戦わないための軍
「関門の西側にも、帝国の兵を置きたい、と?」
オーレリアンは、地図から顔を上げた。エレンの指は、山脈の古い関門を越えた所にあった。そこから先は、アステリアの守備隊が守っている。
「カシミール殿下に近い将軍からです。大公方の兵が西へ逃げ込むのを防ぐためだと。駐屯する兵の食料は買う、アステリアへ敵意はない、とも」
要請を受ければ、敵の侵入を防ぐはずの砦へ、こちらから招き入れることになる。
「評議会は断りました。ただ、向こうは返事を待つ間にも、兵と荷を集めています」
「買うつもりの食料を、誰も売らなかったら?」
「そこまでは、お書きになっていません」
声は落ち着いていた。手をついた場所から、指が動かなかった。
大公方が本当に西へ逃げるかどうかは、彼らにも分からないはずだった。一度置かれた軍を帰せと言う方が、入れるより難しい。
「断れば、大公を助けたことにされる。ひどい挨拶だね」
「私たちの議場では、もっとひどい言葉が出ましたよ」
マティアスは、地図の関門を見ていた。
「守備を増やすことには賛成が集まりました。どの町から、どれだけ出すかで揉めています。海沿いの町は、山で食い止められると思っている。山の町は、そのための兵をよこせと言う。当然ですが」
「君は、ここへ来ていて大丈夫なの?」
「来なければ、約束した研修まで止まります。明日にも戦うつもりなら、今回の人選はしていません。ですが、次に何かを作ろうと言い出せるのが、いつになるか」
彼にとっても、家を空けてよい時期ではなかったのだ。
◇
翌日の夕方、石切り場にはまた砲声が響いた。
機体の脇を、クレイドが駆け抜ける。前にいたバスティオンが追おうとするのを見て、途中で向きを変えた。防壁の外へ回り込んだ剣を、もう一人が肩で受ける。
そこへ、後ろの砲が向いた。撃つ前に彼は足を止め、覆いをつけた刃を下げた。
「今のは、参りました」
操縦席から笑い声が返る。防壁を保っていた術者は、杖を下ろすとその場へ座り込んだ。次の組が待っている間に、ミラが隣へしゃがんで話しかけていた。
「ああして代われるのが、うらやましいんです」
見ていたマティアスが言った。
「うちの港にも、あの人が休めば止まる仕事があります。弟子を増やせばよいと言われても、教える間に仕事を代わってくれる人はいない」
「だから、動いている機械を借りに来た?」
「荷運びを任せられれば、古参の術者が弟子を教える時間を取れます。教わった者が仕事を継ぐまで、お借りしたいんです」
機械を渡せば解決する話だと思っていた。マティアスが欲しいのは、それを返せるようになるまでの時間だった。
「貸すよ。港の仕事を止めずに済むように。教える人が戻るまで、こちらからも付き添いを出す」
こちらを向いた顔に、ようやく笑みが戻った。
「ありがとうございます。帰ってから、威張れそうです」
「手柄は、連れてきた人たちにあげてね」
「もちろん。私の名前も、隅には残してもらいますが」
◇
夜になっても、家の食卓は賑やかだった。ミラが座り方を直すよう言う相手は、今夜はオーレリアンではなく、床にまで図面を広げようとしたマティアスだった。
エルネリスが、彼の皿を逃がしてやる。
「食べてからにしたら。今日、何回も呼ばれてたよ」
「覚えているうちに、と思いまして」
「君も、そうなるんだね」
こちらを見られて、オーレリアンは何も言えなかった。テオヴァルドだけが笑いをこらえ損ねた。
話が港へ戻ったところで、エレンが口を開いた。
「帰りは、私も一緒に。研修の者は残しますが、隊を空けられるのは、あと数日です」
「分かってる。山へ戻ったら、変わったことを知らせてほしい。こちらでも兵の動きは調べておく」
「お願いします。ただ、お味方の軍についても、分かる範囲で」
食卓で、初めて声が途切れた。
「……そうだね。そちらから見れば、同じ山の向こうだ」
彼女は、詫びなかった。オーレリアンも、気を悪くしたふりはしなかった。
「私の領地を、アステリアを攻める道には使わせない。その先まで約束はできないけど、君に隠すために知らないふりはしないよ」
「それで、十分です」
食事を終える頃、マルタが聖堂から戻ってきた。客へ挨拶はしたものの、勧められた席には座らなかった。
「ミラさん。あなたの叙階を認めた司教様が、聖務官房から召喚を受けています」




