よく似た紋章
ブレーゲンの鐘が聞こえたのは、アシェンマークを出て三か月目の夕方だった。
一つの鐘に、遠くの鐘が次々と応える。水の上を渡ってくるためか、音は空からではなく、地平そのものから湧くようだった。
テオヴァルドの鎧が足を止める。
「知っている鐘?」
「はい。夕方の水門を閉じる鐘です。孤児院にいた頃、あれより遅く戻ると、夕食が冷めました」
「帰ってきたね」
「音だけは、昔のままです」
丘を越えると、大河が何本もの水路へほどけ、その間を埋めるように赤い屋根が続いていた。帆船と平底船が家々の間を行き交い、橋から橋へ渡された祭りの布が夕日に透けている。鐘が鳴るたび遠い橋が上がり、船と人の流れが町全体で向きを変えた。
ロート商会の隊商は城門で解散せず、そのまま二人を運河沿いの支店へ案内した。街道で一行を救った報告は、先に走った早馬が届けている。
翌朝、オーレリアンとテオヴァルドが通されたのは、客間ではなく荷改め室だった。
石床の両側に秤と検査具が並んでいる。ロート商会のブレーゲン支店を預かるエメリク・ロートは、白い騎士を見上げてから、その胸甲に刻まれた紋へ目を留めた。
「街道の報告は読みました。この騎士殿が、魔獣の群れを退けたと」
「我が家から、私の護衛として預けられた騎士だ。ヴェイル家の系譜は、ご存じであろうか」
エメリクは机に置かれた男爵印と、鎧の紋を見比べた。
「ええ。公爵家の紋に、傍流を示す細い線が一本加わる。ヴェイル家の母方に、その血筋が入っていることも存じています」
「ならば、私がこの騎士を伴っていることにも、説明はつくはずだ」
「はい。お話の筋は通ります。ただ、商会が頼れるのは系譜ではなく、契約を保証する者の名が記された文書です」
エメリクは男爵印を机へ戻した。
「公爵家が血筋を否定しなくても、代金や争いの責任まで負うとは限りません。騎士殿の強さと、契約の保証は別の話です」
(彼が見ているのは、家から借りた騎士を頼みに来た子供だ。俺自身が何を作れるかまでは、まだ値に入っていない)
包みから、証紙のある魔獣角と、礼拝堂の修復にも使った白い部材の見本が机へ並ぶ。見本は手のひらほどの長さだった。
「求めるのは、次の収穫までの食料だ。魔獣角は売るために、白い方は今後も取引を続けられるか見てもらうために持ってきた。領内で使っているものと同じ材で、同じ形と品質なら繰り返し供給できる」
エメリクは白い見本を手に取り、指で縁をなぞった。角度を変えて光へ透かし、机へ戻す。
「工房と、ひと月の供給量を伺ってもよろしいでしょうか」
「今は明かせぬ。量も、領へ戻ってから定める」
「品質には興味があります。ただ、作り手も量も分からない品を、将来の支払いには数えられません。広く売れた後で、ヴェイル家や帝国の役所が権利を主張しても、当支店では退けられない」
「男爵領として、責任は私が負う。それでも難しいか」
「商会が見るのは、お覚悟ではなく、実際にどこまで責任を負えるかです。今のアシェンマークとは、大きな約束を結べません」
エメリクは白い見本を包みへ戻した。
「手持ちのノミスで買える分の食料は、相場どおりにお売りします。運送も、今回の一便は手配しましょう。ただ、残りを後払いにすること、定期便を通すこと、ロートの名で他家へ紹介することは、今はお受けできません」
(俺を嫌っているわけでも、試しているわけでもない。成功すれば上から奪われ、失敗すれば自分が損をする。大商会にとって、今の俺へ賭ける理由がない)
「承知した。では、今日は買える分だけお願いする」
包みを閉じた。
「次に来る時は、見せられる過去を持ってくる」
「その時は、改めてお話を伺いましょう」
荷改め室を出ても、テオヴァルドはしばらく口を開かなかった。運河へ出る石段の前で、ようやく兜がわずかに下がる。
「僕が、もう少し何かをお見せできればよかったのでしょうか」
「十分すぎるほど見せたよ。彼には、君が私の力ではなく、家から借りた力に見えている。秘密を守るための話としては、うまくいった」
「でも、取引は」
「失敗したね」
そう言うと、兜の奥から小さな息が漏れた。笑ったらしい。
街道で救った隊商の男が、倉庫の軒下で二人を待っていた。深く頭を下げる。
「お力添えすると申し上げながら、申し訳ございません」
「面会は得た。そなたは約束を果たしている」
「でしたら、もう一つだけ。今度はロート商会ではなく、私個人の名で、紹介させていただけませんか」
男が差し出したのは、商会印のない小さな封書だった。
「リンデ商会という、小さな店です。商会を切り盛りしているのは、私がまだ若い頃からの友人です。規模はロートに及びませんが、彼女は、誰のものでもない新しい道を自分の目で確かめようとする人です」
「友人なら、なおさら心配ではないか」
「ですから、危険であることも隠さず書きました。その上で読むか、断るかは、彼女が決めます」
封書の表には、聞いたことのない商会の名と、運河を二本越えた先の住所が記されていた。
日が水路へ沈むまで、まだ少しある。オーレリアンは封書を外套へ収め、白い騎士とともに、二本先の運河へ向かった。




