第8章 私は、あなたのために王国を捨ててほしくない
王太子が王位を捨てると言ったのは、その三日後だった。
◇
「北部で徴税拒否?」
朝。
王太子執務室へ入るなり、レオンが書類を差し出した。
「昨日、正式な報告が来た」
私は受け取る。
北部七領。
そのうち四領が王室への納税を一時停止。
理由。
《王家による北部自治権侵害への抗議》
署名の筆頭。
オルフェン・アーレン伯爵。
「アーレン家」
「うん」
旧王家。
アルフレッド第一王子の直系。
本人たちが。
それを知っているかは分からない。
「偶然でしょうか」
「時期が良すぎる」
「私たちが調査していることが漏れた?」
「可能性はある」
「皇太后から?」
「分からない」
レオンは机の上の別紙を指した。
「こっちも見て」
北部騎士団。
演習名目で兵を増員。
王都近郊にも、北部出身貴族の動き。
「反乱準備に見えます」
「父上もそう考えてる」
「国王陛下は?」
「鎮圧軍の準備を始めた」
私は顔を上げた。
「早すぎます」
「私も言った」
「徴税拒否だけで軍を動かせば」
「向こうに反乱の大義を与える」
「はい」
北部は。
もともと王家への不満が強い。
そこへ軍を送れば。
《王家が北部を弾圧した》
そう見える。
「国王陛下は」
「祖母上に強く言われてる」
「皇太后陛下が鎮圧を?」
「いや」
レオンが首を振る。
「祖母上は反対」
「では」
「父上が焦ってる」
「なぜ」
言ってから。
答えに気づいた。
現王家の正統性。
もし。
国王陛下も。
アーレン家の正体を知っているなら。
「恐れている」
「多分」
「旧王家が動くことを」
「うん」
レオンは窓の外を見る。
「人間って面白いね」
「何がです」
「秘密を隠すために強く出て」
「はい」
「強く出るから、余計に怪しまれる」
「笑いごとではありません」
「笑ってないよ」
確かに。
顔は。
笑っていなかった。
「殿下」
「うん」
「アーレン家へ使者を」
「私もそう思う」
「王族ではなく」
「君?」
「私とは言っていません」
「言いそうだった」
「中立に近い貴族がいいでしょう」
「誰がいる」
「ウェルナー侯爵」
「北部と縁戚」
「王家とも近い」
「なるほど」
「まず理由を聞くべきです」
「徴税拒否の?」
「はい」
「表向きの理由じゃなく?」
「本当に欲しいものを」
自治権。
減税。
軍権。
あるいは。
もっと別の何か。
「もし」
レオンが言う。
「王位だったら?」
「……」
「アーレン家が」
彼は。
机の上へ視線を落とす。
「本来の王位を返せと言ったら」
「そのとき考えます」
「君ならそう言うと思った」
「まだ言われていません」
「でも」
レオンが。
低い声で言った。
「私は最近ずっと考えてる」
「何を」
「王位を」
私は。
何も言わずに待った。
「もし」
彼は続ける。
「私が王にならなければ」
「……」
「君は私を忘れなくて済む」
胸が。
少し。
締まった。
「戴冠時の特別保全はなくなります」
「うん」
「ただし婚姻契約の献納指定は残ります」
「王太子妃じゃなければいい」
私は。
彼を見る。
「殿下」
「私が王太子じゃなければ」
「何を」
「王位継承権を放棄すればいい」
一瞬。
言葉の意味が。
理解できなかった。
「……何をおっしゃっているのです」
「聞こえた通り」
「冗談なら」
「冗談じゃない」
レオンは。
あまりにも。
静かな顔をしていた。
「王位継承権を放棄する」
「なぜ」
「君を忘れたくないから」
その言葉は。
私が一番。
聞きたくなかったものだった。
◇
「なぜ黙るの」
レオンが尋ねた。
「……考えています」
「何を」
「どこから怒ればいいのかを」
「怒る?」
「当然です」
「なぜ」
私は。
立ち上がった。
「殿下は」
「うん」
「王になるために何年生きてきたのです」
「それは」
「二十五年でしょう」
「生まれた瞬間から数える?」
「当然です」
王太子。
そう呼ばれて。
立ち方。
話し方。
歴史。
法律。
軍学。
外交。
全部。
この人は。
王になるために覚えてきた。
「それを」
私は言う。
「私のために捨てるのですか」
「そう」
迷わない。
だから。
余計に腹が立つ。
「嬉しいとでも思いました?」
「少しは」
「思いません」
「即答だね」
「まったく」
レオンの顔が。
少し傷ついた。
でも。
止めなかった。
「私は」
机に手を置く。
「あなたに王になってほしい」
「それは聞いた」
「なら」
「でも君を忘れる」
「だから別の方法を探すのでしょう」
「見つからなかったら?」
「見つけます」
「それは答えじゃない」
「では殿下の答えは?」
「王にならない」
「それが」
声が強くなる。
「簡単に言えると思っているのですか」
「簡単じゃない」
「では」
「簡単じゃないけど」
彼も立った。
「君を失うよりは簡単だ」
胸に。
鋭く刺さった。
嬉しい。
そう感じた。
一瞬だけ。
それが。
嫌だった。
「やめてください」
「何を」
「そういう言い方」
「本当だ」
「だからです」
私は。
彼を見る。
「私のために人生を捨てるような言い方をしないでください」
「捨てるんじゃない」
「同じです」
「違う」
「何が」
「選ぶんだ」
「何を」
「君を」
静かな。
声。
私が。
ずっと欲しがっていたような言葉。
誰かに。
選んでほしかった。
母に。
家族に。
王家に。
そして。
この人に。
でも。
今は。
違う。
「私は」
深く息を吸った。
「そんなふうに選ばれたくありません」
レオンが。
黙った。
「……なぜ」
「私は」
言葉を探す。
「あなたに」
続ける。
「王国を捨ててほしくない」
◇
部屋が。
静まり返った。
「王国?」
「はい」
「大げさだよ」
「大げさではありません」
「王位を降りるだけだ」
「王太子が今、この状況で王位を放棄したら何が起きます」
「弟が継げばいい」
「ユリウス殿下が?」
「そう」
「ご本人が望んでいますか」
「聞いてはいない」
「なら勝手です」
「でも」
「北部が動いている今」
私は。
書類を指す。
「王太子が継承権を捨てる」
「……」
「理由は公表しなくても」
「……」
「王室に重大な問題があると誰もが考えます」
「確かに」
「アーレン家にとっては?」
「好機」
「内戦の可能性は?」
「上がる」
「国王陛下への打撃は?」
「大きい」
「それでも」
私は言う。
「私を選ぶ?」
レオンは。
答えた。
「選ぶ」
腹が立った。
「馬鹿です」
「そこまで言う?」
「言います」
「エレナ」
「私はそんなものになりたくない」
「そんなもの?」
「あなたが」
声が震えた。
「王国を捨てた理由に」
レオンの顔が。
変わる。
「私のために内戦が起きたら?」
「それは」
「人が死んだら?」
「防ぐ」
「どうやって」
「王位を捨ててもできることはある」
「では」
私は。
皇太后の言葉を思い出す。
『普通の男なら、妻のために世界を敵に回すと言えば、美しい言葉になる』
『王がそれを言えば、本当に軍隊が動く』
「皇太后陛下が正しかったことになります」
レオンが黙る。
「一番愛する人のために」
私は言った。
「王が判断を変える」
「まだ王じゃない」
「同じです」
「エレナ」
「私を愛することと」
声が。
少し。
震える。
「私のために自分を捨てることは」
彼を見る。
「同じではありません」
◇
レオンは。
長い間。
何も言わなかった。
やがて。
「じゃあ」
声が低い。
「君は私に何をしろと言うの」
「一緒に方法を探してほしいです」
「見つからなかったら」
「そのとき」
「君は記憶を差し出す?」
すぐには。
答えられなかった。
「……そのとき考えます」
「またそれ」
「今は」
「君はいつもそうだ」
レオンの声が。
少し強くなった。
「何です」
「責任とか、王国とか」
「重要です」
「君自身は?」
「私も含めて考えています」
「本当に?」
「何が言いたいのです」
「君は」
彼が。
一歩近づく。
「私が王位を捨てるのは嫌」
「はい」
「でも自分が私を忘れるのは、選択肢に残す」
「……」
「それって」
「殿下」
「自分を犠牲にするのはいいの?」
言葉が。
止まった。
「私が何かを捨てるのは許さない」
「……」
「でも君は自分を捨てる」
「同じではありません」
「同じだよ」
「違います」
「何が」
「私は」
言葉が詰まる。
王国。
義務。
責任。
そのためなら。
自分が何かを失うことは。
ずっと。
当然だと思ってきた。
「ほら」
レオンの声が。
苦しそうになる。
「答えられない」
「私は侯爵家の娘です」
「それを言うな」
「王太子妃になる予定です」
「それも」
「なら」
「エレナ!」
初めて。
彼が。
私の名前を怒鳴った。
私は。
固まった。
レオンも。
自分で驚いたようだった。
「……ごめん」
「いいえ」
「でも」
声が。
低くなる。
「私は君に」
息を吸う。
「自分を捨てないでほしい」
それは。
怒鳴られるより。
ずっと痛かった。
「私も」
やっと言えた。
「あなたにそうしてほしいのです」
二人とも。
同じ。
相手に。
捨ててほしくない。
でも。
このままなら。
どちらかが。
何かを失う。
「だから」
私は。
言った。
「喧嘩している場合ではありません」
レオンが。
一瞬。
目を丸くする。
「今それ言う?」
「はい」
「君が怒ったのに」
「殿下も怒ったでしょう」
「そうだけど」
「ではお互い様です」
「強引だな」
「時間がありません」
「あと何日?」
「二十三日です」
口にすると。
数字が。
重い。
二十三日。
「分かった」
レオンが。
椅子へ座る。
「方法を探す」
「はい」
「でも」
「何です」
「王位放棄は」
「却下です」
「まだ最後まで言ってない」
「却下です」
「候補として」
「却下」
「エレナ」
「却下です」
「……はい」
◇
その日の午後。
第二王子ユリウスが。
突然。
私たちの前に現れた。
「兄上」
「何だ」
「ひどいな。久しぶりに顔を出した弟に」
「用があるから来たんだろ」
「もちろん」
ユリウス・エルディア。
二十三歳。
レオンより二歳下。
金髪。
青い目。
同じ兄弟なのに。
雰囲気は正反対。
レオンが。
緊張を隠して柔らかく見せる人なら。
ユリウスは。
本心を冗談で隠す。
「エレナ嬢も」
「殿下」
「今日も兄上を働かせてくれてありがとう」
「私が働かせているように言わないでください」
「違うの?」
「ユリウス」
レオンが低い声。
「用件」
「はいはい」
ユリウスは。
扉の鍵を確認した。
そして。
笑みを消した。
「北部が動く」
「知ってる」
「徴税拒否だけじゃない」
私たちは。
同時に彼を見る。
「何を知っています」
私が聞く。
「兵が集まってる」
「演習名目ですね」
「表向きは」
「実際は?」
「王都進軍の準備」
レオンが。
立ち上がった。
「確かなのか」
「かなり」
「情報源は」
「言えない」
「ユリウス」
「兄上」
弟の目が。
笑っていない。
「俺を信用するか」
「情報源を言え」
「それは無理」
「なぜ」
「死ぬ人間が出る」
沈黙。
「では」
私は言った。
「何を求めて来たのです」
ユリウスが。
私を見る。
「さすが」
「茶化さないでください」
「兄上より話が早い」
「ユリウス」
「分かった」
彼は。
椅子に座らず。
窓辺へ寄った。
「北部の一部貴族は」
声を低くする。
「王家の秘密を知ってる」
レオンの表情が。
変わった。
「どこまで」
「旧王家」
「……」
「アーレン家がアルフレッド直系だってこと」
「なぜ」
「そこまでは知らない」
嘘。
私は。
そう感じた。
ユリウスは。
何か。
もっと知っている。
「兄上」
「何だ」
「王位継承をどうする」
レオンが。
私を見る。
最悪のタイミング。
「何の話だ」
「俺に回す?」
「なぜそう思う」
「王宮で兄上が調べてることくらい知ってる」
「どこまで」
「記憶制度」
私は。
身構えた。
「それから」
ユリウス。
「兄上が王になったら、一番愛してる人を忘れること」
彼の視線。
私。
「それがエレナ嬢なら」
「ユリウス」
レオンの声。
鋭い。
「余計なことを言うな」
「余計?」
「彼女を巻き込むな」
「もう巻き込まれてるだろ」
ユリウスの声も。
変わる。
「兄上たちが思ってるよりずっと」
「どういう意味です」
私が聞く。
彼は。
答えなかった。
代わりに。
「王位を捨てるつもり?」
レオンに。
真っ直ぐ聞いた。
「……」
「考えた顔だ」
「勝手に決めるな」
「俺は別にいいよ」
「何が」
「王位」
ユリウスが。
肩をすくめる。
「兄上がいらないなら」
笑う。
「俺がもらっても」
部屋の空気が。
変わった。
「本気ですか」
私は尋ねた。
「どうだろう」
「殿下」
「怖い顔しないでよ」
「答えてください」
ユリウスの笑みが。
少し消える。
「半分」
「残り半分は」
「兄上に王になってほしくない人間は」
彼が。
言う。
「思ったより多いってこと」
◇
「誰です」
レオン。
「言えない」
「北部か」
「それも」
「それ以外?」
「王都にも」
「名前」
「まだ」
「ユリウス!」
「兄上」
第二王子は。
初めて。
本気で兄を見る。
「今、誰が味方か分からない」
「お前は?」
レオンが聞いた。
「味方なのか」
ユリウスは。
少し笑った。
「兄弟って、それ確認しないといけない?」
「今は」
「そう」
しばらく。
二人が見る。
やがて。
ユリウスが息を吐く。
「兄上の味方だよ」
「なら」
「でも」
続き。
「王家の味方ではない」
私は。
その言葉に。
引っかかった。
「どういう意味です」
「エレナ嬢」
彼が。
私を見る。
「記憶献納制度」
「はい」
「壊したいと思ってる?」
「……」
「思ってるよね」
「制度そのものをどうするかは」
「慎重だ」
「当然です」
「俺は」
彼が。
言う。
「壊す」
レオンが。
眉を寄せる。
「ユリウス」
「百年以上、人間から記憶を奪ってきた」
「目的もある」
「だから許される?」
「そうは言ってない」
「兄上は優しいから」
ユリウス。
「全部理解してから正しく変えようとする」
「何が悪い」
「遅い」
その一言。
「何をするつもりです」
私が聞く。
ユリウスは。
答えない。
「殿下」
「今夜」
彼は言った。
「何?」
「何も知らないふりして、部屋で寝てて」
レオンが。
立ち上がる。
「ユリウス」
「それだけ言いに来た」
扉へ。
「待て!」
でも。
第二王子は。
振り返らない。
「兄上」
扉の前。
「エレナ嬢」
今度は。
私を見る。
「記憶って」
薄い笑み。
「瓶に入れておくから、奪えるんだよ」
そして。
出ていった。
◇
「地下宮殿です」
私は言った。
「私もそう思う」
レオンは。
すぐに衛兵長を呼ぼうとした。
私は止める。
「待ってください」
「なぜ」
「ユリウス殿下が何をするか分からない」
「だから警備を」
「王宮内にも協力者がいる可能性があります」
「じゃあ」
「私たちで先に確認します」
「また二人?」
「これまで通りです」
「君、慣れてきたね」
「感心している場合ではありません」
「分かってる」
時刻。
午後五時。
夜を待つ必要はない。
私たちは。
旧厨房へ。
第三扉。
地下宮殿。
金色の扉。
「異常は」
レオンが。
周囲を見る。
「今のところない」
記憶庫。
無数の瓶。
変わらない。
「管理装置」
私が近づく。
そして。
気づいた。
「これ」
「何」
「封印が」
管理台。
側面。
一か所。
開けられている。
「誰か入った?」
「恐らく」
記録。
最新入室者。
《管理官権限》
名前なし。
「ユリウスではない」
レオンが言う。
「王族なら名前が出る」
「協力者」
「管理官か」
そのとき。
遠く。
音。
ガラス。
一つ。
割れる音。
「走って!」
レオン。
私たちは。
回廊を進む。
奥。
普段使われていない区画。
そして。
そこに。
人影。
黒装束。
三人。
「止まれ!」
レオンが叫ぶ。
一人が。
こちらを振り返る。
顔は隠れている。
手に。
鉄槌。
そして。
足元。
割れた。
記憶瓶。
光が。
床を這っている。
「何をしている!」
一人が。
鉄槌を振り上げる。
「やめて!」
私が叫ぶ。
振り下ろされる。
瓶。
割れる。
光。
天井へ。
一気に飛び上がった。
「レオン!」
「下がって!」
彼が。
私を庇う。
でも。
光は。
攻撃ではなかった。
風。
記憶が。
空気へ溶ける。
次。
また。
瓶。
割れる。
「全部壊す気です!」
「衛兵を呼ぶ!」
「間に合いません!」
私は。
周囲を見る。
管理台。
緊急封鎖。
壁。
《保管区隔壁》
「殿下!」
「何!」
「右のレバーを!」
レオンが。
走る。
黒装束の一人が。
剣を抜く。
「レオン!」
彼が。
身をかわす。
王太子。
剣術は。
私より。
遥かに上。
相手の腕を掴み。
壁へ。
叩きつける。
「今!」
私は。
レバーを引く。
重い。
「動かない!」
「一緒に!」
レオンが来る。
二人。
力を入れる。
機械音。
石壁。
上から。
落ちる。
「閉まる!」
黒装束たちが。
反対側へ逃げる。
でも。
一人。
間に合わない。
隔壁。
閉鎖。
私たち。
そして。
男一人。
同じ側に残った。
「捕まえろ」
レオンが。
剣を抜く。
男。
逃げ場なし。
「誰に命令された」
答えない。
「顔を見せろ」
私が。
布を取ろうとする。
「エレナ、待って」
遅かった。
男が。
自分の口元へ。
何か。
噛んだ。
「殿下!」
倒れる。
「毒?」
レオンが。
男を支える。
痙攣。
「吐け!」
でも。
数秒。
動かなくなった。
「……死んだ」
私は。
何も言えなかった。
足元。
割れた瓶。
漂う光。
そして。
死体。
「ユリウスが」
レオン。
低い声。
「こんな命令を?」
「分かりません」
「でも制度を壊すと言った」
「瓶を壊すとは」
私は。
死んだ男を見る。
手首。
何か。
印。
「殿下」
「何」
「これ」
袖をめくる。
紋章。
黒い輪。
中央に。
一本の切れた鎖。
「知ってる?」
レオンが聞く。
「いいえ」
「私も」
でも。
それが。
ただの盗賊ではないことだけは。
分かった。
◇
そのとき。
隔壁の向こう。
連続して。
音。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
ガラスが。
割れる。
「まずい」
レオン。
「別の区画にもいる」
「隔壁を」
「開けたらこちらへ来る」
「でも」
次。
十。
二十。
音が。
増える。
そして。
地下宮殿全体が。
震えた。
「何?」
「分かりません」
壁の魔術文字。
赤く。
光る。
《記憶保管容量異常》
《封印破損》
《外部流出開始》
「外部?」
レオンが。
私を見る。
「どこへ流れる」
答えは。
すぐに分かった。
天井。
亀裂。
光が。
吸い込まれる。
「王都へ」
私は呟いた。
「記憶が」
一本。
また一本。
光が。
天井へ。
「流れ出しています」
◇
地上。
王宮庭園。
夕方。
最初は。
誰も。
何が起きたのか分からなかった。
空へ。
小さな光が。
昇った。
一つ。
二つ。
百。
千。
「雪?」
王宮の侍女が。
空を見る。
違う。
光。
青。
金。
赤。
緑。
そして。
王都へ。
降り始める。
「レオン」
「止めないと」
「どうやって」
「分からない!」
地下から。
私たちは。
地上へ戻った。
庭。
空。
無数の。
記憶。
「触らないで!」
私は。
周囲へ叫ぶ。
でも。
遅い。
一つの光が。
侍女の肩へ触れた。
彼女が。
動きを止める。
「……お母さん?」
涙。
突然。
「え?」
侍女自身も。
訳が分からない。
「私」
彼女が。
空を見る。
「知らない人の」
泣く。
「子どもを産んだ記憶が」
他人の記憶。
流れ込んだ。
「全員、屋内へ!」
レオンが叫ぶ。
「窓を閉めろ!」
でも。
光は。
王宮だけではない。
城壁を越える。
王都。
何万人。
その上へ。
記憶が降る。
「殿下」
「分かってる」
「止められません」
「でも」
王都の鐘。
鳴る。
一つ。
二つ。
非常鐘。
そして。
遠く。
街から。
悲鳴。
笑い声。
泣き声。
混乱。
「これが」
私は。
空を見る。
「ユリウス殿下の言っていた」
『瓶に入れておくから、奪える』
もし。
全部解放すれば。
制度は壊れる。
でも。
同時に。
何万人もの秘密が。
誰かの心へ。
流れ込む。
「兄上!」
声。
振り返る。
ユリウス。
走ってくる。
「何をした!」
レオンが。
胸倉を掴む。
「俺じゃない!」
「嘘をつくな!」
「本当に違う!」
「お前は今日」
「壊すとは言った!」
「なら」
「今じゃない!」
ユリウスが。
レオンの手を払う。
「こんな方法じゃない!」
「では誰だ!」
「知らない!」
「地下に男が」
「どんな」
「黒服。手首に」
私は。
紋章を説明する。
切れた鎖。
ユリウスの顔色が。
変わった。
「知っているのですか」
私が聞く。
「……」
「殿下」
「記憶解放同盟」
「何です、それは」
ユリウスが。
空を見る。
「制度で家族を壊された人間たち」
「あなたは」
レオン。
「そいつらと接触してた?」
「してる」
「ユリウス!」
「だから情報があった!」
「なぜ言わなかった!」
「王家に言えば捕まえるだろ!」
「当然だ!」
「制度を作った側が!」
二人。
睨み合う。
「やめてください!」
私は。
声を上げた。
驚くほど。
二人とも止まった。
「今は」
息を整える。
「誰が悪いかではありません」
空。
記憶。
降り続ける。
「王都を止めなければ」
「どうやって」
ユリウス。
「地下の封印を直します」
「壊された区画が多い」
レオン。
「なら」
私は言う。
「まず」
王都を見る。
「国民に何が起きているのか知らせます」
「記憶制度を?」
レオンが。
私を見る。
ここで。
隠せば。
また。
同じ。
嘘。
記憶を奪い。
秘密を隠す。
その繰り返し。
「はい」
私は答えた。
「公開します」
「エレナ」
「もう」
空を指す。
「隠せません」
◇
その夜。
王都は。
他人の記憶で満ちた。
亡くなった子どもの笑顔。
不倫。
犯罪。
初恋。
戦場。
出産。
虐待。
秘密。
幸福。
後悔。
知らない人生が。
知らない人間へ。
降る。
王宮前広場。
人々が。
集まり始める。
「記憶を返せ!」
「何をした!」
「王家が奪ったのか!」
怒号。
衛兵。
王門。
閉鎖。
国王陛下は。
緊急評議会。
皇太后。
姿を見せない。
「兄上」
ユリウスが。
言った。
「もう戻れない」
レオンは。
広場を見る。
「分かってる」
「王家の秘密」
「うん」
「全部出るかもしれない」
「うん」
「それでも」
ユリウス。
「王になる?」
レオンは。
答えなかった。
私は。
隣で。
彼の横顔を見る。
今日の朝。
彼は言った。
王位を捨てる。
私を選ぶ。
そのとき。
私は拒んだ。
そして今。
王国そのものが。
壊れ始めている。
「レオン」
「うん」
「今」
私は言う。
「王位を捨てたいですか」
彼が。
私を見る。
「……分からない」
「はい」
「でも」
「何です」
「逃げたくはない」
私は。
少し。
笑った。
「それで十分です」
「そう?」
「今は」
眼下。
民衆。
空。
降る記憶。
「私も」
彼の隣へ。
一歩。
近づく。
「逃げません」
レオンの手。
私の手。
触れる。
今度は。
彼が。
握った。
強く。
私も。
握り返した。
王国を捨てて。
私を選んでほしいとは思わない。
でも。
王国のために。
私を忘れてほしいとも思わない。
その二つしかないというなら。
そんな選択肢を作った。
この国の仕組みそのものを。
変えればいい。
そして。
その夜。
王都に降った。
何万人もの他人の記憶の中に。
百二十年前。
一人の王妃が残した。
最初の記憶も。
混じっていた。
リディア・エルディア。
記憶献納制度を。
最初に受け入れた王妃。
彼女が。
本当に残そうとしたものが。
ようやく。
王都へ。
解き放たれようとしていた。




