第5章 母は、私を産んだことを忘れていた
母は、私を産んだことを忘れていた。
皇太后からその言葉を聞いたあと。
私は、自分がどうやって王宮を出たのか覚えていない。
◇
「お嬢様」
気づくと、侯爵邸の自室にいた。
窓の外は暗い。
いつの間に夜になったのだろう。
暖炉には火が入っている。
目の前にはセシリア。
そして。
少し離れた椅子に、レオンが座っていた。
「……殿下」
「うん」
「なぜここに」
「君を送ってきた」
「私は」
記憶をたどる。
皇太后。
庭園。
母。
私の記憶を献納した。
そこまでは鮮明だ。
そのあとは。
何もない。
「気を失ったわけではないよ」
レオンが言った。
「歩いていたし、馬車にも自分で乗った」
「なら」
「ずっと黙っていた」
セシリアが私の肩へ毛布を掛け直す。
「温かいお茶をお持ちします」
「大丈夫です」
「大丈夫ではございません」
いつもの返答を封じられた。
私は黙った。
セシリアが部屋を出る。
レオンと二人になった。
「殿下」
「レオン」
「今は」
「今だから」
彼は静かに言った。
「王太子じゃなくていい」
私は返事をしなかった。
火が薪を割る音だけが響く。
「母は」
ようやく言葉が出た。
「私を忘れていたのですね」
「皇太后の話が事実なら」
「事実でしょう」
「まだ確認していない」
「皇太后が、あの場で嘘をつく理由がありますか」
「君を調査から遠ざけるためなら」
「もっと別の嘘があります」
レオンは黙る。
そうだ。
もっと簡単な方法がいくらでもある。
母を利用する必要などない。
「私は」
自分の膝を見る。
「ずっと、母に嫌われていると思っていました」
言葉にした瞬間。
昔の光景が次々に浮かんだ。
六歳。
熱を出した私の枕元で、母は侍女に薬の指示を出した。
でも、額には触れなかった。
七歳。
刺繍を褒めてもらいたくて見せた。
母は「よくできています」と言った。
それだけだった。
八歳。
弟の誕生日。
母は弟の好きな菓子を覚えていた。
私の好きな菓子は知らなかった。
九歳。
初めて舞踏会用のドレスを選んだ日。
『どちらでも似合うでしょう』
母はそう言った。
私がどちらを好きなのか尋ねなかった。
「母は」
声が少し震える。
「誰に対しても冷静な人でした」
「うん」
「だから、そういう性格なのだと思っていました」
「……うん」
「でも弟には違った」
私は笑った。
うまく笑えなかった。
「弟には、ちゃんと母親だったのです」
具合が悪ければ手を握った。
転べば抱き起こした。
誕生日には本人が欲しがるものを知っていた。
私は。
その違いを見ないふりをしてきた。
「だから」
私は言った。
「私に何か原因があるのだと思いました」
「エレナ」
「可愛くない子どもだったのかもしれない」
「違う」
「手のかからない娘でいれば、いつか母も」
「違う」
レオンの声が強くなった。
私は顔を上げる。
「君が悪かったわけじゃない」
「分かっています」
「分かってない」
「今は」
「今じゃなくて、ずっとだ」
レオンは椅子から立った。
「六歳の君も。七歳の君も。八歳の君も」
私の前へ来る。
「母親に愛されるために、何かを証明する必要なんかなかった」
「……」
「君が完璧な侯爵令嬢になったから愛されるんじゃない」
「やめてください」
「やめない」
「殿下」
「レオン」
私は唇を噛んだ。
「そんなことを言われたら」
「うん」
「今までの私は」
何だったのか。
続きが出なかった。
母に褒めてもらいたかった。
認めてもらいたかった。
だから。
失敗しなかった。
泣かなかった。
我儘を言わなかった。
侯爵令嬢として恥ずかしくない娘になった。
王太子妃に選ばれたときも。
もし母が生きていれば。
今度こそ。
誇りに思ってくれたのではないかと。
どこかで考えていた。
でも。
母が私を愛さなかったわけではないとしたら。
最初から。
私を愛した記憶そのものを。
誰かに奪われていたとしたら。
「……ひどい」
声が漏れた。
レオンが何も言わない。
「ひどいです」
「うん」
「母から」
息を吸う。
「私を奪った」
涙が一滴。
膝へ落ちた。
その瞬間。
私は驚いた。
自分が泣いている。
「私からも」
もう一滴。
「母を奪った」
止まらなかった。
「私はずっと」
声が崩れる。
「愛されていないと思って」
「うん」
「母が死んだときも」
十年前。
母の葬儀。
私は十二歳だった。
棺の前で泣けなかった。
周囲には。
『気丈な令嬢だ』
と言われた。
本当は違った。
悲しいのかどうかさえ分からなかった。
母を失った悲しみより。
もう二度と愛してもらえる機会が来ない。
そのことの方が。
苦しかった。
「私」
両手で顔を覆った。
「母の葬儀で泣かなかったんです」
「エレナ」
「最後まで」
声が震える。
「嫌われたままだと思っていたから」
次の瞬間。
肩を抱かれた。
レオンだった。
強くはない。
逃げようと思えば逃げられる程度。
でも。
私は逃げなかった。
額を彼の胸へ押しつけた。
濃紺の上着が涙で濡れる。
「ごめんなさい」
「何が」
「服が」
「そこ?」
「王太子の正装です」
「どうでもいい」
「でも」
「もっと汚していい」
「……馬鹿ですか」
「少し」
私は泣きながら。
本当に少しだけ笑った。
◇
翌朝。
私は母の記録を調べることにした。
レオンには。
「今日は休もう」
と三度言われた。
三度断った。
「どうしても?」
「はい」
「止めても行く?」
「はい」
「じゃあ私も行く」
「政務は」
「午前だけ片づける」
「午後からで構いません」
「本当に?」
「はい」
「一人で先に調べない?」
「努力します」
「信用できない」
失礼な。
とは言えなかった。
実際。
私は午前十時には侯爵家の地下書庫にいた。
◇
アルヴェイン侯爵家には、代々の家族記録が保存されている。
婚姻。
出生。
死亡。
手紙。
領地経営。
そして。
個人の日誌。
「奥様のものですか」
セシリアが埃を払いながら尋ねた。
「はい」
母。
アメリア・アルヴェイン。
旧姓、ウェストン。
父とは政略結婚。
私を二十四歳で産んだ。
五年後に弟を産んだ。
そして十年前。
三十四歳で病死。
「母の日記はありますか」
「存じませんでした」
「私もです」
書庫管理人から渡された箱は七つ。
母の私物。
ほとんど整理されていない。
私は最初の箱を開けた。
書簡。
領地帳簿。
社交予定表。
刺繍図案。
「お嬢様」
「何です」
「こちら」
セシリアが薄い青色の冊子を持っていた。
日記。
表紙に母の筆跡。
《アメリア》
私は受け取る。
指が少し震えた。
「開けますか」
「そのために探しました」
でも。
すぐには開けなかった。
もし。
本当に母が私を嫌っていたら。
皇太后の話とは別に。
記憶を失う以前から。
私を愛していなかったら。
「お嬢様」
「大丈夫です」
セシリアは何も言わなかった。
私は表紙を開いた。
◇
最初の日付。
私が生まれる四か月前。
『今日は腹の子がよく動く』
『侍医は元気な証だと言う』
『夫は男児なら剣を教えると言っている。女児なら何を教えるのかと尋ねると困っていた』
私は頁をめくる。
『名前を考えている』
『男ならアラン。女ならエレナ』
指が止まる。
私の名前。
『エレナという名が好きだ』
『風のように、誰かの決めた場所に留まらず生きてほしい』
息が詰まった。
風のように。
私は。
誰かの決めた場所に留まらず。
生きてほしいと。
母は願った。
「……初めて知りました」
セシリアが黙っている。
頁をめくる。
出産の日。
『娘が生まれた』
『小さい』
『赤い』
『猿のような顔をしている』
「母」
思わず口にした。
セシリアが笑いを堪える。
「続きがございます」
『でも世界で一番かわいい』
目の奥が熱くなる。
『泣き声を聞いた瞬間、これほど怖いものがこの世に存在するとは知らなかった』
『この子に何かあったら、私はきっと正気ではいられない』
次。
生後三か月。
『エレナが笑った』
『夫は自分に笑ったと言い張る。私に決まっている』
七か月。
『初めて熱を出した』
『朝まで眠れなかった』
一歳。
『歩いた』
『三歩目で転んだ』
『泣く前に私の顔を見たので、私が泣きそうになった』
二歳。
『最近「なぜ」が多い』
『空はなぜ青い。鳥はなぜ飛ぶ。父はなぜ髭がある』
『最後の質問だけ私にも分からない』
私は。
笑った。
涙がこぼれた。
「お嬢様」
「平気です」
今度は。
本当に少し平気だった。
母が。
いた。
日記の中に。
私を見て。
笑って。
困って。
眠れなくなって。
私を愛していた母が。
確かにいた。
三歳。
『エレナは何でも一人でやりたがる』
『靴の紐を結ぶのに二十分かかる』
『手伝おうとすると怒る』
『誰に似たのか』
セシリアが私を見る。
「何です」
「いえ」
「何か言いたい顔です」
「現在も変わらないな、と」
「読み進めます」
四歳。
『王宮へ連れていった』
私は止まった。
「王宮」
そこから。
文章の雰囲気が変わった。
『エレナを王宮へ連れて行くべきではなかった』
次の行。
『あの子は何かを見た』
胸が鳴る。
「何を」
私は声に出した。
続き。
『本人はよく分かっていない』
『地下へ迷い込んだらしい』
『戻ってきたとき、金色の扉と眠っている王様の話をした』
金色の扉。
眠っている王。
「お嬢様」
「はい」
「これは」
「王家の秘密です」
母が。
記憶献納を求められた理由。
私。
私は四歳で。
王宮の何かを見た。
さらに読む。
『皇太后付きの侍従が来た』
『エレナが見たものについて聞かれた』
『知らないと答えた』
『嘘だと分かっていたと思う』
次の日。
『今夜、夫と話した』
『エレナの記憶を消すと言われた』
指が震えた。
「私の」
記憶。
『拒否した』
『四歳の子どもの記憶に手を入れさせるものか』
『代わりに私が差し出すと申し出た』
私は息を止めた。
「代わりに」
母は。
命じられたのではない。
少なくとも。
最初は。
私の記憶を守るために。
自分から。
次。
『条件を出された』
『エレナが見たものを私が知っている限り、その関連記憶すべてを献納する必要がある』
『つまり、あの子が生まれた日から今まで』
『理屈は分かる』
『エレナの言葉、行動、記憶。どこに秘密が紐づいているか判断できないからだ』
涙が落ちた。
『怖い』
『エレナを忘れることが』
『死ぬより怖い』
私は。
頁を押さえた。
紙が揺れている。
自分の手が震えているからだ。
『明日、記憶を献納する』
『その前に書いておく』
『私はエレナを愛している』
『この文章を読んでいる私が、もしあの子を知らない顔で見ていたとしても』
『私はあの子を愛していた』
『誰よりも』
視界が滲む。
「お嬢様」
セシリアが私の肩に触れた。
「母は」
言葉が出ない。
「母は」
もう一度。
「私を愛していた」
「はい」
「ちゃんと」
「はい」
「私が」
息が詰まる。
「何かを頑張らなくても」
「はい」
「いい子でなくても」
「はい」
「侯爵令嬢らしくなくても」
「はい」
セシリアも泣いていた。
「奥様は、お嬢様を愛していらっしゃいました」
私は日記を胸へ抱いた。
十年以上。
欲しかった答え。
でも。
もう。
母本人から聞くことはできない。
◇
日記は。
そこで終わっていなかった。
記憶献納後。
筆跡は同じ。
でも文章が違った。
『夫から、エレナという子が私の娘だと説明された』
『理解できない』
『写真を見る』
『私に似ている気がする』
『でも何も感じない』
私は読み続けた。
苦しかった。
でも。
目を逸らせなかった。
『エレナが私を「お母様」と呼ぶ』
『反射的に返事をする』
『この子は私を知っている』
『私はこの子を知らない』
『怖がらせてはいけない』
『だから母親らしく振る舞おうと思う』
次。
『エレナが転んだ』
『泣かなかった』
『私の顔を見た』
『何かを待っていたように思う』
『何をすればよかったのか分からなかった』
胸が痛い。
覚えている。
五歳。
庭で転んだ。
膝から血が出た。
母を見た。
母は侍女を呼んだ。
私は。
その日から。
人前で泣かなくなった。
『今日、エレナが刺繍を持ってきた』
『褒めた』
『でも、あの子は少し寂しそうだった』
『私は何を間違えたのだろう』
『日記には、私はあの子を愛していたと書いてある』
『でも愛するという感覚が分からない』
私は唇を噛んだ。
母も。
苦しんでいた。
私だけではなかった。
『エレナが努力するほど、私は怖くなる』
『あの子は私に褒めてもらいたいのかもしれない』
『なのに、どんな言葉を言えばいいか分からない』
『愛していた過去の私なら、分かったのだろうか』
次。
六歳。
『息子が生まれた』
『抱いた瞬間、涙が出た』
『そして恐ろしくなった』
『私はこの子を愛せる』
『なぜエレナには何も感じない』
『理由を知っているだけに、余計に残酷だ』
母は。
弟を愛した。
だから。
余計に。
私を愛せない自分に傷ついていた。
『エレナが弟を抱いてくれた』
『上手だった』
『私は「いい姉ね」と言った』
『あの子は笑った』
『でも』
『私が言いたかったのはそんなことではない気がした』
涙で文字が読めなくなる。
私は日記を閉じた。
もう。
十分だった。
母を責めていた自分を。
責める必要もない。
母も私も。
何も知らされず。
制度に人生を切られた。
「許せません」
セシリアが言った。
珍しく。
怒っていた。
「皇太后を?」
「制度をです」
私は日記を見る。
「私もです」
初めて。
迷わず言えた。
「これは」
王国のためだから仕方ない。
では済ませられない。
一人の女性から。
娘を愛した五年間を奪った。
一人の子どもから。
母を奪った。
そして。
今。
同じことを私にも繰り返そうとしている。
「お嬢様」
「何です」
「まだ箱がございます」
私は顔を上げる。
七箱。
日記は一箱目。
「探しましょう」
今度は。
迷わなかった。
◇
午後二時。
レオンが到着したとき。
私は六箱目を調べていた。
「エレナ」
階段を下りてきた彼が、足を止める。
私の顔を見る。
「泣いた?」
「はい」
隠さなかった。
「かなり」
「うん」
「目が腫れていますか」
「少し」
「ひどいですか」
「可愛いよ」
「聞き方を間違えました」
レオンが笑う。
そして。
机に置かれた母の日記に気づいた。
「見つかった?」
「はい」
「読んでも?」
私は少し考えた。
「一緒に」
記憶献納前の部分。
王宮。
金色の扉。
眠っている王。
私はそこだけを示した。
レオンが読む。
表情が変わる。
「君が見た?」
「四歳のとき」
「覚えてる?」
「いいえ」
「記憶を消された?」
「母の日記では、私の記憶献納は拒否されています」
「なら自然に忘れた?」
「四歳ですから」
幼少期の記憶は曖昧。
でも。
完全に何もないのは。
少し不自然でもある。
「金色の扉」
レオンが呟く。
「王宮地下にそんな場所あったかな」
「殿下はご存じありませんか」
「少なくとも私が入れる範囲にはない」
「眠っている王」
「当時の王は?」
「殿下の祖父です」
五十年前ではない。
私が四歳だったのは十八年前。
当時。
レオンの祖父。
前国王は。
「亡くなったのは」
「君が五歳のとき」
「では生きていて当然です」
「でも」
レオンは日記を見る。
「なぜ地下で眠っている?」
何か。
違和感。
でも。
手掛かりが足りない。
「続きを探しましょう」
◇
七箱目。
母の死後、一度も開けられていない木箱だった。
鍵が掛かっている。
「鍵は?」
セシリアが首を振る。
「見たことがございません」
レオン。
「壊す?」
「殿下はすぐ壊そうとしますね」
「前回成功した」
「北宮の扉とは違います」
「じゃあどうする」
木箱を見る。
古い錠。
裏側。
蝶番。
「工具を」
「結局壊すんじゃないか」
「丁寧に開けます」
「それを壊すって言うんだよ」
十分後。
箱は開いた。
「ほら」
「殿下が言うと腹が立ちます」
中には。
ほとんど何もなかった。
白い布。
古い子ども用の靴。
一房の髪。
小さな銀の腕輪。
「これは」
私は腕輪を手に取る。
内側に。
《E》
私の頭文字。
「赤ちゃんのときのもの?」
「おそらく」
母は。
記憶を失ったあとも。
これを捨てなかった。
いや。
捨てられなかったのかもしれない。
理由が分からなくても。
そして。
箱の底。
「何かあります」
布を持ち上げる。
一枚の封筒。
宛名。
《エレナへ》
母の字。
私は動けなくなった。
「開ける?」
レオンが尋ねる。
「はい」
封蝋を割る。
中には。
手紙ではなかった。
小さな鍵。
真鍮製。
黒ずんでいる。
そして。
細長い札。
そこには。
母の字で。
《忘却される前に、エレナへ》
と書かれていた。
裏返す。
さらに。
一文。
《あなたがこれを読む日が来たなら、王宮地下の第三扉を探しなさい》
私はレオンを見る。
「第三扉」
「金色の扉?」
「分かりません」
その下。
最後に。
《そこであなたが見たものを、私は忘れることを選んだ》
選んだ。
母が。
娘を守るために。
「そして」
さらに小さな文字。
《もし王家が、あなたにも同じことを求めたなら》
私は息を止める。
《今度は、忘れないで》
鍵を握る。
冷たい。
小さい。
なのに。
ひどく重く感じた。
十八年前。
母は。
自分が私を忘れる前に。
いつか私が。
同じ選択を迫られる日を。
想像していた。
そして。
娘へ。
答えを残した。
忘れるな。
王国のためでも。
王家のためでも。
愛する人を。
自分の人生を。
簡単に差し出すな。
私は鍵を握りしめた。
「レオン」
「うん」
「王宮へ戻ります」
「今から?」
「はい」
「第三扉を探す?」
「はい」
私は母の日記を見る。
十八年前。
四歳の私が見たもの。
母が。
娘との五年間を失ってまで守った秘密。
「母が何を隠したのか」
私は立ち上がった。
「今度こそ、私が見つけます」
そして。
もう一度。
母と同じ選択を求められたとき。
今度は。
忘れない。
そのために。
私は真鍮の鍵を握り。
十八年前に閉じられた扉を。
開けに行くことにした。




