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結婚すると、あなたは私を忘れる――記憶を納める王国の契約令嬢  作者: swingout777


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6/12

第6章 忘れられた地下宮殿

 母が残した鍵は、王宮地下の地図には存在しない扉を開けた。


     ◇


「第三扉?」


 王宮へ戻る馬車の中で、レオンは真鍮の鍵を何度も眺めていた。


「母の手紙には、そう書かれていました」


「第一と第二もあるってことだよね」


「普通に考えれば」


「地下の第三扉なんて聞いたことがない」


「殿下が知らない場所だからこそ、母が隠したのでしょう」


「それはそうだけど」


 レオンは窓の外へ目を向けた。


 すでに日は沈みかけている。


 王宮へ戻れば、夕食の時間だった。


 本来なら私も侯爵邸へ戻り、明日の予定を確認しているころだ。


 でも。


 そんなことをしている場合ではない。


「ひとつ確認していい?」


「何です」


「今夜行くの?」


「もちろんです」


「だと思った」


「何か問題が?」


「夜の王宮地下へ、王太子とその婚約者が二人だけで入り込む」


「二人だけとは限りません」


「衛兵を連れていく?」


「嫌です」


「やっぱり二人じゃないか」


「殿下は怖いのですか」


「そう言われると絶対行くしかなくなるんだけど」


「では問題ありませんね」


「君、わざと言った?」


「何のことでしょう」


 レオンがため息をついた。


 でも。


 彼も行かないとは言わなかった。


     ◇


 王宮に着いてから。


 私たちはまず、地下施設の図面を調べた。


 王宮建築局。


 現存する最古の図面は九十年前。


 百二十年前の大改修以前のものは、火災で失われたという。


「都合が良すぎるな」


 レオンが言った。


「火災そのものは記録にあります」


「でも地下だけ?」


「正確には西棟資料庫です」


「地下設計図がそこにしかなかった?」


「そういうことになっています」


 私は現行図面を広げた。


 王宮地下。


 食料庫。


 酒蔵。


 非常避難路。


 宝物庫。


 そして。


 記憶献納の儀式を行うための《記憶管理室》。


「記憶宮は?」


「図面にはありません」


「制度が百年以上続いているのに?」


「献納した記憶がどこへ保管されるのか、私は知りません」


「私も知らない」


 王太子ですら。


 記憶制度の中心を知らない。


 改めて。


 異様だと思った。


「第三扉」


 私は図面を指でたどる。


「母は四歳の私が地下へ迷い込んだと書いていました」


「当時、君はどこにいた?」


「王宮東棟の茶会です」


「なら東側の地下かな」


「四歳児が何時間も歩いたとは考えにくいです」


 東棟。


 階段。


 地下通路。


 その周辺。


「ここ」


 レオンが指す。


「旧厨房へ降りる使用人階段」


「今は?」


「封鎖されてる」


「なぜです」


「新厨房ができたから。二十年くらい前」


 私が四歳だったころには。


 まだ使われていた。


「そこから探しましょう」


     ◇


 午後九時。


 王宮東棟。


 使用人の往来が減る時間を待った。


「王太子が夜中に厨房跡へ入っていくのを見られたら、何と言い訳します?」


 私が尋ねる。


「夜食」


「婚約者同伴で?」


「君が作ってくれる」


「料理できません」


「知ってる」


「なぜ知っているのです」


「昔、君が卵を焼いて鍋を駄目にしたから」


「あれは九歳です」


「覚えてる」


 胸の奥が。


 一瞬だけ。


 痛くなった。


 彼は。


 そういうことを覚えている。


 二十七日後。


 私は。


 忘れるかもしれない。


 レオンも気づいたのだろう。


 黙った。


「行きましょう」


 私から言った。


「うん」


 旧厨房への階段。


 錆びた鉄扉。


 王太子の鍵束で開いた。


 中は暗い。


「燭台」


「持ってる」


 レオンが火を灯す。


 石造りの階段。


 湿った空気。


 一段。


 一段。


 降りるたびに。


 王宮の音が遠くなる。


「覚えていますか」


「何を?」


「私がここへ来たこと」


「四歳のころ?」


「はい」


「一度、一緒に迷子になったことはある」


 私は振り返る。


「いつです」


「君が七歳。私は十歳」


「王宮庭園でしょう」


「そう」


「地下ではありません」


「残念」


 階段を下りきる。


 そこには。


 細長い通路があった。


 図面通りなら。


 右が旧貯蔵庫。


 左が旧水路。


 私は壁を見る。


「扉」


「一つ目」


 木製。


 普通の倉庫。


 鍵は掛かっていない。


 中は空。


 さらに進む。


 二つ目。


 鉄製。


「第二扉?」


「偶然かもしれません」


 開ける。


 中には古い酒樽。


「第三は」


 通路の先。


 壁。


 行き止まり。


「ないね」


 レオンが言った。


 私は母の鍵を握る。


「もう一度」


「何を?」


「壁を」


 燭台を近づける。


 石の継ぎ目。


 左。


 右。


 そして。


「ここ」


 一本。


 縦に不自然な線。


「扉?」


 レオンが壁を叩く。


 鈍い音。


 さらに。


 中央付近。


 小さな窪み。


 埃を取る。


 鍵穴。


 私は真鍮の鍵を取り出した。


「合うかな」


「母が十八年前に残したものです」


「緊張する?」


「していません」


「つまりしてるね」


「殿下」


「ごめん」


 鍵を差す。


 ぴたりと入った。


 回す。


 一度。


 重い。


 二度。


 内部で。


 何かが動く。


 石壁が。


 音もなく。


 手前へ少し開いた。


「……本当にあった」


 レオンが呟く。


 扉の向こう。


 闇。


 そして。


 遠くに。


 金色の光。


 私は。


 母の日記の一文を思い出した。


『金色の扉と眠っている王様』


「エレナ」


「はい」


「帰るなら今だよ」


「殿下は帰りたいのですか」


「いや」


「私もです」


 扉を開けた。


     ◇


 地下に。


 宮殿があった。


 それ以外に。


 表現できなかった。


 石の通路を抜けた先。


 天井は高い。


 二階建ての屋敷が入るほど。


 壁は白い石。


 柱には金の装飾。


 中央に。


 大きな階段。


 左右には回廊。


 そして。


 無数の灯り。


「地下……だよね」


「そのはずです」


「これを誰が造った」


「分かりません」


 王宮の真下に。


 もう一つ。


 王宮がある。


 忘れられた地下宮殿。


「音がする」


 レオンが言う。


 耳を澄ます。


 かすかな。


 水音。


 そして。


 何か。


 低い振動。


「魔力装置?」


「おそらく」


 階段を進む。


 左右の壁に。


 銀色の文字。


《記憶は、人を人たらしめる》


《ゆえに、奪うことを目的としてはならない》


 私は足を止めた。


「何です」


「制度の理念?」


「でも」


 私たちが知っている記憶献納制度とは。


 違う。


 奪うな。


 なのに。


 母から。


 私を奪った。


「先へ」


 奥。


 金色の扉。


 母の日記にあったもの。


「第三扉の先に、また扉」


 レオンが言う。


「嫌な予感がします」


「私も」


 金色の扉には鍵穴がない。


 中央。


 掌を置くための。


 円形の窪み。


「王族の魔力認証かもしれない」


 レオンが手を置いた。


 一瞬。


 金色の光が走る。


 扉が開く。


「便利ですね」


「今日は王太子で良かったと思った」


 中へ入る。


 そして。


 二人とも。


 言葉を失った。


     ◇


 ガラス瓶。


 数千。


 いや。


 数万。


 棚。


 床から天井まで。


 透明な瓶が。


 並んでいる。


 中には。


 光。


 青。


 金。


 緑。


 赤。


 淡く揺れる。


 まるで。


 夜空を瓶へ閉じ込めたようだった。


「これ」


 レオンが。


 小さな声で言う。


「記憶?」


「おそらく」


 一つの瓶を見る。


 札。


《王国暦四百十二年》


《献納者 マルタ・ヘイン》


《献納内容 長男の死亡に関する記憶》


 次。


《献納者 ローレンス・ヴァル》


《献納内容 王室会議》


 次。


 次。


「貴族だけじゃない」


 レオンが言った。


 平民。


 兵士。


 侍女。


 神官。


 職人。


 身分に関係ない。


「皇太后の話」


「王家の秘密に触れた人間」


「こんなに?」


「全員が秘密とは限りません」


 婚姻献納も。


 ここにある。


「エレナ」


「はい」


「これ」


 彼が。


 一つの瓶を指した。


《アメリア・アルヴェイン》


 息が止まった。


 母。


 透明な瓶。


 中には。


 淡い青白い光。


 札。


《献納内容》


《長女エレナ・アルヴェイン誕生より五歳まで》


 文字。


 文字だけなのに。


 胸が痛い。


「母の」


 私は。


 瓶へ触れようとした。


「待って」


 レオンが止める。


「危ないかもしれない」


「でも」


「戻せるかどうかも分からない」


 手を止める。


 もし割れたら。


 母の記憶は。


 完全に消える。


「見る方法があるはずです」


 棚の横。


 台。


 円形の水晶。


 説明札。


《閲覧装置》


「閲覧」


 私は読む。


《本人、または王室許可を得た者のみ使用可能》


 レオンを見る。


「見る?」


 すぐには答えられなかった。


 日記で。


 母の心は知った。


 それで十分ではないか。


 なのに。


 欲しかった。


 母の目から。


 私を見てみたかった。


「お願いします」


 レオンが水晶へ手を置く。


 光。


 装置が動く。


《対象記憶を設置してください》


 瓶を。


 慎重に。


 台へ置く。


「準備は?」


「はい」


 本当は。


 していなかった。


 光が。


 広がった。


     ◇


 世界が。


 変わる。


 私は。


 知らない部屋にいた。


 違う。


 知っている。


 侯爵邸。


 昔の。


 寝室。


 ベッド。


 そこに。


 若い母がいる。


 二十四歳。


 今の私と。


 ほとんど変わらない年齢。


 腕に。


 赤ん坊。


 私。


『エレナ』


 母が呼ぶ。


 私の名前を。


『目を開けて』


 赤ん坊は寝ている。


『せっかくあなたの父親が来たのに』


『寝ている方が静かでいい』


 父の声。


 若い。


 母が笑う。


『あなた、さっきまで起きないか心配していたでしょう』


『泣き声を聞いて十分安心した』


『私はもう少し聞いていたいわ』


『夜になったら後悔するぞ』


 笑い。


 光。


 記憶が変わる。


 幼い私が。


 庭を走っている。


『お母様!』


『走ると転ぶわよ』


『転びません!』


 次の瞬間。


 転ぶ。


 母が笑う。


『ほら』


『転んでません』


『地面に寝ているように見えるけれど』


『休んでるんです』


『そう』


 母が。


 私を抱き上げる。


『では、休憩は終わり』


 私は。


 見ていた。


 自分では覚えていない。


 母に抱かれた。


 記憶。


 温度。


 匂い。


 声。


「お母様」


 口にした。


 でも。


 記憶の中の母には。


 届かない。


 次。


 四歳。


 王宮。


 私は。


 母の手を離れ。


 走っている。


 廊下。


 使用人階段。


 地下。


 追いかけていたのは。


 猫。


 白い猫。


「私」


 記憶の中の私は。


 笑っている。


 猫を追う。


 そして。


 石壁。


 第三扉。


 開いている。


 中へ。


「待って」


 今の私は叫ぶ。


 でも。


 幼い私は。


 進む。


 地下宮殿。


 金色の扉。


 開いている。


 さらに。


 奥。


 今いる記憶庫ではない。


 右側の回廊。


 そこに。


 部屋。


 大きな窓。


 地下なのに。


 魔法の光で。


 昼のように明るい。


 ベッド。


 男がいる。


 眠っている。


 老いた男。


 胸。


 呼吸している。


 幼い私は近づく。


『おじいちゃん?』


 その男が。


 目を開いた。


『誰だ』


 私は。


 幼い私と同じ視界で。


 その顔を見る。


 知っている。


 王宮の肖像画。


 国王。


 当時の。


 レオンの祖父。


 アルベルト二世。


『お前は誰だ』


『エレナです』


『どこの娘だ』


『アルヴェインです』


 男の表情が変わる。


『アルヴェイン』


 起き上がろうとする。


 鎖。


 音。


 私は。


 息を止めた。


 国王の腕。


 ベッドへ。


 銀の鎖で繋がれている。


『ここへ来てはいけない』


 男が言う。


『帰れ』


 幼い私は。


 動かない。


『王様ですか?』


 男が。


 笑う。


 乾いた。


 怖い笑い。


『違う』


 そして。


『私はもう死んだことになっている』


 世界が。


 止まった。


 記憶の光が。


 消えた。


     ◇


 私は。


 現実へ戻った。


 息が荒い。


「エレナ!」


 レオンが私の肩を支える。


「大丈夫?」


 答えられない。


 目の前。


 瓶。


 母の記憶。


「今の」


 レオンも見ていた。


 顔が青い。


「祖父だ」


「はい」


「間違いない」


「でも」


 声が震える。


「前国王陛下は」


「私が五歳のときに死んだ」


「公式には」


「病死」


「でも」


 母の記憶。


 私が四歳。


 つまり。


 死亡発表の約一年前。


 前国王は。


 地下宮殿にいた。


 鎖に繋がれて。


 そして言った。


『私はもう死んだことになっている』


「どういうこと」


 レオンが呟く。


「公式死亡より前に?」


「死んだことにされていた」


「祖父は」


 彼が。


 部屋の奥を見る。


「ここに閉じ込められていた?」


 そのとき。


 音がした。


 杖。


 石床を叩く音。


 一度。


 二度。


「その通りよ」


 声。


 私たちは振り返った。


 入り口。


 白銀の髪。


 皇太后アデライド。


「祖母上」


 レオンの声が。


 低くなる。


「なぜここに」


「あなたたちを追わせました」


「誰に」


「そんなことは重要ではありません」


 皇太后は。


 私たち。


 そして。


 母の記憶瓶を見る。


「アメリアは」


 静かに。


「最後まで、娘にたどり着かせたのね」


「ご存じだったのですか」


 私は言った。


「母が鍵を」


「いいえ」


「では」


「彼女が何かを隠したことは」


 皇太后が答える。


「知っていました」


 怒りが。


 湧いた。


「母から」


 私は。


 瓶を握る。


「私の記憶を奪ったのは、あなたですか」


「最終的に許可したのは私です」


「なぜ」


「あなたを守るため」


「その言葉を」


 自分でも驚くほど。


 強い声が出た。


「便利に使わないでください」


 皇太后は表情を変えない。


「私は守られてなどいません」


「生きているでしょう」


「生きていれば、それで守ったことになるのですか」


「エレナ」


「母は」


 声が震える。


「私を愛していたことを忘れました」


「知っています」


「私は十年以上、母に愛されていないと思って生きた」


「それも」


「知っていた?」


 皇太后は。


 一瞬だけ。


 目を伏せた。


「ええ」


 胸が。


 焼けるように痛んだ。


「それでも?」


「それでもです」


「なぜ!」


 声が響く。


 無数の記憶瓶が。


 かすかに震えた。


「何が」


 私は言う。


「そこまでして守る必要があったのです!」


 皇太后の視線が。


 レオンへ向く。


「彼でしょう」


「え?」


「アルベルト二世」


 前国王。


 レオンの祖父。


「あの人が」


 皇太后は。


 淡々と。


 でも。


 ほんの少し。


 遠いものを見る目で。


「この王国を滅ぼしかけたからです」


     ◇


 アルベルト二世。


 公式史では。


 穏健な王。


 在位二十五年。


 隣国との停戦。


 農地改革。


 病により退位同然となり。


 その後死亡。


 国民から。


 今も。


 敬愛される王。


「嘘よ」


 皇太后が言った。


「ほとんど全部」


 地下宮殿の一室。


 私たちは。


 記憶庫に立ったまま話していた。


「祖父が?」


 レオンが尋ねる。


「暴君だったと?」


「最初からではありません」


 皇太后は。


 ガラス瓶の光を見る。


「若いころは聡明だった」


「では」


「王位が人を変えたのか。もともと持っていたものが出ただけなのか」


 彼女は少し間を置いた。


「今でも分かりません」


 前国王。


 アルベルト二世は。


 在位後半。


 北方諸国への侵攻を計画した。


 理由。


 領土。


 資源。


 そして。


 王家の正統性。


「北部にアーレン家があることを」


 皇太后が言う。


「あの人も知っていました」


「旧王家の直系」


 私が言う。


「そう」


「なら、なぜ侵攻と」


「国内の不満を外へ向けるため」


 レオンの顔がこわばる。


「戦争を起こすつもりだった?」


「起こした」


「でも歴史書には」


「小規模な国境紛争として処理した」


 死者。


 三千人以上。


 それでも。


 国境紛争。


「祖父は」


 レオンが言う。


「それ以上を?」


「全面戦争を」


 皇太后。


「反対する大臣を投獄し」


「……」


「軍部へ直接命令を出し」


「……」


「最後には」


 彼女は。


 レオンを見る。


「アーレン家を皆殺しにしようとした」


 空気が凍る。


「旧王家の血筋を断つため?」


「そうです」


「それで」


 私は尋ねる。


「皇太后陛下は何を?」


 彼女が。


 答える。


「夫を王座から降ろしました」


 静かすぎて。


 一瞬。


 意味が入ってこなかった。


「退位?」


「いいえ」


「では」


「死んだことにした」


 母の記憶。


『私はもう死んだことになっている』


「皇太后陛下が」


「ええ」


「前国王を」


「殺したのではありません」


 皇太后は言った。


「殺せなかった」


 初めて。


 その声に。


 感情が見えた。


「愛していたから」


 私は何も言えなかった。


「だから」


 彼女は続ける。


「病死を発表し、地下へ移した」


「でも」


 レオン。


「実際の死亡は一年後」


「違うわ」


 皇太后。


「何?」


「あの人は」


 沈黙。


 そして。


「ここで十年生きました」


 私とレオンが。


 同時に。


 彼女を見る。


「十年?」


「公式には」


 皇太后。


「死亡したあとも」


 前国王は。


 地下宮殿で。


 十年間。


 生きていた。


「なぜ」


 レオンが。


 掠れた声で言う。


「なぜ殺さなかった」


「言ったでしょう」


 皇太后。


「愛していたから」


「では、なぜ閉じ込めた」


「王だったから」


「……」


「愛する夫を殺せなかった」


 皇太后の手。


 杖を握る指が。


 わずかに震えている。


「でも」


 その声は。


 震えなかった。


「王として自由にすることもできなかった」


「だから」


 私は呟く。


「記憶を」


 皇太后の目が私へ向く。


「何です」


「あなたも」


 私は。


 黒革の目録を思い出す。


 歴代王妃。


 夫に関する全記憶。


「前国王陛下についての記憶を」


 皇太后は。


 答えなかった。


 それが。


 答えだった。


「祖母上」


 レオン。


「あなたは祖父を忘れたのですか」


「今、その話は必要ありません」


「必要です」


「レオン」


「祖父を愛していたと言った」


 皇太后。


 沈黙。


「なのに」


 レオンが。


 一歩近づく。


「記憶を失った?」


「……」


「では、どうして愛していたと分かる」


 皇太后は。


 長い間。


 答えなかった。


 やがて。


「記録に残っています」


 と言った。


「記録?」


「私の日記」


 その声。


 あまりにも。


 平坦だった。


「私は」


 皇太后。


「夫を愛していたそうです」


 過去形。


 他人の話。


 母の日記と。


 同じ。


『私はあの子を愛していたと書いてある』


『でも愛するという感覚が分からない』


 胸の奥が。


 冷えた。


 この人も。


 同じなのだ。


 母と。


 歴代王妃たちと。


 愛した記憶を。


 奪われた。


「なら」


 私は尋ねる。


「あなたこそ」


 声を抑える。


「分かるはずです」


「何が」


「この制度が何を奪うか」


「分かっています」


「なら、なぜ続けるのです」


 皇太后は。


 答えない。


「暴君だった前国王を止めるため」


 私は言う。


「そのとき必要だったのかもしれません」


「……」


「でも、前国王は死んだ」


「……」


「戦争も終わった」


「……」


「百二十年前の王位簒奪も」


「……」


「もう今の人間が起こしたことではない」


 私は。


 一歩前へ。


「なぜ今も」


 母の瓶を指す。


「こんなことを続けるのです」


 皇太后。


 私を見る。


「なぜ母は私を忘れなければならなかった」


「……」


「なぜ私は」


 今度は。


 レオンを見る。


「この人を忘れなければならないのです」


 皇太后の顔が。


 ほんの少し。


 苦しそうに見えた。


 でも。


 一瞬だった。


「それを」


 彼女は言う。


「今のあなたに説明しても、理解できません」


「理解するかどうかは私が決めます」


「いいえ」


 皇太后は。


 レオンを見る。


「王になる者にしか」


 その言葉。


「分からないことがあります」


 レオンの表情が固まる。


「祖母上」


「あなたが」


 皇太后。


「本当に王になれば」


 杖の音。


 一度。


「そのとき」


 もう一度。


「記憶を捨てる必要がある理由が分かります」


 彼女は。


 背を向ける。


「待ってください」


 私が呼ぶ。


 止まらない。


「まだ話は」


「今夜は終わりです」


「皇太后陛下」


「エレナ」


 彼女は。


 振り返らずに言った。


「母親の記憶を見たのでしょう」


 私は。


 瓶を見る。


「はい」


「なら」


 少しだけ。


 声が柔らかくなった。


「今夜だけは、それ以上知ろうとせず」


 沈黙。


「娘でいなさい」


 そして。


 去っていった。


     ◇


 私は。


 しばらく。


 動けなかった。


「エレナ」


「はい」


「今日は戻ろう」


「でも」


「私も聞きたい」


 レオンの声は。


 疲れていた。


「祖父のことも」


「……」


「祖母のことも」


「……」


「この制度のことも」


「……」


「でも」


 彼は。


 母の瓶を見る。


「今日は」


 私へ向き直る。


「君がお母さんを取り戻した日でもある」


 胸が痛む。


 でも。


 昨日までとは。


 違う痛みだった。


「取り戻せたのでしょうか」


「少なくとも」


 レオンが言う。


「愛されていたことは」


「はい」


「もう誰にも消せない」


 私は。


 母の記憶瓶へ。


 そっと。


 指を触れた。


 冷たい。


 でも。


 その中には。


 温かな母の手がある。


『エレナ』


 声を。


 思い出せる。


 私自身の記憶ではない。


 でも。


 知った。


 母は。


 私を愛していた。


「戻りましょう」


 私は言った。


「うん」


 瓶を。


 棚へ戻す。


 そのとき。


 一つだけ。


 気づいた。


 母の瓶の隣。


 空いている場所。


 札だけがある。


《アデライド・エルディア》


 献納内容。


《夫アルベルト二世に関する全記憶》


 そして。


 その下。


《返還――未実施》


 私は。


 文字を見つめた。


「返還?」


 レオンが。


 私の隣で呟いた。


 返還。


 その言葉は。


 今まで一度も。


 聞いたことがなかった。


「殿下」


「うん」


「記憶は」


 私は。


 空の棚を見る。


「戻せるのかもしれません」


 母が失ったものも。


 歴代王妃が失ったものも。


 そして。


 私がこれから奪われようとしているものも。


 記憶献納制度には。


 私たちが知らされていない。


 もう一つの仕組みがある。


 その夜。


 初めて私は。


 忘れない方法ではなく。


 忘れたものを取り戻す方法が、この地下宮殿のどこかにあるのではないかと思った。


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