山の西の国
黒碑の広間が見える前に、エレンは白墨の跡を外れた。
壁際の裂け目へ灯りを差し入れる。浅い水が岩の奥を流れ、西から来る風が光の先を揺らした。
「あの広間を通らないのですか」
若い隊員の声は、来た時より低かった。
「通りたいか」
彼は少し迷ってから、首を横に振った。
「……いいえ」
「私もだ」
肩を横にして裂け目へ入る。もう一人が地図を畳んで続き、若い隊員の足音も、その後から聞こえた。
岩の隙間は、水に削られて人一人がどうにか通れる。冷たい流れへ靴を沈め、黒い岩肌に沿って進むと、やがて前方に白墨が戻ってきた。
裂け目の西端は白く焼け、オーレリアンのフォルマが山へ穿った穴の途中へ抉り開かれていた。
その向こうには、秋の夕暮れが残っていた。
◇
山裾の先で、海が夕映えを抱えていた。
大小の島が浮かぶ入り江を、街の灯りが縁取っている。見慣れた潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、エレンはようやく肩の力を抜いた。
麓の詰所では、朝に三人を送り出した番兵が立ち上がった。
「もう、お戻りで?」
「こちらでは、まだ今日か」
「夕の鐘を鳴らすところです」
背後で、若い隊員が息を吐いた。
「よかった……」
向こう側では三か月を奪った山が、今度は夕暮れ一つ奪っていない。
街は山の斜面から海際まで、幾段にも降りていた。深い軒の家々を木と色硝子の渡り廊下がつなぎ、坂の半ばから工房と倉が増えていく。さらに下では水路が通りの間へ入り、そのまま船着き場まで続いていた。
海へ突き出した桟橋の向こうにも家の灯りがある。島との間を渡る帆船が、夕凪へ細い航跡を引いていた。
上段から落ちてきた水を、二人の水路番が重ねたオルビスで分ける。片方が流れを支え、もう片方が共同浴場と家々の水口へ送った。下の運河では、別の二人が跳ね橋を上げるのを待って、小舟がゆっくり通っていく。
水路の脇で落葉を掃いていた子どもたちは、大人が止めるより早く、一枚ずつ流れへ浮かべて叱られていた。
一枚がエレンの靴先へ流れ着く。追いかけてきた子どもが葉を拾い、泥のついた手のまま顔を上げた。
「隊長、山の向こうには何があったの?」
「家を直す白い巨人と、本を待ってる騎士」
「怪物は?」
「山の中に置いてきた」
子どもは納得して、また坂を駆け下りていった。
潮と煙、焼き上がった黒パンの匂いが通りに混じる。店先には、山草と塩漬けの実を練り込んだパンが積まれていた。
「食べてきたばかりなのに、腹が減りました」
地図を抱え直した男が言った。エレンは、まだ少し青い若い隊員の顔を見る。
「それなら、身体の方も帰ってきたらしいな」
魚籠を担ぐ者にも、工房から出てきた者にも、虹彩に淡い輪を持つ者がいた。片目だけに輪を持つ者も、何も持たない者も、同じ家の扉へ消えていく。
◇
若い隊員の放った矢も、エレンが続けて仕掛けた拘束式も、崩した礼拝堂も、一つ残らず報告へ載せた。
返ってきた答えは、まだ閉じるな、まだ開くな、だった。オーレリアンの書状だけが、さらに奥へ回されている。
「僕の矢が、道を閉じる理由になりますか」
廊下で待っていた若い隊員は、弓のない肩へ手をやった。
「なる。私がもう一度手を出したことも、礼拝堂を壊したこともだ」
「でも、隊長は僕を止めました」
「その後で、私も相手を敵だと決めた」
若い隊員は、ようやくエレンの顔を見た。
「次は連れていけない。だが、おまえをあの一本だけで覚えるつもりもない」
「……もう一度会えたら、謝ります」
「そうして。私も一緒に謝る」
宿舎へ戻る途中、同行した男が掲示の前で足を止めた。
東から届いたばかりの紙に、生け捕りの魔獣を積んだ檻と、負傷兵の荷車が、同じ隊列で進んでいたとある。治療術士まで同行していた。
「同じ隊列に?」
「治療術士は、誰のためでしょう」
エレンは答えなかった。
生け捕りという言葉だけが、見慣れた命令の列から浮いている。
魔獣は、見つけ次第殺す。
これまでは、それで終わっていた。




