第4章 王族には、王になる資格がない
王族には、王になる資格がない。
その言葉を実際に誰かが口にしたわけではない。
けれど、昨夜見つけた記録は、そう言っているようにしか見えなかった。
王位継承争いで死んだはずの第一王子アルフレッド。
彼は生き延びた可能性がある。
名前を変え。
妻を迎え。
子を持ち。
その血筋は、現在のアーレン伯爵家へ続いているかもしれない。
もしそれが事実なら。
今、王座にいるエルディア家は。
本来の王統ではない。
◇
「寝ましたか」
翌朝。
王太子執務室へ入るなり、私は尋ねた。
「おはようより先にそれ?」
レオンは机の向こうで書類を読んでいた。
目の下に薄く影がある。
「寝ていませんね」
「三時間くらいは」
「それを寝たとは言いません」
「君に言われたくない」
「私は四時間です」
「一時間勝った顔をしないで」
私は彼の机へ書類を置いた。
「アーレン伯爵家の系譜です」
レオンの表情から、軽さが消えた。
「手に入った?」
「王国貴族院の記録を写しました」
「早いね」
「婚約者が王位を失うかもしれないので」
「言い方」
「事実です」
私は向かいに座る。
昨夜。
私たちはあの洗礼記録を見つけたあと、一旦調査を打ち切った。
その場で結論を出すには、大きすぎる。
だから一晩置いた。
けれど。
一晩置いても、大きさは変わらなかった。
「現在のアーレン伯爵は」
私は紙を指した。
「オルフェン・アーレン。五十三歳」
「知ってる」
「その長男、ヴァルド・アーレン。二十七歳」
「北部騎士団長」
「はい」
レオンの二歳上。
剣術大会で何度も優勝。
北部では英雄扱い。
そして。
王都では。
厄介な存在として知られている。
「彼らは三年前から王室課税に反対しています」
「去年は北部議会の独立権まで要求した」
「王家と政治的に対立している」
「それが」
レオンは紙を見る。
「本来の王家かもしれない?」
「まだ可能性です」
「君はその言葉好きだな」
「断定を急ぐ方が危険です」
「分かってる」
彼は深く息を吐いた。
「でももし、アーレン家の祖先がアルフレッド第一王子なら」
「現王家の正統性は揺らぎます」
「揺らぐ、どころじゃない」
レオンは椅子に背を預けた。
「百二十年間、王位を奪った家が統治していたことになる」
「そう見なす者は出るでしょう」
「北部なら利用する」
「確実に」
「内戦になるかもしれない」
その言葉で、部屋の空気が重くなった。
私は黙った。
否定できない。
北部は王国最大の穀倉地帯。
兵力も多い。
アーレン家は代々、その中心にいる。
そこへ。
《本来の王家》
という旗印が加われば。
不満は反乱へ変わる。
「だから」
レオンが言った。
「王家は隠したのかな」
「何をです」
「アルフレッドが生きていたこと」
「その可能性は高いです」
「そして三人の王妃を消した」
「彼女たちが、その血筋に関する秘密を知っていたから」
「なら記憶献納制度は」
レオンが私を見る。
「最初から、王家を守るためのものだった?」
私は答えなかった。
まだ、そこまでは分からない。
でも。
すべてが一つの線へ集まり始めている。
リディア。
カトリーナ。
エステル。
三人の王妃。
旧王家。
隠された子ども。
記憶献納。
そして。
現在の王位。
「確かめましょう」
私は言った。
「どうやって?」
「アルフレッド第一王子の死亡記録を」
「見たよ。戦死扱い」
「戦死と書かれているだけです」
「違いが?」
「遺体確認者」
レオンが眉を上げる。
「誰が死を確認したのか」
「はい」
「なるほど」
王族の死亡には、通常、侍医か軍医による確認が必要。
戦場でも例外ではない。
死亡証明。
遺体引渡。
埋葬記録。
どれかが残る。
「なければ?」
「死亡そのものが作られた可能性があります」
「行こう」
レオンが立ち上がる。
「どこへ?」
「軍務院」
「朝会は?」
「今日は病欠」
「元気そうですが」
「心が病んでる」
「王太子が軽々しく使わないでください」
「君、本当に容赦ないね」
◇
軍務院の地下資料庫。
ここには王国成立以来の戦争記録が保管されている。
百二十年前。
王位継承戦争。
正史では。
前王の長男アルフレッドが反乱軍との戦闘で死亡。
弟エドガーが残党を平定。
その功績により即位。
簡潔な話だ。
あまりにも。
「綺麗すぎます」
私は戦争記録を読みながら言った。
「綺麗?」
「兄が死亡。弟が勝利。弟が即位」
「歴史書なら普通だろ」
「人間が絡むと、普通はもっと汚れます」
「君、時々怖いこと言うよね」
「事実です」
私は別の記録を開く。
「アルフレッド殿下が戦死したとされるのは、王国暦三百十一年、五月十二日」
「うん」
「場所は西グラント平原」
「教科書通り」
「戦闘参加者は三千二百人」
死者。
負傷者。
行方不明者。
すべて記録されている。
しかし。
「ありません」
「何が」
「アルフレッド殿下の遺体確認」
レオンが横から覗き込む。
「本当に?」
「はい」
「王族なのに?」
「おかしいです」
戦場で死亡した王族なら、詳細な記録が残る。
誰が見つけたか。
どこを負傷していたか。
遺体をどのように王都へ運んだか。
しかし。
アルフレッドについては。
《戦死》
の二文字だけ。
「埋葬記録は?」
「王都王墓」
「墓はある」
「あります」
「遺体がなくても墓は作れる」
「はい」
私は埋葬台帳を調べた。
棺。
国葬。
参列者。
ある。
でも。
「棺は開けられていません」
「なぜ分かる?」
「記録に《戦傷が激しいため封棺》とあります」
「誰も顔を見ていない?」
「少なくとも公式には」
レオンが黙る。
私はさらに頁を追った。
そして。
一人の名前で止まった。
「ダリウス・ヴェルナー」
「誰?」
「当時の王室侍医」
「アルフレッドを診ていた?」
「死亡証明者として名前があります」
「じゃあ確認したんじゃ」
「署名だけなら」
私は別記録を見る。
「この人物」
「何?」
「国葬の三日後に国外へ出ています」
「偶然?」
「行き先は?」
「西方連邦」
「そのまま?」
「帰国記録なし」
レオンが低く息を吐く。
「金をもらって消えた?」
「可能性はあります」
「また可能性」
「便利な言葉です」
さらに。
ダリウスの家族。
妻。
息子二人。
全員同行。
その資産記録。
「出国直前、王室会計から高額の支払い」
「いくら」
「一般侍医の年収の約二十年分」
「……口止め料にしか見えない」
「見えますね」
私は紙を閉じた。
戦死者。
遺体確認なし。
封棺。
証明した医師は大金を受け取り国外へ。
そして。
一年後。
辺境修道院で《アルフレッド・アーレン》が現れる。
「殿下」
「うん」
「アルフレッド第一王子は」
私は静かに言った。
「死んでいません」
レオンは返事をしなかった。
否定も。
驚きも。
ただ。
目を閉じた。
◇
軍務院を出たあと。
私たちは王宮庭園へ向かった。
室内では話せない。
壁に耳がある。
そんな言葉を本気で意識したのは初めてだった。
「ここなら誰もいない」
レオンが言う。
王宮西庭。
冬薔薇の区画。
季節外れで花はない。
枯れ枝だけ。
人もいない。
「ほぼ確定ですね」
私が言った。
「兄は生きていた」
「はい」
「弟はそれを知っていた」
「恐らく」
「死んだことにして王になった」
「はい」
レオンは空を見る。
「簒奪だ」
私はすぐに答えなかった。
「言って」
「何をです」
「君もそう思ってるだろ」
「制度上は」
「また制度」
「重要です」
「じゃあ制度上どうなる」
「当時の王位継承法では、第一王子が生存している限り、第二王子の即位は認められません」
「つまり」
「不法な即位です」
レオンが笑った。
笑いではない。
息が漏れただけだった。
「曾々々祖父が王位を奪った」
「そうなります」
「私の家は」
彼は枯れ枝を見る。
「王家ですらないのか」
「それは違います」
「何が」
「百二十年間、実際に統治してきました」
「だから?」
「国家の正統性は血だけで決まるものではありません」
「王国法では血で決まる」
「その法律を作ったのも人間です」
「エレナ」
「何です」
「慰めてる?」
「いいえ」
「じゃあ?」
「現実を整理しています」
私は彼を見る。
「アルフレッド第一王子が生きていた」
「うん」
「エドガー三世が不法に即位した」
「うん」
「それは事実として受け止めるべきです」
「……うん」
「でも」
私は一歩近づく。
「百二十年前の罪と、今のあなたが王に相応しいかは別です」
レオンの目が私を見る。
「前にも言ったね」
「何度でも言います」
「でも」
「でも?」
「私は王家の正統性を利用して生きてきた」
「殿下」
「王太子として尊敬された。軍を率いた。命令した。税を集めた。全部、血筋が正しいという前提で」
「だから何です」
「その前提が嘘なら」
「あなたがしたことまで嘘になりますか」
「分からない」
「私は分かります」
思ったより強く言った。
「なぜ」
「見てきたからです」
「何を」
「あなたが何をしてきたか」
十二歳のころ。
レオンは王子だから皆に頭を下げられていた。
でも。
侍従が病気になれば自分の薬師を貸した。
十五歳。
洪水被害。
泥だらけで救援物資を運んだ。
二十歳。
初めて軍を率いた。
負傷兵と同じ天幕で眠った。
「それを」
私は言う。
「百二十年前の誰かが代わりにやったのですか」
「違う」
「なら」
「でも、国民が納得するかは別だ」
「それはそうです」
即答すると。
レオンが少し苦笑した。
「やっぱり慰めないんだ」
「必要ですか」
「少しは」
「では」
私は考える。
「殿下は」
「うん」
「王太子でなくても、かなり面倒な人です」
「それ慰め?」
「私には十分です」
レオンが。
今度こそ少し笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そのとき。
庭園の入口に人影が見えた。
「殿下」
「見えてる」
白銀の髪。
杖。
まっすぐな姿勢。
皇太后アデライド。
◇
「随分、熱心に調べものをしているそうね」
皇太后は挨拶もなく言った。
庭園の中央。
侍女二人を少し離れたところに待たせている。
「誰からお聞きになりました」
レオンが尋ねる。
「王宮で私に隠し事ができると思っているの?」
「努力はしました」
「足りないわ」
皇太后の視線が私へ向く。
「エレナ」
「はい、皇太后陛下」
「あなたも」
「はい」
「王太子妃になる者が、王家の秘密を漁るものではありません」
言葉は穏やか。
でも。
命令だ。
「恐れながら」
私は頭を下げる。
「私が王太子妃になるために必要な調査です」
「必要?」
「はい」
「何を調べているの」
「皇太后陛下ならご存じなのでは」
レオンが小さく息を吸った。
皇太后の目が細くなる。
「随分な口を利くようになったわね」
「失礼いたしました」
「謝る顔ではないわ」
「では、撤回はいたしません」
沈黙。
冬の庭。
風。
枯れ枝が揺れる。
皇太后は私をじっと見た。
怖い。
もちろん。
この人は。
四十年以上、王宮政治の中心にいる。
国王ですら頭が上がらない。
でも。
ここで引けば。
二十八日後。
私はレオンを忘れる。
「《王妃記憶献納目録》を見つけました」
私が言う。
皇太后の表情が。
ほんの少し変わった。
「それから」
続ける。
「歴史から消された三人の王妃」
レオンが私を見る。
でも止めない。
「リディア。カトリーナ。エステル」
皇太后は黙る。
「アルフレッド第一王子が生き延びていた可能性も」
「エレナ」
初めて。
皇太后が私の言葉を遮った。
声に。
わずかな鋭さがあった。
「それ以上はやめなさい」
「なぜです」
「命令よ」
「理由を伺っています」
「理由を知れば」
皇太后は。
私ではなく。
レオンを見た。
「あなたたちは、今までと同じようには生きられなくなる」
「もう同じではありません」
レオンが言う。
「祖母上」
「レオン」
「私の婚約者は、婚姻すれば私を忘れる」
「王太子妃とはそういうものです」
「それを当然だと思えと言うのですか」
「当然ではない」
皇太后の声は冷たい。
「必要なのです」
私は反応した。
「何のために」
「王国のため」
「抽象的です」
「エレナ」
「私は」
握っていた手を開く。
「王国のためなら犠牲を受け入れます」
レオンがこちらを見る。
「でも」
私は皇太后から目を逸らさない。
「理由も知らずに差し出すことはできません」
「あなたは、自分の記憶一つが王国より重いと?」
「いいえ」
「なら」
「比較するために、真実が必要です」
皇太后の目がわずかに揺れた。
「王家が正統ではないことを」
私は言った。
「リディア王妃は知っていた」
「……」
「だから記憶を差し出した」
「……」
「その後、存在を消された」
「……」
「違いますか」
長い沈黙。
そして。
「違わないわ」
レオンの呼吸が止まる。
私も。
答えを予想していても。
実際に認められると重さが違う。
「では」
レオンが言う。
「エドガー三世は」
「正統な王ではなかった」
皇太后は淡々と言った。
「アルフレッド第一王子は生きていました」
「祖母上」
「それ以上は、ここで話すことではありません」
「では場所を変えましょう」
「話さないと言っているのです」
「なぜ」
「今はまだ」
「今?」
レオンが一歩前へ。
「百二十年間、隠しておいて今と言うのですか」
「あなたは感情的になっている」
「当然でしょう!」
レオンが声を荒げた。
珍しい。
皇太后も。
表情を変えない。
「私には王になる資格がないかもしれない!」
庭園に声が響く。
皇太后は静かに答えた。
「だから何です」
レオンが固まる。
「え?」
「あなたは王太子です」
「祖母上」
「王になるよう育てられた」
「血筋が」
「血筋が何だというの」
今度は。
私が驚いた。
この王国で。
もっとも血統を重んじると思っていた人物が。
「国を治めるのは」
皇太后は言う。
「死者ではありません」
「でも」
「百二十年前の男が正統だったからといって、今の王国が明日から消えるわけではない」
彼女はレオンを見る。
「あなたが王に相応しいなら、王になりなさい」
「相応しくなければ?」
「退きなさい」
あまりにも簡単に言った。
「ただし」
皇太后の声が低くなる。
「真実を公表すれば済むと思わないことです」
「内戦」
私が言う。
「そう」
皇太后が初めて私を肯定した。
「北部はこの事実を利用する」
「アーレン家が旧王家の血筋なら」
「可能性ではありません」
私は息を止めた。
「彼らは」
皇太后は言う。
「アルフレッド第一王子の直系です」
確定した。
今度こそ。
レオンは何も言わなかった。
「では」
私が尋ねる。
「王家は知っていたのですね」
「代々、限られた者だけが」
「それを隠すために」
「違うわ」
「何がです」
「記憶献納制度は、ただ王位簒奪を隠すためだけに作られたものではない」
ただ。
という言葉に。
私は引っかかった。
「では、何のためです」
「そこから先を知る必要はありません」
「あります」
「ない」
「私が」
一歩前へ。
「殿下を忘れる理由です」
「そうです」
「なら知る権利があります」
「権利」
皇太后が。
初めて少し笑った。
冷たい笑み。
「王族になろうとする者が、権利を口にするのね」
「義務があるなら、同じだけ知る責任もあります」
「責任?」
「はい」
「あなたは」
皇太后の視線が、私を貫く。
「自分が何を知らされようとしているのか分かっていない」
「だから教えてください」
「知れば戻れない」
「もう戻れません」
「エレナ」
皇太后は。
そこで。
不意に。
声を少し落とした。
「では、一つだけ教えましょう」
私は身構えた。
「記憶献納制度は」
皇太后の杖が。
石畳を一度鳴らす。
「王妃だけのものではない」
「どういう意味です」
「王家の秘密に触れた者」
彼女は言う。
「必要と判断された者には、身分を問わず使われてきた」
胸の奥が冷える。
「誰に」
皇太后は答えない。
「誰に使ったのです」
「あなたは」
皇太后が。
まっすぐ私を見る。
「自分の母親を、愛情の薄い人だったと思っていたわね」
思考が止まった。
「……なぜ」
「エレナ」
「なぜ、その話を」
「あなたの母」
皇太后は言った。
「アメリア・アルヴェインも」
世界から。
音が消えた。
「記憶を献納しています」
「……何を」
自分の声が。
かすかに聞こえた。
「私の母は」
皇太后は。
少しも目を逸らさなかった。
「何を忘れたのですか」
答えは。
私が想像したどんなものより。
残酷だった。
「あなたです」
息が止まった。
「正確には」
皇太后は続ける。
「あなたが生まれた日から」
風が吹く。
枯れた薔薇の枝が揺れる。
「五歳になるまでの」
私は。
動けなかった。
「あなたに関する記憶を」
皇太后は言った。
「すべて献納しました」
母は。
私を愛していなかったのではない。
私を。
忘れていた。
その可能性が。
初めて。
私の前に現れた。




