第12話 「遅れたら二度と頼まない」と言われた
ゴン。
台車の横腹を、爪先で蹴られた。
「あんた」
売店の前で振り返ると、小柄な女が立っていた。
短髪。日に焼けた顔。左耳にインカム。
六層の降り口で、俺に「邪魔。死ぬよ」と言った人だ。
「はい」
「オルカの補給、できる?」
名乗らなかった。謝りもしなかった。あの日のことに触れる気配もない。
こちらから言うことも、特にない。
「どの層ですか」
「二十一層」
俺は少し黙った。
「無理なもんは無理です。今は九層までです」
「はぁ?」
「九層より下は、行ったことがありません」
「聞いてんのは、できるかどうか」
「できません」
女の眉が上がった。
「即答すんだ」
「はい」
「ふつう、もうちょっと粘らない? 商売でしょ」
「粘ると、あとで困るので」
*
女は腕を組んで、上屋の梁を見上げた。
「じゃあ、いつになったらできんの」
「二十一層までなら、十五往復です」
「十五」
「浅いところは七往復で済みました。深くなると、回数が要ります」
「なんで回数が要んの」
俺は答えに詰まった。
馴らし、という言葉はまだない。俺が勝手に、道ができる、と呼んでいるだけだ。
「毎日同じ時間に通うと、その道だけ静かになるので」
「は?」
「一メートル半くらいの幅です。真ん中を歩くと、あまり出ません」
女が、初めて俺の顔をまともに見た。
「掲示板のやつ、あんたなの」
「そうらしいです」
「そうらしい、って」
「自分で書いてないので」
女は少し黙って、それから指を折り始めた。
「十五往復で、一日一往復として、ひと月」
「はい」
「ひと月、毎日?」
「毎日です。飛ばすと、消えます」
「消える」
「三日空けると、全部消えます。やり直しです」
「それ、休み取れないじゃん」
「取れません」
女が呆れた顔をした。
それから、真顔に戻った。
この人は、数字が出た瞬間に考え方を変える。そういう頭の人だ。
「じゃあ十六層までは?」
「今、ちょうど七往復したところです。あと数回で」
「今できるってこと?」
「三日以内なら」
「決まり」
女は手を叩いた。
*
その日の午後、第十六層への延伸を始めた。
第九層から先は、行ったことがない。
降り口を三つ越える。第十層、第十三層、第十六層。どれも狭い。台車は担ぐしかない。
第十層から下は、空気が変わった。
湿度が高い。壁を触ると指先が濡れる。天井から落ちた水滴が、首筋に入った。ひやりとして、思わず肩が上がる。
路面は、上の層より柔らかかった。砂のような細かいものが積もっていて、車輪が沈む。
押すのに、力が要る。
俺は足を止めて、車輪の跡を見た。
轍が、はっきり残っている。
これなら、埃の向きを見るまでもない。自分がどこを通ったか、跡で分かる。
*
条件を詰めた。
納品先は第十六層の中継点。品目は水と携行食、それから薬。
「薬は割れ物ですか」
「瓶。緩衝入れて」
「二重にします」
薬の瓶は、いちばん面倒な荷だ。
割れたら終わる、というだけではない。割れなくても、振動で沈殿するものがある。冷えすぎても、温まりすぎても変わる。
トラックで医薬品を運んでいた時期があった。あのときは温度計を積んで、二時間おきに見た。
ここには温度計がない。代わりに、層ごとの気温を体感で覚えるしかない。
第十層で十二度。第十三層で十度。第十六層は、たぶんもっと低い。
「あと、これだけは言っとく」
女が指を一本立てた。
「遅れたら、二度と頼まない」
「はい」
「はい?」
「はい」
女が、こちらを覗き込むようにした。
「それだけ?」
「はい」
「もっと何か言えば? 頑張りますとか、任せてくださいとか」
「言っても、着くわけじゃないので」
しばらく、女は何も言わなかった。
そして、ふん、と鼻を鳴らした。
「変なやつ」
*
「薬は、誰のですか」
帳面を書きながら訊くと、女の手が止まった。
「なんでそんなこと聞くの」
「品目によって、梱包が変わるので」
「体調管理用。うちの最年少の」
「お名前は」
「聞いてどうすんの」
「受け取る人の名前を書くので」
女が、少し迷ってから言った。
「一ノ瀬楓。二十一」
「一ノ瀬さん」
「薬が切れると、動けなくなる体質でさ。持病ってほどじゃないんだけど」
「わかりました」
俺は帳面に書いた。
納品先、第十六層中継点。受取人、一ノ瀬楓様。指定時刻、八時二十分。
「なんで名前まで書くの」
「荷には、必ず宛先があるので」
「そう」
「はい」
女は、帳面をちらりと見た。
それから、自分のことを初めて言った。
「鵜飼。鵜飼澪」
「新藤保です」
「知ってる」
「そうですか」
「掲示板に書いてあった」
*
十五往復を、紙に落とした。
一日一往復。四月二十九日から始めて、五月三十日に終わる。
その間、第九層と第七層と第五層の三本も、途切れさせるわけにはいかない。止めれば消える。
四時に出て、六時に入って、十時に上がる。四時間。
その中に、四本を収める。
鉛筆で線を引いて、時刻を並べた。
六時〇〇分、入場。
六時五十分、第五層着。
七時三十分、第七層着。
八時二十分、第十六層着。
九時二十分、第九層着。
十時〇〇分、退場。
最後に、全部の区間に十分ずつ余裕を足した。
足すと、はみ出した。
俺は消しゴムで一行消して、出発時刻を三時三十分に書き換えた。
*
帰り道、携帯が鳴った。長野だった。
『新藤さん、依頼増えてるって聞きましたけど』
「誰からですか」
『いや、探索者の掲示板っす。俺、見てるんで』
「見てるんですか」
『見ますよ! 心配だから!』
「ありがとうございます」
『で、何件になったんすか』
「四件です」
『四件?』
「九層、七層、五層、十六層です」
『十六!?』
「はい」
『新藤さん、九層までじゃなかったんすか』
「これから、十六まで伸ばします」
『伸ばすって、道路じゃないんすから!』
「道路みたいなものなので」
『違うでしょ!』
長野が叫んだ。
叫んだあとで、少し静かになった。
『新藤さん』
「はい」
『こっち、路線部門が来月で終わるらしいっす』
「そうですか」
『俺、探索事業のほうに回されます』
「はい」
『……潜るんすよ、俺』
俺は、台車の取っ手を握り直した。
三年、同じ車庫で働いた男だ。
俺の締めすぎを笑って、晴れの日に養生シートをかけるのを不思議がって、解雇の日に走ってきた。
あいつが背負子を背負うところを、うまく想像できない。
「長野さん」
『はい』
「荷は、腰で背負ってください。肩じゃなく」
電話の向こうで、長野が黙った。
『それだけっすか』
「それだけです」
『新藤さんらしいっすね』
通話が切れた。




