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結婚すると、あなたは私を忘れる――記憶を納める王国の契約令嬢  作者: swingout777


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8/12

第8章 私は、あなたのために王国を捨ててほしくない

 王太子が王位を捨てると言ったのは、その三日後だった。


     ◇


「北部で徴税拒否?」


 朝。


 王太子執務室へ入るなり、レオンが書類を差し出した。


「昨日、正式な報告が来た」


 私は受け取る。


 北部七領。


 そのうち四領が王室への納税を一時停止。


 理由。


《王家による北部自治権侵害への抗議》


 署名の筆頭。


 オルフェン・アーレン伯爵。


「アーレン家」


「うん」


 旧王家。


 アルフレッド第一王子の直系。


 本人たちが。


 それを知っているかは分からない。


「偶然でしょうか」


「時期が良すぎる」


「私たちが調査していることが漏れた?」


「可能性はある」


「皇太后から?」


「分からない」


 レオンは机の上の別紙を指した。


「こっちも見て」


 北部騎士団。


 演習名目で兵を増員。


 王都近郊にも、北部出身貴族の動き。


「反乱準備に見えます」


「父上もそう考えてる」


「国王陛下は?」


「鎮圧軍の準備を始めた」


 私は顔を上げた。


「早すぎます」


「私も言った」


「徴税拒否だけで軍を動かせば」


「向こうに反乱の大義を与える」


「はい」


 北部は。


 もともと王家への不満が強い。


 そこへ軍を送れば。


《王家が北部を弾圧した》


 そう見える。


「国王陛下は」


「祖母上に強く言われてる」


「皇太后陛下が鎮圧を?」


「いや」


 レオンが首を振る。


「祖母上は反対」


「では」


「父上が焦ってる」


「なぜ」


 言ってから。


 答えに気づいた。


 現王家の正統性。


 もし。


 国王陛下も。


 アーレン家の正体を知っているなら。


「恐れている」


「多分」


「旧王家が動くことを」


「うん」


 レオンは窓の外を見る。


「人間って面白いね」


「何がです」


「秘密を隠すために強く出て」


「はい」


「強く出るから、余計に怪しまれる」


「笑いごとではありません」


「笑ってないよ」


 確かに。


 顔は。


 笑っていなかった。


「殿下」


「うん」


「アーレン家へ使者を」


「私もそう思う」


「王族ではなく」


「君?」


「私とは言っていません」


「言いそうだった」


「中立に近い貴族がいいでしょう」


「誰がいる」


「ウェルナー侯爵」


「北部と縁戚」


「王家とも近い」


「なるほど」


「まず理由を聞くべきです」


「徴税拒否の?」


「はい」


「表向きの理由じゃなく?」


「本当に欲しいものを」


 自治権。


 減税。


 軍権。


 あるいは。


 もっと別の何か。


「もし」


 レオンが言う。


「王位だったら?」


「……」


「アーレン家が」


 彼は。


 机の上へ視線を落とす。


「本来の王位を返せと言ったら」


「そのとき考えます」


「君ならそう言うと思った」


「まだ言われていません」


「でも」


 レオンが。


 低い声で言った。


「私は最近ずっと考えてる」


「何を」


「王位を」


 私は。


 何も言わずに待った。


「もし」


 彼は続ける。


「私が王にならなければ」


「……」


「君は私を忘れなくて済む」


 胸が。


 少し。


 締まった。


「戴冠時の特別保全はなくなります」


「うん」


「ただし婚姻契約の献納指定は残ります」


「王太子妃じゃなければいい」


 私は。


 彼を見る。


「殿下」


「私が王太子じゃなければ」


「何を」


「王位継承権を放棄すればいい」


 一瞬。


 言葉の意味が。


 理解できなかった。


「……何をおっしゃっているのです」


「聞こえた通り」


「冗談なら」


「冗談じゃない」


 レオンは。


 あまりにも。


 静かな顔をしていた。


「王位継承権を放棄する」


「なぜ」


「君を忘れたくないから」


 その言葉は。


 私が一番。


 聞きたくなかったものだった。


     ◇


「なぜ黙るの」


 レオンが尋ねた。


「……考えています」


「何を」


「どこから怒ればいいのかを」


「怒る?」


「当然です」


「なぜ」


 私は。


 立ち上がった。


「殿下は」


「うん」


「王になるために何年生きてきたのです」


「それは」


「二十五年でしょう」


「生まれた瞬間から数える?」


「当然です」


 王太子。


 そう呼ばれて。


 立ち方。


 話し方。


 歴史。


 法律。


 軍学。


 外交。


 全部。


 この人は。


 王になるために覚えてきた。


「それを」


 私は言う。


「私のために捨てるのですか」


「そう」


 迷わない。


 だから。


 余計に腹が立つ。


「嬉しいとでも思いました?」


「少しは」


「思いません」


「即答だね」


「まったく」


 レオンの顔が。


 少し傷ついた。


 でも。


 止めなかった。


「私は」


 机に手を置く。


「あなたに王になってほしい」


「それは聞いた」


「なら」


「でも君を忘れる」


「だから別の方法を探すのでしょう」


「見つからなかったら?」


「見つけます」


「それは答えじゃない」


「では殿下の答えは?」


「王にならない」


「それが」


 声が強くなる。


「簡単に言えると思っているのですか」


「簡単じゃない」


「では」


「簡単じゃないけど」


 彼も立った。


「君を失うよりは簡単だ」


 胸に。


 鋭く刺さった。


 嬉しい。


 そう感じた。


 一瞬だけ。


 それが。


 嫌だった。


「やめてください」


「何を」


「そういう言い方」


「本当だ」


「だからです」


 私は。


 彼を見る。


「私のために人生を捨てるような言い方をしないでください」


「捨てるんじゃない」


「同じです」


「違う」


「何が」


「選ぶんだ」


「何を」


「君を」


 静かな。


 声。


 私が。


 ずっと欲しがっていたような言葉。


 誰かに。


 選んでほしかった。


 母に。


 家族に。


 王家に。


 そして。


 この人に。


 でも。


 今は。


 違う。


「私は」


 深く息を吸った。


「そんなふうに選ばれたくありません」


 レオンが。


 黙った。


「……なぜ」


「私は」


 言葉を探す。


「あなたに」


 続ける。


「王国を捨ててほしくない」


     ◇


 部屋が。


 静まり返った。


「王国?」


「はい」


「大げさだよ」


「大げさではありません」


「王位を降りるだけだ」


「王太子が今、この状況で王位を放棄したら何が起きます」


「弟が継げばいい」


「ユリウス殿下が?」


「そう」


「ご本人が望んでいますか」


「聞いてはいない」


「なら勝手です」


「でも」


「北部が動いている今」


 私は。


 書類を指す。


「王太子が継承権を捨てる」


「……」


「理由は公表しなくても」


「……」


「王室に重大な問題があると誰もが考えます」


「確かに」


「アーレン家にとっては?」


「好機」


「内戦の可能性は?」


「上がる」


「国王陛下への打撃は?」


「大きい」


「それでも」


 私は言う。


「私を選ぶ?」


 レオンは。


 答えた。


「選ぶ」


 腹が立った。


「馬鹿です」


「そこまで言う?」


「言います」


「エレナ」


「私はそんなものになりたくない」


「そんなもの?」


「あなたが」


 声が震えた。


「王国を捨てた理由に」


 レオンの顔が。


 変わる。


「私のために内戦が起きたら?」


「それは」


「人が死んだら?」


「防ぐ」


「どうやって」


「王位を捨ててもできることはある」


「では」


 私は。


 皇太后の言葉を思い出す。


『普通の男なら、妻のために世界を敵に回すと言えば、美しい言葉になる』


『王がそれを言えば、本当に軍隊が動く』


「皇太后陛下が正しかったことになります」


 レオンが黙る。


「一番愛する人のために」


 私は言った。


「王が判断を変える」


「まだ王じゃない」


「同じです」


「エレナ」


「私を愛することと」


 声が。


 少し。


 震える。


「私のために自分を捨てることは」


 彼を見る。


「同じではありません」


     ◇


 レオンは。


 長い間。


 何も言わなかった。


 やがて。


「じゃあ」


 声が低い。


「君は私に何をしろと言うの」


「一緒に方法を探してほしいです」


「見つからなかったら」


「そのとき」


「君は記憶を差し出す?」


 すぐには。


 答えられなかった。


「……そのとき考えます」


「またそれ」


「今は」


「君はいつもそうだ」


 レオンの声が。


 少し強くなった。


「何です」


「責任とか、王国とか」


「重要です」


「君自身は?」


「私も含めて考えています」


「本当に?」


「何が言いたいのです」


「君は」


 彼が。


 一歩近づく。


「私が王位を捨てるのは嫌」


「はい」


「でも自分が私を忘れるのは、選択肢に残す」


「……」


「それって」


「殿下」


「自分を犠牲にするのはいいの?」


 言葉が。


 止まった。


「私が何かを捨てるのは許さない」


「……」


「でも君は自分を捨てる」


「同じではありません」


「同じだよ」


「違います」


「何が」


「私は」


 言葉が詰まる。


 王国。


 義務。


 責任。


 そのためなら。


 自分が何かを失うことは。


 ずっと。


 当然だと思ってきた。


「ほら」


 レオンの声が。


 苦しそうになる。


「答えられない」


「私は侯爵家の娘です」


「それを言うな」


「王太子妃になる予定です」


「それも」


「なら」


「エレナ!」


 初めて。


 彼が。


 私の名前を怒鳴った。


 私は。


 固まった。


 レオンも。


 自分で驚いたようだった。


「……ごめん」


「いいえ」


「でも」


 声が。


 低くなる。


「私は君に」


 息を吸う。


「自分を捨てないでほしい」


 それは。


 怒鳴られるより。


 ずっと痛かった。


「私も」


 やっと言えた。


「あなたにそうしてほしいのです」


 二人とも。


 同じ。


 相手に。


 捨ててほしくない。


 でも。


 このままなら。


 どちらかが。


 何かを失う。


「だから」


 私は。


 言った。


「喧嘩している場合ではありません」


 レオンが。


 一瞬。


 目を丸くする。


「今それ言う?」


「はい」


「君が怒ったのに」


「殿下も怒ったでしょう」


「そうだけど」


「ではお互い様です」


「強引だな」


「時間がありません」


「あと何日?」


「二十三日です」


 口にすると。


 数字が。


 重い。


 二十三日。


「分かった」


 レオンが。


 椅子へ座る。


「方法を探す」


「はい」


「でも」


「何です」


「王位放棄は」


「却下です」


「まだ最後まで言ってない」


「却下です」


「候補として」


「却下」


「エレナ」


「却下です」


「……はい」


     ◇


 その日の午後。


 第二王子ユリウスが。


 突然。


 私たちの前に現れた。


「兄上」


「何だ」


「ひどいな。久しぶりに顔を出した弟に」


「用があるから来たんだろ」


「もちろん」


 ユリウス・エルディア。


 二十三歳。


 レオンより二歳下。


 金髪。


 青い目。


 同じ兄弟なのに。


 雰囲気は正反対。


 レオンが。


 緊張を隠して柔らかく見せる人なら。


 ユリウスは。


 本心を冗談で隠す。


「エレナ嬢も」


「殿下」


「今日も兄上を働かせてくれてありがとう」


「私が働かせているように言わないでください」


「違うの?」


「ユリウス」


 レオンが低い声。


「用件」


「はいはい」


 ユリウスは。


 扉の鍵を確認した。


 そして。


 笑みを消した。


「北部が動く」


「知ってる」


「徴税拒否だけじゃない」


 私たちは。


 同時に彼を見る。


「何を知っています」


 私が聞く。


「兵が集まってる」


「演習名目ですね」


「表向きは」


「実際は?」


「王都進軍の準備」


 レオンが。


 立ち上がった。


「確かなのか」


「かなり」


「情報源は」


「言えない」


「ユリウス」


「兄上」


 弟の目が。


 笑っていない。


「俺を信用するか」


「情報源を言え」


「それは無理」


「なぜ」


「死ぬ人間が出る」


 沈黙。


「では」


 私は言った。


「何を求めて来たのです」


 ユリウスが。


 私を見る。


「さすが」


「茶化さないでください」


「兄上より話が早い」


「ユリウス」


「分かった」


 彼は。


 椅子に座らず。


 窓辺へ寄った。


「北部の一部貴族は」


 声を低くする。


「王家の秘密を知ってる」


 レオンの表情が。


 変わった。


「どこまで」


「旧王家」


「……」


「アーレン家がアルフレッド直系だってこと」


「なぜ」


「そこまでは知らない」


 嘘。


 私は。


 そう感じた。


 ユリウスは。


 何か。


 もっと知っている。


「兄上」


「何だ」


「王位継承をどうする」


 レオンが。


 私を見る。


 最悪のタイミング。


「何の話だ」


「俺に回す?」


「なぜそう思う」


「王宮で兄上が調べてることくらい知ってる」


「どこまで」


「記憶制度」


 私は。


 身構えた。


「それから」


 ユリウス。


「兄上が王になったら、一番愛してる人を忘れること」


 彼の視線。


 私。


「それがエレナ嬢なら」


「ユリウス」


 レオンの声。


 鋭い。


「余計なことを言うな」


「余計?」


「彼女を巻き込むな」


「もう巻き込まれてるだろ」


 ユリウスの声も。


 変わる。


「兄上たちが思ってるよりずっと」


「どういう意味です」


 私が聞く。


 彼は。


 答えなかった。


 代わりに。


「王位を捨てるつもり?」


 レオンに。


 真っ直ぐ聞いた。


「……」


「考えた顔だ」


「勝手に決めるな」


「俺は別にいいよ」


「何が」


「王位」


 ユリウスが。


 肩をすくめる。


「兄上がいらないなら」


 笑う。


「俺がもらっても」


 部屋の空気が。


 変わった。


「本気ですか」


 私は尋ねた。


「どうだろう」


「殿下」


「怖い顔しないでよ」


「答えてください」


 ユリウスの笑みが。


 少し消える。


「半分」


「残り半分は」


「兄上に王になってほしくない人間は」


 彼が。


 言う。


「思ったより多いってこと」


     ◇


「誰です」


 レオン。


「言えない」


「北部か」


「それも」


「それ以外?」


「王都にも」


「名前」


「まだ」


「ユリウス!」


「兄上」


 第二王子は。


 初めて。


 本気で兄を見る。


「今、誰が味方か分からない」


「お前は?」


 レオンが聞いた。


「味方なのか」


 ユリウスは。


 少し笑った。


「兄弟って、それ確認しないといけない?」


「今は」


「そう」


 しばらく。


 二人が見る。


 やがて。


 ユリウスが息を吐く。


「兄上の味方だよ」


「なら」


「でも」


 続き。


「王家の味方ではない」


 私は。


 その言葉に。


 引っかかった。


「どういう意味です」


「エレナ嬢」


 彼が。


 私を見る。


「記憶献納制度」


「はい」


「壊したいと思ってる?」


「……」


「思ってるよね」


「制度そのものをどうするかは」


「慎重だ」


「当然です」


「俺は」


 彼が。


 言う。


「壊す」


 レオンが。


 眉を寄せる。


「ユリウス」


「百年以上、人間から記憶を奪ってきた」


「目的もある」


「だから許される?」


「そうは言ってない」


「兄上は優しいから」


 ユリウス。


「全部理解してから正しく変えようとする」


「何が悪い」


「遅い」


 その一言。


「何をするつもりです」


 私が聞く。


 ユリウスは。


 答えない。


「殿下」


「今夜」


 彼は言った。


「何?」


「何も知らないふりして、部屋で寝てて」


 レオンが。


 立ち上がる。


「ユリウス」


「それだけ言いに来た」


 扉へ。


「待て!」


 でも。


 第二王子は。


 振り返らない。


「兄上」


 扉の前。


「エレナ嬢」


 今度は。


 私を見る。


「記憶って」


 薄い笑み。


「瓶に入れておくから、奪えるんだよ」


 そして。


 出ていった。


     ◇


「地下宮殿です」


 私は言った。


「私もそう思う」


 レオンは。


 すぐに衛兵長を呼ぼうとした。


 私は止める。


「待ってください」


「なぜ」


「ユリウス殿下が何をするか分からない」


「だから警備を」


「王宮内にも協力者がいる可能性があります」


「じゃあ」


「私たちで先に確認します」


「また二人?」


「これまで通りです」


「君、慣れてきたね」


「感心している場合ではありません」


「分かってる」


 時刻。


 午後五時。


 夜を待つ必要はない。


 私たちは。


 旧厨房へ。


 第三扉。


 地下宮殿。


 金色の扉。


「異常は」


 レオンが。


 周囲を見る。


「今のところない」


 記憶庫。


 無数の瓶。


 変わらない。


「管理装置」


 私が近づく。


 そして。


 気づいた。


「これ」


「何」


「封印が」


 管理台。


 側面。


 一か所。


 開けられている。


「誰か入った?」


「恐らく」


 記録。


 最新入室者。


《管理官権限》


 名前なし。


「ユリウスではない」


 レオンが言う。


「王族なら名前が出る」


「協力者」


「管理官か」


 そのとき。


 遠く。


 音。


 ガラス。


 一つ。


 割れる音。


「走って!」


 レオン。


 私たちは。


 回廊を進む。


 奥。


 普段使われていない区画。


 そして。


 そこに。


 人影。


 黒装束。


 三人。


「止まれ!」


 レオンが叫ぶ。


 一人が。


 こちらを振り返る。


 顔は隠れている。


 手に。


 鉄槌。


 そして。


 足元。


 割れた。


 記憶瓶。


 光が。


 床を這っている。


「何をしている!」


 一人が。


 鉄槌を振り上げる。


「やめて!」


 私が叫ぶ。


 振り下ろされる。


 瓶。


 割れる。


 光。


 天井へ。


 一気に飛び上がった。


「レオン!」


「下がって!」


 彼が。


 私を庇う。


 でも。


 光は。


 攻撃ではなかった。


 風。


 記憶が。


 空気へ溶ける。


 次。


 また。


 瓶。


 割れる。


「全部壊す気です!」


「衛兵を呼ぶ!」


「間に合いません!」


 私は。


 周囲を見る。


 管理台。


 緊急封鎖。


 壁。


《保管区隔壁》


「殿下!」


「何!」


「右のレバーを!」


 レオンが。


 走る。


 黒装束の一人が。


 剣を抜く。


「レオン!」


 彼が。


 身をかわす。


 王太子。


 剣術は。


 私より。


 遥かに上。


 相手の腕を掴み。


 壁へ。


 叩きつける。


「今!」


 私は。


 レバーを引く。


 重い。


「動かない!」


「一緒に!」


 レオンが来る。


 二人。


 力を入れる。


 機械音。


 石壁。


 上から。


 落ちる。


「閉まる!」


 黒装束たちが。


 反対側へ逃げる。


 でも。


 一人。


 間に合わない。


 隔壁。


 閉鎖。


 私たち。


 そして。


 男一人。


 同じ側に残った。


「捕まえろ」


 レオンが。


 剣を抜く。


 男。


 逃げ場なし。


「誰に命令された」


 答えない。


「顔を見せろ」


 私が。


 布を取ろうとする。


「エレナ、待って」


 遅かった。


 男が。


 自分の口元へ。


 何か。


 噛んだ。


「殿下!」


 倒れる。


「毒?」


 レオンが。


 男を支える。


 痙攣。


「吐け!」


 でも。


 数秒。


 動かなくなった。


「……死んだ」


 私は。


 何も言えなかった。


 足元。


 割れた瓶。


 漂う光。


 そして。


 死体。


「ユリウスが」


 レオン。


 低い声。


「こんな命令を?」


「分かりません」


「でも制度を壊すと言った」


「瓶を壊すとは」


 私は。


 死んだ男を見る。


 手首。


 何か。


 印。


「殿下」


「何」


「これ」


 袖をめくる。


 紋章。


 黒い輪。


 中央に。


 一本の切れた鎖。


「知ってる?」


 レオンが聞く。


「いいえ」


「私も」


 でも。


 それが。


 ただの盗賊ではないことだけは。


 分かった。


     ◇


 そのとき。


 隔壁の向こう。


 連続して。


 音。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 ガラスが。


 割れる。


「まずい」


 レオン。


「別の区画にもいる」


「隔壁を」


「開けたらこちらへ来る」


「でも」


 次。


 十。


 二十。


 音が。


 増える。


 そして。


 地下宮殿全体が。


 震えた。


「何?」


「分かりません」


 壁の魔術文字。


 赤く。


 光る。


《記憶保管容量異常》


《封印破損》


《外部流出開始》


「外部?」


 レオンが。


 私を見る。


「どこへ流れる」


 答えは。


 すぐに分かった。


 天井。


 亀裂。


 光が。


 吸い込まれる。


「王都へ」


 私は呟いた。


「記憶が」


 一本。


 また一本。


 光が。


 天井へ。


「流れ出しています」


     ◇


 地上。


 王宮庭園。


 夕方。


 最初は。


 誰も。


 何が起きたのか分からなかった。


 空へ。


 小さな光が。


 昇った。


 一つ。


 二つ。


 百。


 千。


「雪?」


 王宮の侍女が。


 空を見る。


 違う。


 光。


 青。


 金。


 赤。


 緑。


 そして。


 王都へ。


 降り始める。


「レオン」


「止めないと」


「どうやって」


「分からない!」


 地下から。


 私たちは。


 地上へ戻った。


 庭。


 空。


 無数の。


 記憶。


「触らないで!」


 私は。


 周囲へ叫ぶ。


 でも。


 遅い。


 一つの光が。


 侍女の肩へ触れた。


 彼女が。


 動きを止める。


「……お母さん?」


 涙。


 突然。


「え?」


 侍女自身も。


 訳が分からない。


「私」


 彼女が。


 空を見る。


「知らない人の」


 泣く。


「子どもを産んだ記憶が」


 他人の記憶。


 流れ込んだ。


「全員、屋内へ!」


 レオンが叫ぶ。


「窓を閉めろ!」


 でも。


 光は。


 王宮だけではない。


 城壁を越える。


 王都。


 何万人。


 その上へ。


 記憶が降る。


「殿下」


「分かってる」


「止められません」


「でも」


 王都の鐘。


 鳴る。


 一つ。


 二つ。


 非常鐘。


 そして。


 遠く。


 街から。


 悲鳴。


 笑い声。


 泣き声。


 混乱。


「これが」


 私は。


 空を見る。


「ユリウス殿下の言っていた」


『瓶に入れておくから、奪える』


 もし。


 全部解放すれば。


 制度は壊れる。


 でも。


 同時に。


 何万人もの秘密が。


 誰かの心へ。


 流れ込む。


「兄上!」


 声。


 振り返る。


 ユリウス。


 走ってくる。


「何をした!」


 レオンが。


 胸倉を掴む。


「俺じゃない!」


「嘘をつくな!」


「本当に違う!」


「お前は今日」


「壊すとは言った!」


「なら」


「今じゃない!」


 ユリウスが。


 レオンの手を払う。


「こんな方法じゃない!」


「では誰だ!」


「知らない!」


「地下に男が」


「どんな」


「黒服。手首に」


 私は。


 紋章を説明する。


 切れた鎖。


 ユリウスの顔色が。


 変わった。


「知っているのですか」


 私が聞く。


「……」


「殿下」


「記憶解放同盟」


「何です、それは」


 ユリウスが。


 空を見る。


「制度で家族を壊された人間たち」


「あなたは」


 レオン。


「そいつらと接触してた?」


「してる」


「ユリウス!」


「だから情報があった!」


「なぜ言わなかった!」


「王家に言えば捕まえるだろ!」


「当然だ!」


「制度を作った側が!」


 二人。


 睨み合う。


「やめてください!」


 私は。


 声を上げた。


 驚くほど。


 二人とも止まった。


「今は」


 息を整える。


「誰が悪いかではありません」


 空。


 記憶。


 降り続ける。


「王都を止めなければ」


「どうやって」


 ユリウス。


「地下の封印を直します」


「壊された区画が多い」


 レオン。


「なら」


 私は言う。


「まず」


 王都を見る。


「国民に何が起きているのか知らせます」


「記憶制度を?」


 レオンが。


 私を見る。


 ここで。


 隠せば。


 また。


 同じ。


 嘘。


 記憶を奪い。


 秘密を隠す。


 その繰り返し。


「はい」


 私は答えた。


「公開します」


「エレナ」


「もう」


 空を指す。


「隠せません」


     ◇


 その夜。


 王都は。


 他人の記憶で満ちた。


 亡くなった子どもの笑顔。


 不倫。


 犯罪。


 初恋。


 戦場。


 出産。


 虐待。


 秘密。


 幸福。


 後悔。


 知らない人生が。


 知らない人間へ。


 降る。


 王宮前広場。


 人々が。


 集まり始める。


「記憶を返せ!」


「何をした!」


「王家が奪ったのか!」


 怒号。


 衛兵。


 王門。


 閉鎖。


 国王陛下は。


 緊急評議会。


 皇太后。


 姿を見せない。


「兄上」


 ユリウスが。


 言った。


「もう戻れない」


 レオンは。


 広場を見る。


「分かってる」


「王家の秘密」


「うん」


「全部出るかもしれない」


「うん」


「それでも」


 ユリウス。


「王になる?」


 レオンは。


 答えなかった。


 私は。


 隣で。


 彼の横顔を見る。


 今日の朝。


 彼は言った。


 王位を捨てる。


 私を選ぶ。


 そのとき。


 私は拒んだ。


 そして今。


 王国そのものが。


 壊れ始めている。


「レオン」


「うん」


「今」


 私は言う。


「王位を捨てたいですか」


 彼が。


 私を見る。


「……分からない」


「はい」


「でも」


「何です」


「逃げたくはない」


 私は。


 少し。


 笑った。


「それで十分です」


「そう?」


「今は」


 眼下。


 民衆。


 空。


 降る記憶。


「私も」


 彼の隣へ。


 一歩。


 近づく。


「逃げません」


 レオンの手。


 私の手。


 触れる。


 今度は。


 彼が。


 握った。


 強く。


 私も。


 握り返した。


 王国を捨てて。


 私を選んでほしいとは思わない。


 でも。


 王国のために。


 私を忘れてほしいとも思わない。


 その二つしかないというなら。


 そんな選択肢を作った。


 この国の仕組みそのものを。


 変えればいい。


 そして。


 その夜。


 王都に降った。


 何万人もの他人の記憶の中に。


 百二十年前。


 一人の王妃が残した。


 最初の記憶も。


 混じっていた。


 リディア・エルディア。


 記憶献納制度を。


 最初に受け入れた王妃。


 彼女が。


 本当に残そうとしたものが。


 ようやく。


 王都へ。


 解き放たれようとしていた。


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