忘却
中央棟へ逃げ込んだ学生たちに続き、ニコとルーカスも、行き先を知らされないまま地下への階段を下りた。
階段の半ばで、ニコの足が止まった。壁へ背を預けたまま座り込み、こめかみを押さえた指が震えている。息だけが、しだいに速くなっていった。
「ニコ。俺が分かるか」
「馬車を止めて。まだ、みんなが」
「ここに馬車はない。俺を見ろ」
ニコは何度か瞬きをした。
「……ルーカス?」
「頭は?」
「何ともないです。それより、どうして止まってるんですか」
見覚えのない階段は、夢の中の廊下とは違って何度も折れた。気づけば、二人は学生で埋まった地下広間にいた。壁沿いの寝台には、夢で見たものとは違う金具が並んでいる。それでも、背中だけはあの冷たさを覚えていた。
広間の奥では、数人の教員が待っていた。どの外套にも、土も灰もついていない。
「エーベルはどうした」
「先生なら、後ろにいます」
振り返った先に、エーベル先生はいなかった。
橋の中央で両腕を上げた背中。崩れ落ちた街路。石の間で小さく折れた人影。
「先生は……来ます。僕たちを先に渡らせて、それから――」
その先が続かなかった。息を吸っても、胸へ入ってこない。ルーカスに腕をつかまれたまま、ニコは来た道へ向かって叫んだ。
「先生!」
その声を、橋の崩れる音が呑んだ。
地下の広間も、腕をつかむルーカスの手も遠ざかり、瓦礫の奥から忘れたはずの声が近づいてきた。
*
町はまだ燃えていなかった。窓の外では警鐘が鳴り、城門へ向かう兵の足音が続いている。机いっぱいに広げた町図には、城壁の守りと地下区画の封鎖を結ぶ線が、何重にも書き込まれていた。幼い指が、すべての線が重なる一点で止まった。
「ここを止めれば、地下は開きます」
「町の守りまで落ちる。地下だけ切り離せ」
「僕には組み直せません。でも、止める場所は分かります」
机の隅に置かれた伝声管から、途切れた声が届いた。ここにいる。まだ人だ。開けてくれ。同じ部屋で目を覚まし、震えていたニコへ水を分けた者の声だった。
「城壁を守れ。地下は諦めろ」
幼い指は地図から離れなかった。外を走る足音と、地下から呼ぶ声。その間で、すべての線が重なる一点だけを見つめていた。
*
馬車が揺れるたび、額が板壁へぶつかった。窓の外には、低い屋根が平らな土地の果てまで続き、その一角が燃えていた。見覚えはあるのに、町の名だけがない。
「どこへ行くの」
向かいに座る男は、ニコの膝へ外套を掛け直した。袖口まで血に濡れていた。
「ヴァルテンだ。あの学院なら、お前を人として匿ってくれる」
「ほかの人は?」
返事はなかった。
御者台から、別の声がした。
「この子と記録だけは、必ず学院へ。照会には母方の名を使え。元の名は出すな」
「僕の名前は――」
そこで、記憶は途切れた。
*
馬車の揺れが消え、地下の広間が戻ってきた。ニコの右手は、剣の柄を握りしめていた。
「ここじゃない」
広間の奥にいた男は、驚きもしなかった。
「君が処置を受けたのは、ヴァルテンではない。別の町から運ばれてきた時には、すでに人の姿へ戻り、過去をほとんど失っていた。我々へ届いたのは、君と記録だけだ」
「エーベル先生も知っていたんですか」
「知れば、彼は君を連れて学院を出ただろう。伝えてはいない」
壁際で金具が鳴り、寝台へ押さえられた学生が身をよじった。
「記録から再現できたのは、人の身体を変えるところまでだ。元へ戻す条件は、君にしか残っていない」
ニコは剣を抜いた。刃にだけ光が残る。
「触らせません」
男が杖を向けた。衝撃はルーカスの障壁に阻まれ、その陰から飛び込んだニコの剣が杖を弾き飛ばした。
杖を拾おうと身を屈めた男が、右手を見た。伸びた指の先で、爪が石を削っていた。
「なぜだ。私は――」
見下ろす間にも、右腕は肩から膨れ、外套を裂いた。左手で押さえても止まらず、喉から漏れた叫びは途中で人の声ではなくなった。
男のそばにいた者たちも動きを止めた。それでも寝台の金具は動き続け、学生たちを覆い始める。
「ニコ、後ろだ!」
剣が金具を断った直後、ルーカスがニコを突き飛ばした。床を砕いて伸びた腕が、ルーカスの脇腹を貫き、制服の背を破った。
自分の腕とルーカスを見比べ、男は声も出せずに口を開いていた。
倒れ込むルーカスを、ニコは抱き止めた。息はある。傷を押さえても、指の間から血があふれた。
変わり果てた男の後ろで、誰かが扉へ走った。
「逃げろ! 次は私たちだ!」




