閉じるまで、あと一歩
「戸を閉めろ。倉を守れ。外にいる連中まで待つな」
短剣の男も、赤いオルビスを消した男も、その命令に続いた。護衛隊長は馬首を旧軍道へ返し、残った二騎も後を追う。三つの箱を置き去りにして、帝国兵は泥の向こうへ消えた。
閉まりかけた扉の外に、子どもがいた。裂けた麻袋のそばで立てずにいる。
桶を抱えていた少女が雨の中へ走った。子どもを抱き起こし、扉へ割れた長椅子を蹴り込む。押し合う人々に阻まれ、まだ中へ入れない。
「戸を閉ざすな。外の者を入れよ」
声を受け、扉へかけられた手が止まった。オーレリアンは少女と葦原の間へ走り込み、杖を振った。
水面を衝撃が走り、跳び出した魔獣を泥へ叩きつける。その両脇でも葦が割れた。
低い唸りへ飛び出したのは、廃教会の脇にいた痩せた少年だった。十三歳ほどの長身に、古い添え木を巻いた細い手首。骨ばった指先の前へ、白く欠けた槍の影が浮かぶ。
「テオヴァルド!」
老婆の声にも、少年は止まらなかった。槍が雨を裂き、葦の奥で弾ける。水と泥が柱になり、湿地の一角が消し飛んだ。
その手首から血が噴いた。
倒れかけた身体を、先頭のアッシュフェンが肩で払う。二匹目は彼を飛び越して子どもへ向かい、三匹目は水路から戸口の横へ出た。煤色の細い身体は、爆煙を抜けても速さを失わない。
杖先の光が二匹目を横へ弾いた。少女を中へ押し込み、オーレリアンは泥に倒れた少年の腕を取る。
「立てるか」
返事の代わりに、左手が外套をつかんだ。引きずるように戸口を越えた途端、窓から赤い火が飛び、葦へ散った。ギャロンの男が撃ったものだった。
魔獣は左右へ分かれた。一匹が長椅子を踏み越え、別の一匹は窓枠を砕いて入ってくる。
(散らすな。人の方へ回る)
重さで押し潰すグラヴィタスなら、教本どおりに組めばいい。だが、逃げる足の間へ潜り込んだ獣に撃てば、人も巻き込む。
人々が祭壇の脇へ逃れる中、テオヴァルドを神像の足元へ座らせた。少女も子どもを抱いてそこへ来る。もう後ろへは下がれない。
台座の隙間から、冷たい風が足首を撫でた。
杖を構え直す。爪が石を引っ掻く音が、妙に長く聞こえた。跳ぶ寸前の前足も、その下で割れかけた床も見える。考え終えたのに、杖先はまだ上がりきっていない。
(見えすぎる。なのに、身体が遅い)
神像の肩から落ちる石屑が、白い天井の染みに重なった。
研究室だった。机には書き終わらなかった論文があり、右手は伸ばそうとしても動かない。まだ途中だ、と誰かに言いたかった。
その手が小さくなった。知らない侍女の声。寝台の横に立つ父は「名を」と尋ね、答えるまで息子へ手を触れなかった。
教本を開いた日、手の中で小さな火が弾けた。
形を覚えるだけでは足りない。オルビスは組むそばからずれ、直し損ねれば、注いだ力が自分へ返る。指先を焼きながら覚えたことだった。火を灯す程度なら、もう間違えない。
儀場の床へ、背中が叩きつけられた。
相手の重さを床へ逃がす。その計算を直す間に、別の解が先へ進む。片方を捨ててやり直すたび、書きかけのオルビスが崩れた。勝者の名を告げる声へ、獣の唸りが重なる。
神像の前だった。牙が近づき、後ろで子どもが泣いている。
あの時、途中で捨てた計算が続いていた。前足を払う考えの裏で、倒れた重さを外へ逃がす考えが進んでいる。どちらを直していても、もう片方を見失わない。
足元だけなら、道中で短くしたフォルマが使える。巻き添えを避けるための力は、別に組めばいい。
(捨てるな。そのまま、両方――)
杖を握る感触が消えかけた。研究室の机へ手をついているのか、儀場の床に倒れているのか、分からなくなる。
「男爵様!」
袖が引かれた。テオヴァルドの左手だった。
膝のそばに少年がいる。少女と子どもは、その後ろに。人のいない側壁までの距離が戻り、オーレリアンは杖を突き出した。
二つのオルビスが、銀環の前で閉じた。
光が床を走る。先頭の前足をすくい、背を越えて跳ぶ二匹目の腹の下を抜けた。横へ崩れた身体を次の衝撃がさらい、窓から来た一匹ごと側壁へ叩きつける。
石が爆ぜ、黒い身体が壁を突き破った。外の泥へ転がるまで、骨の折れる音が続いた。
子どもの袖には、牙が裂いた跡だけが残った。
雨音が戻ってくる。
杖を握る指は震えていた。遅れて膝から力が抜け、オーレリアンは神像の台座へ背を預けた。消えた光のあった場所を、テオヴァルドが見ている。
「……二つ、同時に」
答えようとして、息が詰まった。
(通った。今度は、最後まで)
少女が子どもの頬を拭った。その隣で、袖をつかむ手がようやく緩む。
壁の穴から、魔獣の群れが見えた。こちらへ来ない。水路を越え、小屋を押し倒しながら、南へ走り続けている。
「逃げてる……」
少女の声の先で、鐘柱より高く角が持ち上がった。




