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結婚すると、あなたは私を忘れる――記憶を納める王国の契約令嬢  作者: swingout777


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5/12

第5章 母は、私を産んだことを忘れていた

 母は、私を産んだことを忘れていた。


 皇太后からその言葉を聞いたあと。


 私は、自分がどうやって王宮を出たのか覚えていない。


     ◇


「お嬢様」


 気づくと、侯爵邸の自室にいた。


 窓の外は暗い。


 いつの間に夜になったのだろう。


 暖炉には火が入っている。


 目の前にはセシリア。


 そして。


 少し離れた椅子に、レオンが座っていた。


「……殿下」


「うん」


「なぜここに」


「君を送ってきた」


「私は」


 記憶をたどる。


 皇太后。


 庭園。


 母。


 私の記憶を献納した。


 そこまでは鮮明だ。


 そのあとは。


 何もない。


「気を失ったわけではないよ」


 レオンが言った。


「歩いていたし、馬車にも自分で乗った」


「なら」


「ずっと黙っていた」


 セシリアが私の肩へ毛布を掛け直す。


「温かいお茶をお持ちします」


「大丈夫です」


「大丈夫ではございません」


 いつもの返答を封じられた。


 私は黙った。


 セシリアが部屋を出る。


 レオンと二人になった。


「殿下」


「レオン」


「今は」


「今だから」


 彼は静かに言った。


「王太子じゃなくていい」


 私は返事をしなかった。


 火が薪を割る音だけが響く。


「母は」


 ようやく言葉が出た。


「私を忘れていたのですね」


「皇太后の話が事実なら」


「事実でしょう」


「まだ確認していない」


「皇太后が、あの場で嘘をつく理由がありますか」


「君を調査から遠ざけるためなら」


「もっと別の嘘があります」


 レオンは黙る。


 そうだ。


 もっと簡単な方法がいくらでもある。


 母を利用する必要などない。


「私は」


 自分の膝を見る。


「ずっと、母に嫌われていると思っていました」


 言葉にした瞬間。


 昔の光景が次々に浮かんだ。


 六歳。


 熱を出した私の枕元で、母は侍女に薬の指示を出した。


 でも、額には触れなかった。


 七歳。


 刺繍を褒めてもらいたくて見せた。


 母は「よくできています」と言った。


 それだけだった。


 八歳。


 弟の誕生日。


 母は弟の好きな菓子を覚えていた。


 私の好きな菓子は知らなかった。


 九歳。


 初めて舞踏会用のドレスを選んだ日。


『どちらでも似合うでしょう』


 母はそう言った。


 私がどちらを好きなのか尋ねなかった。


「母は」


 声が少し震える。


「誰に対しても冷静な人でした」


「うん」


「だから、そういう性格なのだと思っていました」


「……うん」


「でも弟には違った」


 私は笑った。


 うまく笑えなかった。


「弟には、ちゃんと母親だったのです」


 具合が悪ければ手を握った。


 転べば抱き起こした。


 誕生日には本人が欲しがるものを知っていた。


 私は。


 その違いを見ないふりをしてきた。


「だから」


 私は言った。


「私に何か原因があるのだと思いました」


「エレナ」


「可愛くない子どもだったのかもしれない」


「違う」


「手のかからない娘でいれば、いつか母も」


「違う」


 レオンの声が強くなった。


 私は顔を上げる。


「君が悪かったわけじゃない」


「分かっています」


「分かってない」


「今は」


「今じゃなくて、ずっとだ」


 レオンは椅子から立った。


「六歳の君も。七歳の君も。八歳の君も」


 私の前へ来る。


「母親に愛されるために、何かを証明する必要なんかなかった」


「……」


「君が完璧な侯爵令嬢になったから愛されるんじゃない」


「やめてください」


「やめない」


「殿下」


「レオン」


 私は唇を噛んだ。


「そんなことを言われたら」


「うん」


「今までの私は」


 何だったのか。


 続きが出なかった。


 母に褒めてもらいたかった。


 認めてもらいたかった。


 だから。


 失敗しなかった。


 泣かなかった。


 我儘を言わなかった。


 侯爵令嬢として恥ずかしくない娘になった。


 王太子妃に選ばれたときも。


 もし母が生きていれば。


 今度こそ。


 誇りに思ってくれたのではないかと。


 どこかで考えていた。


 でも。


 母が私を愛さなかったわけではないとしたら。


 最初から。


 私を愛した記憶そのものを。


 誰かに奪われていたとしたら。


「……ひどい」


 声が漏れた。


 レオンが何も言わない。


「ひどいです」


「うん」


「母から」


 息を吸う。


「私を奪った」


 涙が一滴。


 膝へ落ちた。


 その瞬間。


 私は驚いた。


 自分が泣いている。


「私からも」


 もう一滴。


「母を奪った」


 止まらなかった。


「私はずっと」


 声が崩れる。


「愛されていないと思って」


「うん」


「母が死んだときも」


 十年前。


 母の葬儀。


 私は十二歳だった。


 棺の前で泣けなかった。


 周囲には。


『気丈な令嬢だ』


 と言われた。


 本当は違った。


 悲しいのかどうかさえ分からなかった。


 母を失った悲しみより。


 もう二度と愛してもらえる機会が来ない。


 そのことの方が。


 苦しかった。


「私」


 両手で顔を覆った。


「母の葬儀で泣かなかったんです」


「エレナ」


「最後まで」


 声が震える。


「嫌われたままだと思っていたから」


 次の瞬間。


 肩を抱かれた。


 レオンだった。


 強くはない。


 逃げようと思えば逃げられる程度。


 でも。


 私は逃げなかった。


 額を彼の胸へ押しつけた。


 濃紺の上着が涙で濡れる。


「ごめんなさい」


「何が」


「服が」


「そこ?」


「王太子の正装です」


「どうでもいい」


「でも」


「もっと汚していい」


「……馬鹿ですか」


「少し」


 私は泣きながら。


 本当に少しだけ笑った。


     ◇


 翌朝。


 私は母の記録を調べることにした。


 レオンには。


「今日は休もう」


 と三度言われた。


 三度断った。


「どうしても?」


「はい」


「止めても行く?」


「はい」


「じゃあ私も行く」


「政務は」


「午前だけ片づける」


「午後からで構いません」


「本当に?」


「はい」


「一人で先に調べない?」


「努力します」


「信用できない」


 失礼な。


 とは言えなかった。


 実際。


 私は午前十時には侯爵家の地下書庫にいた。


     ◇


 アルヴェイン侯爵家には、代々の家族記録が保存されている。


 婚姻。


 出生。


 死亡。


 手紙。


 領地経営。


 そして。


 個人の日誌。


「奥様のものですか」


 セシリアが埃を払いながら尋ねた。


「はい」


 母。


 アメリア・アルヴェイン。


 旧姓、ウェストン。


 父とは政略結婚。


 私を二十四歳で産んだ。


 五年後に弟を産んだ。


 そして十年前。


 三十四歳で病死。


「母の日記はありますか」


「存じませんでした」


「私もです」


 書庫管理人から渡された箱は七つ。


 母の私物。


 ほとんど整理されていない。


 私は最初の箱を開けた。


 書簡。


 領地帳簿。


 社交予定表。


 刺繍図案。


「お嬢様」


「何です」


「こちら」


 セシリアが薄い青色の冊子を持っていた。


 日記。


 表紙に母の筆跡。


《アメリア》


 私は受け取る。


 指が少し震えた。


「開けますか」


「そのために探しました」


 でも。


 すぐには開けなかった。


 もし。


 本当に母が私を嫌っていたら。


 皇太后の話とは別に。


 記憶を失う以前から。


 私を愛していなかったら。


「お嬢様」


「大丈夫です」


 セシリアは何も言わなかった。


 私は表紙を開いた。


     ◇


 最初の日付。


 私が生まれる四か月前。


『今日は腹の子がよく動く』


『侍医は元気な証だと言う』


『夫は男児なら剣を教えると言っている。女児なら何を教えるのかと尋ねると困っていた』


 私は頁をめくる。


『名前を考えている』


『男ならアラン。女ならエレナ』


 指が止まる。


 私の名前。


『エレナという名が好きだ』


『風のように、誰かの決めた場所に留まらず生きてほしい』


 息が詰まった。


 風のように。


 私は。


 誰かの決めた場所に留まらず。


 生きてほしいと。


 母は願った。


「……初めて知りました」


 セシリアが黙っている。


 頁をめくる。


 出産の日。


『娘が生まれた』


『小さい』


『赤い』


『猿のような顔をしている』


「母」


 思わず口にした。


 セシリアが笑いを堪える。


「続きがございます」


『でも世界で一番かわいい』


 目の奥が熱くなる。


『泣き声を聞いた瞬間、これほど怖いものがこの世に存在するとは知らなかった』


『この子に何かあったら、私はきっと正気ではいられない』


 次。


 生後三か月。


『エレナが笑った』


『夫は自分に笑ったと言い張る。私に決まっている』


 七か月。


『初めて熱を出した』


『朝まで眠れなかった』


 一歳。


『歩いた』


『三歩目で転んだ』


『泣く前に私の顔を見たので、私が泣きそうになった』


 二歳。


『最近「なぜ」が多い』


『空はなぜ青い。鳥はなぜ飛ぶ。父はなぜ髭がある』


『最後の質問だけ私にも分からない』


 私は。


 笑った。


 涙がこぼれた。


「お嬢様」


「平気です」


 今度は。


 本当に少し平気だった。


 母が。


 いた。


 日記の中に。


 私を見て。


 笑って。


 困って。


 眠れなくなって。


 私を愛していた母が。


 確かにいた。


 三歳。


『エレナは何でも一人でやりたがる』


『靴の紐を結ぶのに二十分かかる』


『手伝おうとすると怒る』


『誰に似たのか』


 セシリアが私を見る。


「何です」


「いえ」


「何か言いたい顔です」


「現在も変わらないな、と」


「読み進めます」


 四歳。


『王宮へ連れていった』


 私は止まった。


「王宮」


 そこから。


 文章の雰囲気が変わった。


『エレナを王宮へ連れて行くべきではなかった』


 次の行。


『あの子は何かを見た』


 胸が鳴る。


「何を」


 私は声に出した。


 続き。


『本人はよく分かっていない』


『地下へ迷い込んだらしい』


『戻ってきたとき、金色の扉と眠っている王様の話をした』


 金色の扉。


 眠っている王。


「お嬢様」


「はい」


「これは」


「王家の秘密です」


 母が。


 記憶献納を求められた理由。


 私。


 私は四歳で。


 王宮の何かを見た。


 さらに読む。


『皇太后付きの侍従が来た』


『エレナが見たものについて聞かれた』


『知らないと答えた』


『嘘だと分かっていたと思う』


 次の日。


『今夜、夫と話した』


『エレナの記憶を消すと言われた』


 指が震えた。


「私の」


 記憶。


『拒否した』


『四歳の子どもの記憶に手を入れさせるものか』


『代わりに私が差し出すと申し出た』


 私は息を止めた。


「代わりに」


 母は。


 命じられたのではない。


 少なくとも。


 最初は。


 私の記憶を守るために。


 自分から。


 次。


『条件を出された』


『エレナが見たものを私が知っている限り、その関連記憶すべてを献納する必要がある』


『つまり、あの子が生まれた日から今まで』


『理屈は分かる』


『エレナの言葉、行動、記憶。どこに秘密が紐づいているか判断できないからだ』


 涙が落ちた。


『怖い』


『エレナを忘れることが』


『死ぬより怖い』


 私は。


 頁を押さえた。


 紙が揺れている。


 自分の手が震えているからだ。


『明日、記憶を献納する』


『その前に書いておく』


『私はエレナを愛している』


『この文章を読んでいる私が、もしあの子を知らない顔で見ていたとしても』


『私はあの子を愛していた』


『誰よりも』


 視界が滲む。


「お嬢様」


 セシリアが私の肩に触れた。


「母は」


 言葉が出ない。


「母は」


 もう一度。


「私を愛していた」


「はい」


「ちゃんと」


「はい」


「私が」


 息が詰まる。


「何かを頑張らなくても」


「はい」


「いい子でなくても」


「はい」


「侯爵令嬢らしくなくても」


「はい」


 セシリアも泣いていた。


「奥様は、お嬢様を愛していらっしゃいました」


 私は日記を胸へ抱いた。


 十年以上。


 欲しかった答え。


 でも。


 もう。


 母本人から聞くことはできない。


     ◇


 日記は。


 そこで終わっていなかった。


 記憶献納後。


 筆跡は同じ。


 でも文章が違った。


『夫から、エレナという子が私の娘だと説明された』


『理解できない』


『写真を見る』


『私に似ている気がする』


『でも何も感じない』


 私は読み続けた。


 苦しかった。


 でも。


 目を逸らせなかった。


『エレナが私を「お母様」と呼ぶ』


『反射的に返事をする』


『この子は私を知っている』


『私はこの子を知らない』


『怖がらせてはいけない』


『だから母親らしく振る舞おうと思う』


 次。


『エレナが転んだ』


『泣かなかった』


『私の顔を見た』


『何かを待っていたように思う』


『何をすればよかったのか分からなかった』


 胸が痛い。


 覚えている。


 五歳。


 庭で転んだ。


 膝から血が出た。


 母を見た。


 母は侍女を呼んだ。


 私は。


 その日から。


 人前で泣かなくなった。


『今日、エレナが刺繍を持ってきた』


『褒めた』


『でも、あの子は少し寂しそうだった』


『私は何を間違えたのだろう』


『日記には、私はあの子を愛していたと書いてある』


『でも愛するという感覚が分からない』


 私は唇を噛んだ。


 母も。


 苦しんでいた。


 私だけではなかった。


『エレナが努力するほど、私は怖くなる』


『あの子は私に褒めてもらいたいのかもしれない』


『なのに、どんな言葉を言えばいいか分からない』


『愛していた過去の私なら、分かったのだろうか』


 次。


 六歳。


『息子が生まれた』


『抱いた瞬間、涙が出た』


『そして恐ろしくなった』


『私はこの子を愛せる』


『なぜエレナには何も感じない』


『理由を知っているだけに、余計に残酷だ』


 母は。


 弟を愛した。


 だから。


 余計に。


 私を愛せない自分に傷ついていた。


『エレナが弟を抱いてくれた』


『上手だった』


『私は「いい姉ね」と言った』


『あの子は笑った』


『でも』


『私が言いたかったのはそんなことではない気がした』


 涙で文字が読めなくなる。


 私は日記を閉じた。


 もう。


 十分だった。


 母を責めていた自分を。


 責める必要もない。


 母も私も。


 何も知らされず。


 制度に人生を切られた。


「許せません」


 セシリアが言った。


 珍しく。


 怒っていた。


「皇太后を?」


「制度をです」


 私は日記を見る。


「私もです」


 初めて。


 迷わず言えた。


「これは」


 王国のためだから仕方ない。


 では済ませられない。


 一人の女性から。


 娘を愛した五年間を奪った。


 一人の子どもから。


 母を奪った。


 そして。


 今。


 同じことを私にも繰り返そうとしている。


「お嬢様」


「何です」


「まだ箱がございます」


 私は顔を上げる。


 七箱。


 日記は一箱目。


「探しましょう」


 今度は。


 迷わなかった。


     ◇


 午後二時。


 レオンが到着したとき。


 私は六箱目を調べていた。


「エレナ」


 階段を下りてきた彼が、足を止める。


 私の顔を見る。


「泣いた?」


「はい」


 隠さなかった。


「かなり」


「うん」


「目が腫れていますか」


「少し」


「ひどいですか」


「可愛いよ」


「聞き方を間違えました」


 レオンが笑う。


 そして。


 机に置かれた母の日記に気づいた。


「見つかった?」


「はい」


「読んでも?」


 私は少し考えた。


「一緒に」


 記憶献納前の部分。


 王宮。


 金色の扉。


 眠っている王。


 私はそこだけを示した。


 レオンが読む。


 表情が変わる。


「君が見た?」


「四歳のとき」


「覚えてる?」


「いいえ」


「記憶を消された?」


「母の日記では、私の記憶献納は拒否されています」


「なら自然に忘れた?」


「四歳ですから」


 幼少期の記憶は曖昧。


 でも。


 完全に何もないのは。


 少し不自然でもある。


「金色の扉」


 レオンが呟く。


「王宮地下にそんな場所あったかな」


「殿下はご存じありませんか」


「少なくとも私が入れる範囲にはない」


「眠っている王」


「当時の王は?」


「殿下の祖父です」


 五十年前ではない。


 私が四歳だったのは十八年前。


 当時。


 レオンの祖父。


 前国王は。


「亡くなったのは」


「君が五歳のとき」


「では生きていて当然です」


「でも」


 レオンは日記を見る。


「なぜ地下で眠っている?」


 何か。


 違和感。


 でも。


 手掛かりが足りない。


「続きを探しましょう」


     ◇


 七箱目。


 母の死後、一度も開けられていない木箱だった。


 鍵が掛かっている。


「鍵は?」


 セシリアが首を振る。


「見たことがございません」


 レオン。


「壊す?」


「殿下はすぐ壊そうとしますね」


「前回成功した」


「北宮の扉とは違います」


「じゃあどうする」


 木箱を見る。


 古い錠。


 裏側。


 蝶番。


「工具を」


「結局壊すんじゃないか」


「丁寧に開けます」


「それを壊すって言うんだよ」


 十分後。


 箱は開いた。


「ほら」


「殿下が言うと腹が立ちます」


 中には。


 ほとんど何もなかった。


 白い布。


 古い子ども用の靴。


 一房の髪。


 小さな銀の腕輪。


「これは」


 私は腕輪を手に取る。


 内側に。


《E》


 私の頭文字。


「赤ちゃんのときのもの?」


「おそらく」


 母は。


 記憶を失ったあとも。


 これを捨てなかった。


 いや。


 捨てられなかったのかもしれない。


 理由が分からなくても。


 そして。


 箱の底。


「何かあります」


 布を持ち上げる。


 一枚の封筒。


 宛名。


《エレナへ》


 母の字。


 私は動けなくなった。


「開ける?」


 レオンが尋ねる。


「はい」


 封蝋を割る。


 中には。


 手紙ではなかった。


 小さな鍵。


 真鍮製。


 黒ずんでいる。


 そして。


 細長い札。


 そこには。


 母の字で。


《忘却される前に、エレナへ》


 と書かれていた。


 裏返す。


 さらに。


 一文。


《あなたがこれを読む日が来たなら、王宮地下の第三扉を探しなさい》


 私はレオンを見る。


「第三扉」


「金色の扉?」


「分かりません」


 その下。


 最後に。


《そこであなたが見たものを、私は忘れることを選んだ》


 選んだ。


 母が。


 娘を守るために。


「そして」


 さらに小さな文字。


《もし王家が、あなたにも同じことを求めたなら》


 私は息を止める。


《今度は、忘れないで》


 鍵を握る。


 冷たい。


 小さい。


 なのに。


 ひどく重く感じた。


 十八年前。


 母は。


 自分が私を忘れる前に。


 いつか私が。


 同じ選択を迫られる日を。


 想像していた。


 そして。


 娘へ。


 答えを残した。


 忘れるな。


 王国のためでも。


 王家のためでも。


 愛する人を。


 自分の人生を。


 簡単に差し出すな。


 私は鍵を握りしめた。


「レオン」


「うん」


「王宮へ戻ります」


「今から?」


「はい」


「第三扉を探す?」


「はい」


 私は母の日記を見る。


 十八年前。


 四歳の私が見たもの。


 母が。


 娘との五年間を失ってまで守った秘密。


「母が何を隠したのか」


 私は立ち上がった。


「今度こそ、私が見つけます」


 そして。


 もう一度。


 母と同じ選択を求められたとき。


 今度は。


 忘れない。


 そのために。


 私は真鍮の鍵を握り。


 十八年前に閉じられた扉を。


 開けに行くことにした。


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