門の向こう
ニコの袖をつかんでいた指が、ゆっくり離れた。
兵士の目は開いていたが、視線はどこにも定まらない。まだ人のままの左胸が大きく持ち上がり、ひと呼吸遅れて、硬く変わった右半身も膨らんだ。
左右の胸が、また別々の速さで上下し始めた。
「動かないでください。今、痛みを止めますから」
左脇を押さえたエーベル先生が近づく。兵士は左手で胸を押さえ、指へ力を込めた。崩れた病室を見たあと、血の滲む先生の脇腹で視線を止める。
「ここ……だめだ」
兵士は壊れた回廊へ身体を向け、左脚で一歩を踏み出した。
「外へ――」
そこまでは、自分で選んだ動きに見えた。
次の瞬間、異形の右脚が中庭を蹴った。兵士の姿が消え、遅れて石柱が砕ける。ニコの剣は空を切った。兵士は回廊を突き破って隣の病舎へ飛び込み、屋根を内側から破った。
屋根が崩れるより先に、兵士は二つ先の屋根へ着地していた。
そこから坂道へ飛び降り、人々が声を上げるより早く駆け抜ける。右脚が石畳を砕き、遅れる左脚を引きずっても、速さは落ちなかった。
誰にも爪を向けず、ただ東へ走っている。
「門だ!」
あの速さを後ろから追っても間に合わない。ルーカスはニコとともに脇道へ折れ、東門の城壁へ続く階段を駆け上がった。
腕を振るたびに、治りきらない右肩が痛んだ。前を行くニコは三段ずつ跳び、狭い踊り場で守備兵を追い越した。
胸壁へ出た時、兵士はもう城壁の外にいた。
門楼の外壁には、上へ走る新しい爪痕。灰色の影はすでに斜面を駆け下りていた。二人が階段を上っている間に、門を越えたのだ。
さらにその先を、長い軍列が進んでいた。
泥まみれの歩兵に、荷車と疲れた馬が続く。兜の下には新しい包帯が覗き、馬上の兵も背を丸めていた。音楽も鬨の声もなく、空の担架が列の中央に並んでいる。
盾はヴァルテンへ向いていない。騎兵は何度も後方を振り返り、弓兵も来た道の先を警戒している。
兵士は、その軍列へ向かっていた。右脚が地面を抉るたびに距離が縮まり、遅れる左脚はもうほとんど地面に触れていない。
風が煤けた旗を持ち上げ、そこで初めて、カシミール皇子の紋章が見えた。その周囲には、東部諸侯の旗が混じっていた。皇子の直属兵と各地の軍勢からなる、ヴァルテンへの援軍だった。
前列が灰色の影に気づいた。
盾が揃い、弓兵が片膝をつく。後ろの術者たちが杖を上げ、その頭上へオルビスが開いていく。行軍の列が、短い間に射撃の形へ変わった。
「……撃つな」
ルーカスの声は、隣にいたニコにしか聞こえなかった。軍列から警告の声も上がらないまま、矢の雨が人の胸も灰色の肩も区別せずに打ち抜いた。
続いて白い光が落ちる。異形の背が焼け、右腕が肘から砕けた。地へ伏しても射撃は止まらず、白い光が幾度も同じ場所を貫いた。
人の左手が一度だけ土をつかみ、次の一射で動かなくなった。
援軍はすぐに隊列を戻した。倒れた身体へ近づく者はいない。盾は再び来た道へ向けられ、後方から迫る敵に備えている。
彼らは、ヴァルテンへ達する前に一頭の魔獣を仕留めた。それ以上のことをした顔は、誰にもなかった。
城壁の上で、ニコは剣の柄から手を離した。ルーカスは何も言えないまま、射撃の止んだ野を見ていた。
◇
最後のフォルマがマルクの身体を貫いた瞬間、誰もいない治療所で、箱馬車から降ろした鉄台が低く鳴った。
鉄台の中央に白い光が灯り、すぐに黒く濁った。その色が、背中へ当たっていた細い金具へ一本ずつ流れ込んでいく。
空の革帯がひとりでに締まり、金具が一つずつ起き上がった。
人のいない台の上に、次の一人ぶんの形だけが残った。




