遠い故郷
前の世界で暮らしていた頃のことを、人に話すために思い出したのは久しぶりだった。
机に向かっても、どこから話せばよいか決まらなかった。十歳でこちらへ来たこと。言葉も分からず、知らない大人を父と呼ぶようになったこと。
そこから話したのでは、また、苦労をした子どもの話になってしまう。
そのどれよりも、昔通っていた店の灯りが先に浮かんだ。帰るのが遅くなっても、そこだけは開いていた。
(こういう時に、弁当かよ)
笑いかけたところで、戸を叩く音がした。
「ここでいい?」
エルネリスを招き入れ、窓際の椅子へ向かい合って座った。用意していた言葉は、顔を見たら使えそうになかった。
「昼間、戻りたい場所の話をしたでしょう」
「うん」
「ヴェイル家のことじゃないんだ。私は、ここへ生まれる前のことを覚えてる」
彼女の顔から、待っていた笑みが消えた。驚きを隠そうとはしなかったが、口も挟まなかった。
「こことは違う世界で、研究をしていた。もう大人で、毎日、計算ばかりしていたよ。ある晩、机に向かっている時に倒れた。それで終わりだったはずなんだ」
倒れる直前、何を考えていたのだったか。死ぬつもりがなかったことだけは覚えている。
「気づいたら、十歳の子どもになっていた。言葉も分からなかった。何が起きたのかは、今も分からない」
返事を待っていると、こちらの手元を見ていた彼女が、やがて目を上げた。
「前の生の記憶が残った人の話は、聞いたことがある。でも、違う世界というのは……」
そこで言葉を止め、少し考えてから続けた。「誰かの思い出を受け取ったんじゃなく、君自身が生きていたんだね」
「私は、そう思ってる。誰かに証明できるとは言えないけど」
「ごめん、疑ってるわけじゃないんだ。昔聞いた話に当てはめようとしてた」
彼女にも、すぐには分からないらしい。それを見て、かえって続きを話す気になれた。
◇
「君のいたところにも、フォルマはあった?」
「なかった。物を動かすにも、熱を出すにも、別の方法が要った。遠くにいる相手へ声を届けることはできたけど、私にはここで同じものを作れない」
「遠くって、山の向こうでも?」
「海の向こうでも。話せるのが当たり前だったから、つい後回しにしてた。母にも、もっと連絡しろと言われてたよ」
話しながら、返さなかった便りを思い出した。用事のない時にも届いたので、あとでいいと思った。
「お母さん、君が帰ると思って待っていたんだね」
「多分。私も、いつでも帰れると思ってた」
そのあとのことは、知らない。知らせを受けた時にどんな顔をしたかも、想像するばかりだった。
次の言葉が出なくなった。エルネリスも、質問を続けなかった。
窓の外には、山の裾まで町の灯りがあった。自分が作り始めた場所だ。今夜ここに帰れてよかったと思ったことも、嘘ではない。
「こちらで、楽しく暮らしてるよ。君にも会えたし、テオたちもいる。でも、帰りたいかと聞かれたら……ないとは言えない」
「うん」
それだけだったので、もう少し話せた。
「昔は、別に勇敢でもなかった。大勢を連れて戦うなんて、考えたこともない。今も時々、誰かほかの人に決めてほしくなる」
「君のこと、分かった気になってたな。年に似合わないことを言うのも、そういう育ち方をしたからだと思ってた」
「見た目ほど子どもじゃないことは、隠してた。君には、最初に言おうか迷ったんだけど」
「何歳だったとしても、私よりは若いと思うけど」
「そこは、張り合えないね」
彼女につられて、笑えた。しばらく窓の外を眺めてから、エルネリスが口を開く。
「君が帰りたいと思う場所なら、私も見てみたいな。……今、そう思った。行けるかどうかも分からないのにね」
差し出された手を取った。続きをうまく話せなくても、急ぐことはなかった。
「テオたちは、この話を?」
「知ってる。でも、君に話すかどうかは、自分で決めたかった」
「誰にも話さないよ。まだ驚いてるけど……君が話してくれたのは、うれしい」
「聞いてもらえて、よかった」
握った手が離れないので、言いそびれていたことも話せそうだった。
「さっき、昔の店を思い出してた。夜遅くまで開いていて、帰る途中によく寄ったんだ。大した場所じゃないんだけど」
「そこで、何を食べてたの?」
「いつも同じもの。遅くなると、それしか残ってなくて」
笑われた。その味を、知ってほしくなった。




