バスティオン、大地に立つ
「例のあれですか」
朝の工房に、鈍い灰銀の全身鎧が立っていた。
テオヴァルドの鎧より一回り低い。それでも人の背丈を大きく越え、厚い胸甲から脚甲まで、着る者を隙間なく包んでいる。左肩だけは首元へ高くせり上がり、右肩は剣を振るために小さく抑えられていた。
鎧を一周し、ブラッカが胸甲の継ぎ目へ指を入れた。
胸甲が左右へ開く。内側には人一人が立てる空間があり、背に沿って細い文字が並んでいた。
鎧の前の長卓には、小さな環が一つ置かれている。人の背骨を一節だけ囲める大きさだった。
危険については、すでに話してある。オーレリアンはその場で答えを求めず、ブラッカは翌朝、自分から引き受けると伝えに来た。
「ブラッカ。本当に、いいんだね」
「怖くないとは言いません」
開いた鎧の中を、ブラッカは見た。
「ですが、魔獣の影を見るたび、壁か穴へ逃げる暮らしには飽きました。ここでもう一度、人を守れるなら悪くない」
「分かった。始めよう」
◇
ブラッカが長卓へうつ伏せになると、環が肩甲骨の間へ浮かんだ。
オーレリアンの掌から、薄いオルビスが三つ開く。重なった光が皮膚の下へ沈み、血管と神経を避けて背骨まで細い道を作った。
環が二つに割れ、その道へ降りていく。
冷たい金属が背骨を挟んだ瞬間、ブラッカの指が卓の端を強くつかんだ。
二つに割れた環が、身体の内側で一つへ閉じる。
光を逆の順でほどく。押し分けられていた組織が戻り、最後に皮膚へ赤い線だけが残る。
包帯を巻かれても、ブラッカはすぐには起きなかった。息を整えてから、開いた胸甲へ足を入れる。
古傷のある左脚だけが、わずかに遅れた。
ブラッカの右手に、硬貨ほどのオルビスが浮かんだ。
文字が閉じる。
背の包帯の下で環が灯り、白い光が鎧の内側へ走った。
踵がわずかに上がる。その動きを拾った脚甲が床を捉え、ブラッカの身体ごと巨体を引き起こした。胸甲、肩、腰、籠手が一息に噛み合い、最後に兜が下りる。
左右で輪郭の違う巨人の影が、工房の壁いっぱいに伸びた。
一歩目で、鎧は左へ傾いた。
胸甲と大肩甲が外へ逃げ、腰の支えが下がる。巨体は中の人間を潰さず、片膝をついて止まった。
床に残った足跡は、右だけが深い。
「古傷を庇う癖まで、大きくしてる」
オーレリアンが左脚の文字を一つ書き換えた。
ブラッカはもう一度立った。
重心を前へ移した途端、両脚が床を蹴る。
工房の端が、一息で迫った。
身体を返せば、腰の動きを拾った鎧が鋭く旋回する。右肩が稽古用の板を弾き飛ばした。ブラッカが反射的に腕を伸ばすと、籠手は回転する板へ追いつき、空中でつかんだ。
落ちてきた石袋が左の大肩甲を打った。表の一枚が滑り、衝撃を反対の足へ逃がす。続く袋も胸で受け、その重さを横へ流した。
工房の奥で、石を積んだ荷車が放たれる。
床を蹴った。脚甲の文字が白く燃え、一歩ごとに光が腰、肩、腕へ移る。荷車の正面へ回り込み、両手を突き出した。
衝突の音が工房を震わせた。
石が跳ね、車軸が軋む。鎧は半歩だけ押され、足元から石の粉を噴き上げて止まった。
壊れたのは、荷車の前板だけだった。
ブラッカが両手を開いた。そこからは、足音が動きに追いつかなかった。
工房を駆け抜け、石袋の間を抜け、倒れかけた木柱を肩で押し戻す。継ぎ目の文様が灯るたび、巨体は重さを失ったように加速した。
やがて右手のオルビスが崩れ始めた。文字が閉じる前に欠け、呼吸だけが鎧の中で大きくなる。
オーレリアンの手が上がった。
巨体は床を長く削り、片膝をついた。舞い上がった石の粉だけが、遅れて肩を越えていく。
兜が上がり、胸甲が開いた。
降りたブラッカの左膝が揺れる。彼は倒れず、古傷の残る脚へゆっくり体重をかけた。
「……痛くない」
左膝を曲げ、伸ばす。工房の端まで続く自分の足跡を眺めてから、まだ光の残る鎧を振り返った。
奥の壁が横へ開いた。
同じ鎧が、その向こうに並んでいる。どの兜にも光はなく、開いた胸甲の内側には、まだ誰もいない。
鎧の列を見渡すブラッカの横で、オーレリアンが疲れを隠しきれない顔のまま、それでも少し得意そうに笑っていた。
「今日から、この鎧を着る者をバスティオンと呼ぶ。砦って意味だよ」
開いた工房の向こうでは、盾役たちが手を止めてこちらを見ている。
「ここで暮らす人たちの、砦になってほしい」
兜へ手を置き、ブラッカが小さくうなずいた。




