帝国の知らない春
アッシュフェンがエッダ・ベルクの視界から消え、次の瞬間、左の大肩甲に牙を立てた。火花と金属音が兜の内側まで走る。それでも、灰銀の全身鎧は揺れなかった。
退こうとしたエッダの身体より先に、鎧が前へ出る。背から右腕へ細い文様が白く走り、左肩で獣の顎を押し上げた。右手の大剣が低く閃く。重い刃は骨で止まらず、獣の胴を斜めに断った。
死骸が落ちる前に、次の一頭が喉元へ跳ぶ。
エッダは大剣を戻さず、左の籠手でその顎をつかんだ。肩から指先まで文様が灯る。踏み込んだ足が土を割り、獣の身体を頭から地面へ叩き込んだ。首の骨が鳴る頃には、光はもう消えている。
ヨリス・ファルクがその横を駆け抜けた。脚甲から腰へ白い文様が一瞬だけ浮かび、巨体が残光を置いて加速する。長柄の刃が一閃し、エッダの背後へ迫っていた獣の首が、勢いを残した身体から遅れて落ちた。
その向こうでは、低い丘も古い道も、押し寄せる煤色の背と牙で埋まっていた。
バスティオンたちは群れへ一斉に駆け込んだ。鎧の継ぎ目で文様が次々と灯り、白い残光が草を低く薙いでいく。
先頭の一頭を大肩甲が弾き、ねじれた首の脇を抜けた大剣が、次の胸まで割る。長柄の刃は跳びかかる影を空中で捉え、地へ落ちる前に首を断った。
群れの中でも、灰銀の巨体は止まらない。肩で牙を逸らし、腰に走る光で重い刃を返す。短い残像を追うたび、魔獣が一頭ずつ地へ沈んだ。
足を滑らせた一人も、籠手で地面をつかみ、腕から腰へ光を走らせて巨体を回した。追ってきた獣の脚を大剣で払い、立ち上がった時にはもう前を走っている。
群れが左右から閉じるたび、鎧の列は白い残光を引いて向きを変え、その輪を内側から裂いた。
土煙の奥から、ひときわ大きなアッシュフェンがヨリスへ飛びかかる。ヨリスは退かず、長柄をその前脚へ絡めて身体ごと引いた。
「エッダ!」
名を呼ばれる前から、エッダは走っていた。背に灯った白い文様が肩と両脚へ広がり、灰銀の巨体を一息に押し出す。横腹へ大肩甲がめり込み、獣の身体が浮いた。光が右腕へ集まり、大剣がその首を断つ。首を失った巨体は、群れの足元へ血を引きながら沈んだ。
それを見た一頭が背を向けた。退こうとした獣同士がぶつかり、折り重なったところへ灰銀の鎧が迫る。大群はついに形を失い、深い草の向こうへ散っていった。
エッダは大剣を下ろした。草原には斬られ、砕かれ、踏み伏せられた魔獣が重なっていた。その間で、灰銀の巨体はどれも立っていた。
ヨリスが長柄の刃から血を払った。
「逃げずに済んだな、俺たち」
「違うよ」
エッダは、草の向こうへ消えていく煤色の背を見た。
「逃げたのは、向こう」
◇
兜を上げると、春の風が汗に冷たかった。エッダは肩で息をしながら歩く。行きには遠いと思わなかった城壁が、帰りはなかなか近づかない。
「まだ走れる?」
「飯が逃げるなら」
エッダは息を切らしたまま笑った。
街道の両側では、若い麦が低い丘を越えて続いていた。畑の端は、エッダが前にこの道を通った時より、さらに一つ向こうの丘へ移っている。その先では、幅広い鋤を引くオートマタが、残った草地を何列もまとめて土へ返していた。畑にいた人々は仕事の手を休め、戻ってくるバスティオンへ手を振る。離れた斜面では羊が逃げもせず、頭を下げたまま草を食べていた。
「城壁、また高くなってない?」
「もう分からないな」
ヨリスが笑った。城壁へ近づくほど道は広がり、門前の井戸には旅人が並んでいた。新しい宿から焼いたパンの匂いが流れ、軒先にはエッダの知らない商会の印が揺れている。
壁の向こうには屋根が幾重にも重なり、以前はどこからでも見えた白い水塔が、その間から上半分を出すだけになっていた。
通りにいた子どもたちは道を空け、それから開いた兜の顔を見つけて駆け寄った。
「エッダ、おかえり。今日は、ここまで読めたよ」
エッダは片膝をついた。泥だらけの籠手で、小さな手を壊さないように握る。その子が抱えた読み本には、同じ文字が何度も書き直されていた。
「ただいま。鎧を脱いで、ご飯を食べたら聞かせて」
子どもは満足して走っていった。ヨリスが隣で腹を押さえ、「先に飯なのか」と呟く。
石畳を駆ける小さな背は、斜面を埋めた家と工房の間へ消えていった。水路の橋では、材木を抱えたオートマタが足を止めて道を譲る。その向こうから槌の音が幾重にも返ってきた。
◇
ブラッカが、鎧を脱いだエッダとヨリスを連れて部屋へ入ってきた。卓上には、テオヴァルドの昔話の本が青い布に包まれている。はみ出した頁には山の西から来た使者たちの書き込みが重なり、端には湾沿いの町の名まで増えていた。
青い布の隣には、帝国鷲の印で封じた厚い紙包みと、ローデン子爵家の封をした薄い包みが並んでいる。帝国の方にある宛名は、アッシュマークではなく、「辺境男爵各位」だった。
「全員、戻りました」
ブラッカの声を聞いて、オーレリアンが笑った。
「よくやった。もう、門の外を任せられるね」
「最近は、町から離れないと、まとまった群れに会いません。訓練の場所も少しずつ遠くなっています。この春は、別の追放先から来る家族も増えました。エッダもその一人です」
「何を聞いて、ここへ来たの?」
「食べるものがあって、夜も魔獣を怖がらずに眠れる町だって。ここなら、もう家族を連れて逃げなくていいと思いました」
「噂どおりだった?」
「はい。今は、私も守る側です」
オーレリアンは目を細めて笑い、先に帝国の紙包みを開いた。去年と同じ欄を埋めて返せという定期便で、添えられた古い記録では、アッシュマークの戸数も耕地も守備も空欄だった。
「帝都は、私が生きてるかどうかも知らないみたいだね」
次にローデンの封を切る。中には古い軍道の粗い図と、証言者の名を記していない一枚の報告、それに街道沿いで控えられた荷札の写しが入っていた。いちばん下には、ブレーゲン市警から上げられた報告書まで綴じられている。
「ブレーゲンで異端審問官四名が死亡し、市警へ術を向けた件について、私と従騎士一名に指定の日までの出頭を命じる。応じなければ、アッシュマークへ出入りする荷をローデンで留め置くそうだ。仕方がない。テオと行く」
(いやな匂いがする)
窓の外を、帰ってきたバスティオンたちが通り過ぎる。灰銀の背に白い文様が一度だけ灯り、工房の大扉が開いた。その足音は、ローデンが集めたどの紙にも記されていなかった。




