至極の愛
清らかな冬の風が渡る。そわりと揺れる後れ毛を、煩わしそうに払った。
午後の茶会はとうに終わったというのに、若い王はのんびりとテーブルに肘を付き、草に戯れる小さな竜を眺めていた。城に戻ったところで、急ぐ仕事もない。
茶器を片付けながら、美しい少女はうんざりとため息をつく。
「森に干渉するなと約束したではないか」
若い王は退屈そうに欠伸をこぼし、顔を上げた。無造作に束ねた豊かな金の巻き毛が木漏れ日を受けて輝く。農夫のような薄汚れたシャツの衿はだらしなく開き、これがかつて国一番の剣士と言われた男かと疑いたくなる。
だが、その笑みは穏やかで優しい。
「考えるとは言いましたが、約束はしておりません」
むむ、と少女は口ごもり、大きな目を吊り上げた。
「まったく、毎日毎日飽きもせず。そんなに茶が飲みたければ茶店に行け」
後ろで竜たちに餌をやっていた竜使いが笑いをかみ殺す。いつか聞いた台詞だ。
「そうおっしゃいながら、毎日パイを焼いてくださるではありませんか」
高価なレースのテーブルクロスも白磁の茶器も必要ない。摘みたての茶葉は香り高く、愛情が隠し味の焼きたてパイはまさに癖になる。
森の木々はそよそよとささやき、テーブルには珍しい色の小鳥がパイ生地の欠片をついばみにくる。なんと贅沢な茶会だ。
「そなたのために焼いているのではないぞ」
あの好物だったパイが食べたくて、そして愛するひとに食べさせたくて、日々練習しているのだ。その甲斐あって、ようやく食べられる面積の方が多くなった。
「あんたのおかげで、俺の分が減って助かる」
「では、明日からは二つ焼くことにしよう」
竜使いが毒づくと、彼女は憎らしく舌を出して小屋へ戻ってしまった。
二人の男は、愛しそうにその背を見つめる。
「……姫は変わられた。城にいた頃よりも、ずっと輝いておられる」
それが恋敵の力によると思うと、なんとも悔しい。隙あらば、と考えた日もあったが、今では無駄なことと心得ている。
「あんたが、きちんと国を守っているから、あいつは迷いも悩みもなく笑っていられるんだ」
若い王は驚いて竜使いを見上げた。
「おまえ、優しいな」
「……男に言われても嬉しくないね」
竜使いは肩をすくめて苦笑した。
はるか頭上より小柄な竜が舞い降りる。背には幼い子供たちを乗せて。
無邪気に笑う子供たちは、金髪の子、黒髪の子、赤髪の子、肌も瞳も違う色だが、そんなことは気にしない。
「ありがとう、ユイット」
「また、乗せてね!」
人懐こい小竜はにっこり笑い、うんうんとうなずいた。
「あのね、王様。今日は湖まで行ったんだよ」
「もっと寒くなったら水が凍るから、スケートができるって」
「そしたら、王様も一緒に行こうね!」
若い王は目を細め、うんうんとうなずいた。
「王様が子守をするなんて、平和な国だな」
「軍人上がりの私に、今の世では仕事がなくて」
彼らの両親たちは国のために、家族のために、愛する者のために日夜せっせと働く。国は豊かさを取り戻し、人々は満たされた。
傷付け合い、奪い合うことはもうない。
子供たちがささいな喧嘩をはじめると、草にまみれた小さな竜がみゅ、みゅ、と鳴く。すると彼らは「ごめんなさい」と言ってまた手をつないだ。
「さあ、みんな。そろそろ帰ろうか。父様、母様が仕事を終える頃だ。夕飯の支度を手伝う良い子は誰だい?」
私、私、僕、僕、と元気よく手が挙がる。
若い王は彼らの頭を順に撫でてやった。
穏やかで、優しくて、退屈な毎日。それが得難い幸福だと彼らは知っている。
「ライナス、明日はりんごのパイだ」
窓を開け、美しい少女が手を振る。若い王は会釈し、子供たちを連れて森の外の日常へと帰っていった。
木の枝から銀色の鳥が呼ぶ。サファイア色の小鳥はパイを啄むのを止め、慎重に辺りを見回した。やがて二羽が飛び去ってしまうと、残ったエメラルド色の小鳥も今夜の寝床を探しにでかけいった。
少女は暮れゆく空の彼方を静かに見上げた。
父様、母様、見てくださっていますか。国を、王位を、名を放棄してしまいましたが、その心は決して変わることはございません。私は生涯アディンセルの平和を守っていきます。
アンナ、コーザ、おまえたちのおかげで私はひとを愛することを知った。私だけが幸せになるのは心苦しいのだが、おまえたちは許してくれるだろうか。
名も知らぬ私を愛してくれた人々よ、あなたたちの分まで、私が愛せたらと思う。どうか、どうかこれからも見守っていてほしい。
応えるように、白い雪がふわりふわりと舞い降りた。
「どうりで冷えると思った」
竜使いは窓に寄り、両手でそっと少女の頬を包み込む。二人の体温が混ざり合う。
「幸せか、エノーラ」
「……とても」
照れてうつむき、ほほ笑む顔は至極の宝石。
瞳を閉じると、そのくちびるに落ちた雪をそっと舐めとった。
北の森の奥深く
竜とともに暮らし
竜とともに国を守る
強く優しい
竜使いがおりました
美しい竜使いは小さな竜を従えて
注ぐ愛は限りなく……