けた巨体が落ちていった。回廊を潰す音が、足元まで響く。
「待っ――」
その喉へ剣を突き立てた。
刃の背後で壁が崩れ、支えを失った正面の石段まで落ちてきた。土煙の向こうに、空が開く。
ニコの叫びを、崩落の音が呑んだ。




