兵士の名前
エーベル先生のフォルマが、兵士の胸の傷へ触れた。
「待ってください」
何を止めるのか聞き返す間もなく、裂けた軍服の下で何かが跳ねた。
人の胸が沈み、その内側から別の胸郭がせり上がる。肩を覆っていた甲殻は首筋へ食い込み、背骨に沿って腰まで走った。寝台の枠が軋み、革帯が一本ずつ弾け飛ぶ。
エーベル先生の袖を、人の左手がつかんだ。
「止め……」
言葉は最後まで続かなかった。
甲殻の腕が横薙ぎに振るわれ、先生の身体が治療棚へ飛んだ。ルーカスは考えるより先に障壁を差し込み、薬瓶の破片と先生をまとめて受け止めた。
寝台が跳ね上がった。床へ落ちた兵士は、もう片腕で身体を引きずってはいなかった。曲がっていた右脚が獣のように伸び、床石へ爪を食い込ませている。人のまま残った左脚だけが、その速さについていけずに震えていた。
顔だけは変わっていない。見開かれた目には、助けを求めた時と同じ恐怖が残っている。それなのに身体は、治療室の壁を突き破った。
石片とともに中庭へ飛び出すと、門楼の術者たちがオルビスを開いた。ここで撃てば、兵士の背後にある病室まで巻き込む。
「患者を奥へ!」
額から血を流しながら、エーベル先生は目の前の巨体をまだ患者と呼んだ。
ルーカスは兵士と病室の間へ立ち、障壁を広げた。甲殻の肩が正面からぶつかり、光の面にひびが走る。治りきっていない右肩が焼けるように痛んだ。
背後で寝台の脚が石床を擦り、廊下の奥へ遠ざかっていく。
二撃目で障壁が砕け、ルーカスの身体が石畳を転がった。見上げた視界を巨体が塞ぎ、そこへ横からニコの剣が入る。薄い光をまとった刀身が甲殻の肘を受け止め、踏ん張った靴の下で石が削れた。
兵士の左手が、振り上げた右腕をつかもうとしていた。届かない指が何度も空を掻く。
「聞こえてる。まだ、そこにいる」
ニコは剣を外さなかった。
甲殻の腕がさらに膨らみ、刃ごと押し込んでくる。ニコの靴が石畳を離れ、切っ先が頬のすぐ横まで迫った。
石畳から突き上がった柱が兵士の脇腹を打ち、ニコを押し潰す寸前で巨体を横へさらった。続く石柱が胸と腰を挟んだものの、甲殻が軋むと石の方が砕けた。
折れた柱の陰から伸びた巨腕を、先生は避けきれなかった。爪が左脇を裂き、血が外套へ広がる。それでも倒れず、残った柱を兵士の右脚へ絡ませた。
「先生!」
「前を見ろ、ルーカス!」
振り返った一瞬で、兵士の口が大きく開いた。喉の奥に、人のものではない音が膨らんでいる。
ルーカスは両手を前へ出した。放たれた咆哮が衝撃となって中庭を薙ぎ、障壁を半円に歪ませる。窓が一斉に割れ、膝が石畳へ落ちた。右肩から腕の感覚が消えても、病室への道だけは譲らなかった。
衝撃の向こうに、ニコの姿がない。名を呼ぼうとした時、崩れた回廊の下で石が持ち上がった。細い腕で梁を押しのけ、額から頬へ血を流したニコが、落ちていた剣を拾う。
兵士はエーベル先生へ向かっていた。右脚が地を蹴るたび、人の左脚が遅れて引かれる。膨れ上がった胸郭も同じだった。人の胸が息を吸った後から、甲殻の奥がもう一度膨らむ。
ニコの目は、振り上がる爪を追っていなかった。見ているのは、左右でずれる足と、二つの胸だった。
先生へ爪が届く寸前、兵士の身体がわずかに傾く。左脚が、人の身体を逃がそうとしていた。
ニコが走った。
甲殻の背へ飛び乗り、首元へ剣を滑らせる。人の肌と甲殻が接するところへ刃を横向きに噛ませると、刀身の光が増し、暴れる右半身を外へ押し返した。
ニコごと振り落とそうと、巨体が中庭を駆けた。
「ルーカス!」
残った力をフォルマへ注ぐ。兵士の足元が沈み、伸びきった右脚だけが深く石畳へ落ちた。勢いを失った巨体が片膝をつく。
エーベル先生の石柱が甲殻の腕と右脚を呑み込み、地面へ押さえつけた。石に挟まれた甲殻の間で、血に濡れた人の胸だけが上下していた。
中庭を揺らしていた咆哮が途切れる。
それでもニコは剣から手を離さなかった。刀身を抜けば、止めた右半身がまた動く。
兵士の左手が上がり、血に濡れた指がニコの袖をつかんだ。今度は、甲殻の腕に引かれていなかった。
「名前を」
エーベル先生が脇腹を押さえたまま、兵士の正面へ膝をついた。
「あなたの名前を、聞かせてください」
喉の奥では、まだ獣の音が鳴っている。唇が震え、最初にこぼれたのは血だけだった。
「……マルク」
その名を口にした途端、見開かれていた目がニコを捉え、地面を割ろうとしていた甲殻の爪から力が抜けた。人の手だけは、最後まで袖を離さなかった。
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それでは、また次のお話で。




