昔話の外
「私、こんなに立派なことを言ったかな」
朝の食卓で、エルネリスが読み上げかけた演説を止めた。隣ではテオヴァルドが、直しを入れるための筆を持って待っている。
「そのところは、本から写したんです。言い方を変えた方がいいですか」
「文章はいいよ。ただ、私が話した覚えがなくて。あの本ができたのは、ずっとあとのことだよ。書いた人には会ったけど」
オーレリアンは、差し出された頁を読んだ。西へ逃げてきた帝国の兵へ、古い民の娘が永遠の自由を約束する。そこから両者が手を取り合う話になっていた。
「永遠の自由、か」
「私が分かってたのは、山を越える道くらいだったよ。こんな約束をしたら、そのあと困っただろうな」
彼女はもう一度、前の頁へ戻った。
「川を渡った話は覚えてる。向こう岸へ荷を運んだのに、受け取る人がいなかったんだ。何を運んでたかは、もう分からないけど」
テオヴァルドが、筆を置いた。
「消した方が、いいですか」
「そのままでもいいよ。昔話として読むなら。でも、私が話したこととして載せるのは、待ってほしい」
演説の下では、集まった者が歓声を上げていた。今の話を書き足そうにも、その娘がどこで荷を抱えて待っていたのか分からない。
「覚えている話も、聞かせてもらえますか」
テオヴァルドに頼まれ、彼女は少し考えた。
「あとで、違うことを言い出すかもしれないよ。古いことほど、人から聞いた話と、自分で見たものの区別も怪しくなるから」
「直します。忘れたところも、そう書きます」
「それなら、お願いしようかな。書いてもらえたら、私も読みたい」
テオヴァルドは書きかけの続きに別の紙を重ねた。最初に尋ねたのは、荷の受け取りに誰も来なかったあと、彼女がどうしたのかだった。
◇
家を出てすぐ、役所の方へ向きかけたところで袖を引かれた。
「今日は、どこへ行くの?」
「新しい橋を見たい。工事は留守の間に終わったはずなんだけど、まだ下からしか見てないんだ」
「案内の人が待っていたりしない?」
「通れるようになった橋を渡るだけ。誰にも説明は頼まないよ」
「それなら行こう」
丘の両側に広がる住まいを、大きな橋が結んでいた。途中の塔から下の通りへ階段が降り、乗合車は人の列とは別の道を進む。以前なら谷へ下りて上り直した距離を、買い物籠を提げた人々が歩いて渡っていた。
下を覗けば、工房の屋根がいくつも見える。谷底の水路には荷舟が通り、橋脚のそばで働くオートマタが、上から見ると小さかった。
渡り切るのが惜しくなって、手すりのそばへ寄った。エルネリスも隣で足を止める。
「町の上を歩いてるみたいだ。見に来たかったの、分かるよ」
「設計を見せてもらった時は、もっと細かった。店も出したいって、途中から広がったんだ。図面だけ見て、それでいいって言ってたけど……こうなるんだな」
日除けを張った食事処にも、図面では気づかなかった。見晴らしのよい席が空いていて、彼女に譲るつもりで椅子を引くと、隣に腰を下ろされた。
「君も、そっちから見るといいよ」
向かいへ座るつもりだったとは言いそびれた。二人並ぶと、いつもより肩が近い。
「さっきの話、もっと聞いていたかった?」と彼女が尋ねた。
「テオが聞いてくれるよ。私は、君と出かけたかった」
思ったよりはっきり口にしてしまい、景色へ目を逃がした。隣で笑う気配がして、注文を聞きに来てくれた店の人をありがたく思った。
「留守の間、研究所の写しが届いていたんだ。クレイドが、自分の言葉で返事を書いてる」
「私でよければ読むよ。本人が、そうしてほしかったらだけど。君から伝えておいて」
詳しい話は求められなかった。彼が選ぶまで、自分から渡すつもりもなかった。
料理を分けていると、彼女の方から朝の話へ戻った。
「あの頃、もっと話しておけばよかったな。あとで会えると思って、別れた人がたくさんいるんだ」
「昔に戻れたら、やり直したいことはある?」
「あるよ。でも、戻る場所を決めるだけで困りそう。君は?」
研究室の机が浮かんだ。あの晩より前へ戻れれば。その考えが、今もすぐに出てくることに驚いた。
「……私も、ある」
ヴェイル家でのことだと思われたかもしれない。続きを尋ねられる前に、自分から口を開いた。
「今夜、少し話を聞いてくれる?」




