どうか、お戻りくださいませ
翌朝、オルカペルには住民が集められた。
オーレリアンは男爵杖を手に祭壇の前へ立ち、ミラを呼んだ。私的な卓で使う声ではなく、礼拝堂の奥まで届く領主の声だった。
「私は交易のため、今日より領外へ赴く。帰還まで、この地の判断をそなたへ託す。私が残した方針が暮らしを損なうなら、そなたの判断で改めよ。ただし、人の命と意思、この地の秘密を、便利のために売り渡してはならぬ」
ミラは両手で封書と小さな銀印を受け取った。指は震えていたが、返事は揺れなかった。
「御命、確かにお預かりいたします」
式が解かれ、人々が朝の仕事へ戻ってから、ミラはようやく顔を上げた。
「どうか、お戻りくださいませ」
「戻るよ。予定どおりに進まなくても、気にしなくていい」
「それでも、お帰りの時には、お見せできる町にしておきます」
オーレリアンは答える代わりに、小さく笑った。
三日後。
街道を、アッシュフェンの群れが塞いでいた。
先頭の荷車は横倒しになり、赤地を白い斜線で割った幌が泥を被っている。その向こうでは、濡れた灰色の背が葦の間へ沈んでは、別の場所から現れた。牙の隙間から漏れる白い息が、低い風に流されている。
荷を守る者たちはフォルマの盾を重ね、破られた場所を隣の者がすぐに埋めていた。よく訓練されている。それでも盾の光は薄れ、馬は手綱を引きちぎりかけている。次に群れが飛び込めば、後ろの荷車まで届く。
その正面に、テオヴァルドが構えていた。
三メートル近い白い全身鎧が、街道を塞ぐように立っている。閉じた兜の下には厚い胸甲が重なり、鎧は爪先まで途切れない。人が着るには大きすぎる空洞の中で、テオヴァルドは地面から浮き、自分とは形の違う巨体をもう一つの身体として操っていた。
オーレリアンも杖を上げ、群れの進路を折るオルビスを組んでいた。
鎧の両腕が正面へ上がった。向かい合わせた掌の間で淡い光が膨らみ、薄く、歪んだ盾のフォルマとなる。
洞の入口で老婆を庇い、一度だけ魔獣を止めて砕けた、あの白い盾だった。
だが今度は、広がりが止まらない。白い面は鎧の背丈を越え、街道の両側にある葦まで押し分けていく。荷車を守っていた小さな盾が、その光に呑まれて見えなくなった。
アッシュフェンが一斉に走った。
灰色の背が泥を裂き、低い群れが白い壁へ殺到する。最初の肩が触れると、盾の表面は大きく歪んだ。続く牙も爪も、その窪みへ重なる。白い光が鎧の胸元まで押し戻され、白い巨体が泥へ沈んだ。重い胸甲が低く鳴る。
それでも盾は砕けなかった。
鎧の両腕が、ゆっくり前へ伸びる。
押し込まれていた白い面が、一息に元の形へ戻った。
音が消えた。
次の瞬間、街道の幅いっぱいに白が奔った。
盾は群れをまとめて押し上げ、横倒しの荷車の残骸ごと前方へさらっていく。街道の石が剥がれ、両脇の葦が同じ向きへ伏せ、浅い湿地の水が左右へ高く噴き上がった。灰色の影は白い面の中で次々に空へ弾かれ、遠い葦原へ落ちて見えなくなる。
白い盾はその先まで走り、道を塞いでいた低い土手へ衝突した。
土手が中央から崩れた。湿った土と石が外へ吹き飛び、その向こうに、葦原を貫くまっすぐな跡が残った。
遅れて音が戻る。
地面を打つ水と石の響きに、荷車の幌が激しく鳴った。護衛たちは盾を支えた姿勢のまま動けず、魔獣の消えた先を見ている。
オーレリアンの杖先には、まだ閉じていないオルビスが残っていた。
鎧の両手は、何もなくなった正面へ向けて開いたままだった。兜が崩れた土手から、自分の掌へゆっくり向く。
兜の奥から、周囲には届かない声がした。
「……オーレリアン様。僕は、止めるだけのつもりでした」
「止まったよ。だいぶ遠くで。今度からは、もう少し弱くしよう」
鎧は両腕を下ろし、再び一人の白い騎士となった。中にいる者の名も、顔も、誰にも見えなかった。
赤い印は、ロート商会のものだった。
隊商を預かる男は、助かった荷を確かめてから、オーレリアンへ向き直った。
「命も荷も救っていただきました。心より感謝いたします。もし商いのためブレーゲンへ向かわれるのでしたら、どうかロート商会の支店をお訪ねください。私は一隊商を預かる身にすぎませんが、できる限りのお力添えはいたします」
「その方がありがたい。恩だけで始めても、長くは続かない」
男は初めて笑い、無事だった荷車の一台を手で叩いた。
車輪が再び西へ回り始めた。ブラッカは道の端で二人を見送り、そのまま来た道を戻っていく。
姿が葦の向こうへ消えてから、テオヴァルドが兜の奥で小さく尋ねた。
「鎧を、見せすぎたでしょうか」
「見られたのは鎧だけだ。中にいるあなたの顔も名も、まだ誰も知らない。今はそれで十分だよ」




