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結婚すると、あなたは私を忘れる――記憶を納める王国の契約令嬢  作者: swingout777


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2/12

第2章 王妃たちは、夫を愛していなかった

 歴史から消された王妃が三人いる。


 その事実を見つけた夜、私はほとんど眠れなかった。


 正確には、眠らなかった。


 眠れば朝になる。


 朝になれば、レオンとの婚姻まで残り二十九日になる。


 そして二十九日後、何も変えられなければ、私は彼を忘れる。


 ベッド脇の燭台が三本目になったころ、私はとうとう毛布を払いのけた。


「お嬢様」


 隣室から声がした。


「起きているのでしょう」


「寝ています」


「寝ている方は返事をなさいません」


「寝言です」


「ずいぶん理性的な寝言ですね」


 扉が開いた。


 侍女のセシリアが、湯気の立つカップを持って入ってくる。


 栗色の髪を簡単に束ねただけで、まだ侍女服の襟も整っていない。


 私が幼いころから仕えている、数少ない気を許せる相手だった。


「ミルクです」


「頼んでいません」


「存じています」


「眠れないとも言っていません」


「それも存じています」


 彼女は勝手にカップを置く。


「王宮中が昨日のことで大騒ぎです」


「でしょうね」


「侯爵家の使用人もです」


「でしょうね」


「なのに当事者だけが無表情で夜更かしですか」


 私は睨んだ。


 セシリアはひるまない。


「その顔は何です」


「お嬢様がもっと普通に動揺してくだされば、周囲も安心するのに、という顔です」


「普通に動揺とは」


「泣くとか」


「泣いて解決するなら泣きます」


「怒るとか」


「誰にです」


「殿下に八つ当たりするとか」


「それこそ何の解決にもなりません」


「だから困るのです」


 セシリアはため息をついた。


「お嬢様は何でも解決しようとしすぎです」


「問題は解決するためにあるでしょう」


「悲しいことは、全部問題ではありません」


 その言葉に、私は黙った。


 セシリアは時々、余計なことを言う。


 そして大抵、余計なことほど胸に残る。


「……私は悲しんでいるように見えますか」


「はい」


「泣いていないのに」


「泣かない方ほど、分かりやすい時があります」


 私はミルクを口にした。


 温かい。


「お嬢様」


「何です」


「殿下を忘れたくないのですね」


 昨日、レオンにも似たようなことを言われた。


 否定しようと思った。


 けれど、できなかった。


「……はい」


 その一言を口にすると、胸が少し痛んだ。


「私は、殿下を忘れたくありません」


 セシリアは何も言わない。


「これは、恋愛感情だけの問題ではないのです」


「はい」


「幼いころからの記憶が全部なくなる。つまり、私自身の人生の一部まで欠けることになります」


「はい」


「だから調べるだけです」


「はい」


「納得できる理由があるなら、そのとき考えます」


「はい」


「何です、その返事は」


「お嬢様が必死に言い訳しているので、邪魔をしないようにしていました」


 私はカップを置いた。


「もう下がってください」


「朝食まであと二時間です。少しでもお休みください」


「善処します」


「それは寝ない人が使う言葉です」


 セシリアは苦笑し、扉へ向かった。


 出ていく直前、振り返る。


「お嬢様」


「まだ何か?」


「もし記憶をなくしても」


 彼女は少しためらった。


「殿下なら、きっと本当に、もう一度お嬢様を振り向かせますよ」


「……どうしてそう思うのです」


「十三年かけてようやくここまで来た方ですから」


 扉が閉じた。


「どういう意味ですか」


 返事はなかった。


     ◇


 午前九時。


 私は再び王宮図書院にいた。


 昨日の黒革の帳簿は、王太子執務室の金庫へ移してある。


 存在しない王妃三名。


 リディア。


 カトリーナ。


 エステル。


 三人とも王妃として記載され、記憶を献納している。


 しかし公式王統譜には名前がない。


「おはよう」


 振り返る。


 レオンが片手を上げていた。


「遅いです」


「まだ九時だよ」


「私は八時半からいます」


「君を基準にすると、世の大半の人間が怠け者になる」


「王太子殿下には勤勉でいていただきたいです」


「昨日、婚姻調印を勝手に延期したせいで、朝から父上と宰相に絞られていたんだけど」


「それはご苦労様でした」


「もう少し労ってくれてもいい」


「紅茶を用意しましょうか」


「それで十分」


 レオンが向かいに座る。


「何か分かった?」


「まず、存在しない三人を追うのは後回しにします」


「意外だね」


「手掛かりが少なすぎます」


 私は数冊の本を示した。


「先に、公式記録に残っている十一人を調べます」


「私を忘れた王妃たち?」


「あなたではありません」


「分かってる」


「夫です」


「分かってるよ」


 笑わないでほしい。


「彼女たちの婚姻前後の記録を比較します」


「何を見る?」


「変化です」


 私は一冊の日記を開いた。


 王妃マリア。


 百年前の人物。


 婚姻前、当時の王太子アルベルトと十年間婚約している。


「この日記は十五歳から二十四歳まで」


「結婚は?」


「二十一歳です」


 私は婚姻前の頁を指した。


「読んでください」


「私が?」


「はい」


 レオンは本を引き寄せた。


「『アルベルト様が今日も馬術場へ来た。私の馬の歩き方が変だと気づいて、蹄鉄を見てくださった。私自身ですら気づかなかったのに。本当にあの方は何でも見ている』」


 次の頁。


「『また喧嘩をした。あの人は頑固。私も頑固。きっと結婚したら毎日喧嘩する。でも、それでもいいと思う』」


 さらに。


「『婚礼まであと七日。早く妻になりたいと思うのに、今までと何かが変わってしまうのが怖い』」


 レオンの声が止まった。


「ずいぶん……」


「はい」


「愛してるね」


「そう読めます」


「婚姻後は?」


 私は別の箇所を開いた。


「こちらです」


 レオンが読む。


「『本日、陛下は南方大使と会談なさった。私は晩餐に同席した』」


 次。


「『陛下の体調は芳しくない。侍医によれば軽い風邪とのこと』」


 次。


「『陛下という方は非常に勤勉だ。王として尊敬に値する』」


 レオンは顔を上げた。


「陛下という方?」


「はい」


「夫だよね」


「夫です」


「呼び方だけじゃない」


「ええ」


 婚姻前の日記には、怒りも喜びも嫉妬もある。


 そこに確かに、一人の男を愛した女性がいる。


 ところが婚姻後。


 文章は端正だった。


 整っていた。


 そして何もない。


 夫について書かれているのは、国王としての情報だけ。


「別人みたいだ」


 レオンが呟く。


「記憶を失ったのですから、当然とも言えます」


「でも」


 彼は頁をめくる。


「これで夫婦として暮らしたのか」


「三十二年間」


 私は答えた。


「子どもは四人います」


「……すごいな」


「何がです」


「知らない相手と三十二年暮らせることが」


 私は何も言えなかった。


 二十九日後の自分が想像された。


 レオンと同じ食卓につく。


 王太子妃として微笑む。


 政務の報告を聞く。


 夜になれば同じ部屋へ戻る。


 知らない人と。


「次を見ましょう」


 私は日記を閉じた。


 マリアだけなら偶然かもしれない。


 二人目。


 三人目。


 しかし同じだった。


 婚姻前には、夫の名前が頻繁に現れる。


 婚姻後は「殿下」「陛下」「国王」。


 まるで公式記録。


 四人目の王妃の日記には、こんな一文があった。


『夫を愛しているのかと侍女に尋ねられた。分からないと答えた。私はあの方と婚姻したのだから、愛しているのだろうと思う。しかし、その感情がどのようなものだったのか、私には想像できない』


 私はそこで読むのをやめた。


 部屋が静かになる。


「エレナ」


「大丈夫です」


「何も聞いてない」


「言うと思いました」


「なら大丈夫じゃない」


「殿下」


「レオン」


「今は調査中です」


「だから?」


「余計な感情を入れると判断を誤ります」


 レオンはしばらく私を見た。


「君は本当に、その言葉が好きだね」


「何がです」


「感情を入れない」


「必要です」


「人間の記憶を調べているのに?」


 返事ができなかった。


「続けよう」


 彼はそれ以上言わなかった。


     ◇


 午後になるころ、私たちは十一人すべての基礎記録をまとめ終えた。


 そして、別の異常に気づいた。


「これ」


 私は紙を指した。


「どう思います?」


 レオンが数字を追う。


「離宮移住三名」


「はい」


「精神療養二名」


「失踪一名」


「合計六人」


「十一人中六人です」


 結婚後、半数以上の王妃が王宮から消えている。


 公式理由はそれぞれ違う。


 病気。


 心労。


 本人の希望。


 しかし多すぎる。


「このソフィア王妃」


 レオンが記録を読む。


「婚姻十五年目に北の離宮へ移住。以後、王都には戻らず?」


「三十六歳です」


「若いね」


「陛下はその後二十年生きています」


「夫婦別居か」


「しかも公式には『王妃の療養のため』」


「本当に療養?」


「分かりません」


 私は別の書簡を開いた。


「ただし、移住直前に王妃本人が妹へ送った手紙があります」


『あの人と同じ宮殿にいることが苦しい。嫌いなのではない。嫌いになれるほど、私はあの人を知らない』


 レオンが眉を寄せた。


 私も同じだった。


「記憶をなくしただけでは説明できない」


「私もそう思います」


「何かがおかしい」


「ええ」


 十一人の王妃たちは夫を忘れた。


 それだけなら制度の結果。


 けれど、その後の人生には共通して強い空虚さがある。


 知らない男と夫婦として生きる。


 国王だから支える。


 義務だから子を産む。


 それが何十年も続く。


「なぜ、こんな制度が続いているの」


 レオンの声は怒りを含んでいた。


「百年以上」


「何か理由があるのでしょう」


「それで納得できる?」


「理由を知る前に決めることではありません」


「例えば?」


「例えば、この記憶献納がなければ王国が滅びる」


「極端だな」


「仮定です」


「それなら君は私を忘れる?」


 私は言葉を止めた。


「王国一つと、私の記憶なら」


「エレナ」


「比較するまでもありません」


「それを聞きたいんじゃない」


 レオンが立ち上がった。


「君がどうしたいかを聞いてる」


「昨日も申し上げました」


「答えてない」


「忘れたくありません」


 思ったより強い声が出た。


 レオンが黙る。


 私も驚いた。


「……忘れたくありません」


 もう一度言う。


「あなたを忘れたくない」


 今度は声が小さくなった。


「でも、だからといって何も知らずに制度を否定することもできません」


 レオンはゆっくり座り直した。


「うん」


「何です」


「いや」


 少しだけ笑った。


「ちゃんと言ってくれたから」


「そこに喜ぶところがありますか」


「あるよ」


 私は書類へ目を戻した。


 まったく。


 この人は調査に向いていない。


     ◇


 夕方。


 私たちは王宮西棟へ移動した。


 王妃たちの肖像画が並ぶ長廊下。


「日記だけではなく、周辺記録も見ましょう」


 私は絵を見上げた。


「何か分かる?」


「侍女の日誌、宮廷医の記録、衣装台帳。本人が書かなかったものです」


「なるほど」


 壁には歴代王妃たちが並んでいる。


 マリア。


 ソフィア。


 クラリッサ。


 皆、美しく描かれていた。


 王妃らしい微笑み。


 夫への愛など、肖像画からは分からない。


「幸せそうには見えるね」


 レオンが言った。


「肖像画で不幸そうな顔を描かせる王妃はいません」


「確かに」


 私たちは歩く。


 そのとき。


「待って」


 レオンが止まった。


「何です」


「数」


「数?」


「絵の」


 私は振り返る。


 王妃の肖像画が並んでいる。


 一。


 二。


 三。


 十三。


「公式記録通りです」


「いや」


 レオンは壁の端を指した。


「ここ」


 大きな戦勝記念壁画。


 百年以上前に描かれたものだ。


 国王。


 将軍。


 神官。


 貴族。


 中央には当時の王族。


「何か?」


「王の右隣」


 私は近づいた。


 そこには不自然な空間がある。


 正確には、空間ではない。


 薄い金色の模様。


 他の部分と絵具の質感が違う。


「塗り直されています」


「だよね」


 レオンが壁へ顔を寄せる。


「誰かがいた?」


「可能性はあります」


 私は廊下の管理役を呼んだ。


「この壁画の修復記録は?」


 年配の管理官が首を傾げる。


「百二十年前の大修復以降、部分補修が数回ございます」


「この箇所は」


「確認いたします」


 数分後。


 古い台帳が運ばれてくる。


 私は記載を追った。


 七十八年前。


 亀裂修復。


 五十二年前。


 煤汚れ除去。


 しかし王の右隣に関する修復はない。


「正式な修復ではない」


 レオンが言う。


「誰かが勝手に塗った?」


「あるいは」


 私は壁画を見る。


「記録ごと消した」


 黒革の帳簿にあった三人の王妃。


 存在が消されている。


 もし、そのうち一人がここに描かれていたなら。


「絵具を剥がせますか」


 管理官が青ざめる。


「侯爵令嬢、その……国宝でございます」


「分かっています」


「勝手には――」


「私が許可する」


 レオンが言った。


「殿下!」


「責任は私が持つ。絵を傷つけるな。上塗りだけ調べてくれ」


「ですが」


「今すぐ」


 王太子命令には逆らえない。


 修復師が呼ばれた。


 私はその間、壁画を見つめ続けた。


「大胆ですね」


 私が言う。


「君に言われたくない」


「私は国宝を削れとは言っていません」


「言おうとしてた」


「否定はしません」


「ほら」


 修復師は慎重に上塗りを調べた。


 顔料の成分。


 層。


 年代。


「殿下」


 一時間後。


 小さな範囲だけ、金色の塗料が除かれた。


 その下から。


 青が現れた。


「ドレス?」


「さらにお願いします」


 少しずつ。


 金色が消える。


 肩。


 腕。


 長い髪。


 そして。


 女性の顔。


 若い。


 二十代前半だろうか。


 王の隣に立っている。


 頭には王冠。


 間違いない。


 王妃。


「名前は」


 絵の下部。


 人物名が書かれているはずだった。


 しかしそこだけ文字が削られている。


「……やっぱり消されてる」


 レオンが呟く。


 私は黒革の帳簿に載っていた三人の名前を思い出す。


 リディア。


 カトリーナ。


 エステル。


 どの女性かは分からない。


 けれど。


 彼女は確かに存在した。


 王の隣に。


 王妃として。


「この壁画は何年のものです」


 私は管理官に尋ねた。


「王国暦三百十二年でございます」


「百二十一年前」


「はい」


 制度創設と同じ時期。


「当時の国王は?」


「エドガー三世陛下です」


「妃は?」


 管理官が答える。


「公式には……」


 彼も気づいたらしい。


「陛下は生涯独身であったと」


 私とレオンは顔を見合わせた。


 生涯独身。


 なのに壁画では王妃が隣に立っている。


「エレナ」


「はい」


「最初の記憶献納制度って」


「エドガー三世の治世に制定されています」


 偶然とは思えない。


 そして思い出す。


 昨夜の帳簿。


 一番古い、存在しない王妃。


「リディア・エルディア」


 私が口にした。


「制度創設年に記憶を献納しています」


「じゃあ、この人が?」


「可能性は高いです」


 私は女性の肖像を見た。


 穏やかな顔。


 王の隣。


 けれど歴史上、いなかったことにされた。


「彼女について調べれば」


「制度の始まりが分かるかもしれない」


「はい」


     ◇


 その日の調査は、そこで終わるはずだった。


 しかし私は気になって、もう一度図書院へ戻った。


 レオンも当然のようについてきた。


「もう夜だよ」


「だから静かです」


「夕食は?」


「後で」


「その台詞、三時間前にも聞いた」


「殿下はお腹が空いたのですか」


「少し」


「先に戻って構いません」


「一人で君を残したら、朝までここにいるだろう?」


「それの何が問題です」


「全部」


 無視して、私はリディアという名前を検索した。


 王族名簿。


 宮廷記録。


 出生簿。


 何もない。


 徹底的に消されている。


「でも、人一人完全には消せません」


 私は言った。


「使用人の記録。買い物。手紙。何か残るはずです」


「百年以上前だよ」


「だからこそ、消し忘れもあります」


 古書の索引を追う。


 リディア。


 なし。


 リディア。


 なし。


 リディ――


「ありました」


「本当?」


 私は一冊の薄い本を引き抜いた。


 題名。


《王宮庭園植物記録》


「植物?」


「著者を」


 表紙を開く。


 そこに小さく記されていた。


《リディア・エルディア編》


 レオンが息を呑む。


「王妃の本?」


「おそらく」


 植物図鑑。


 王宮に咲く花についての説明。


 政治的価値などない。


 だから処分されなかったのだろう。


 頁をめくる。


 丁寧な文字。


 植物の特徴。


 開花時期。


 育て方。


 その途中。


 一枚の紙が挟まっていた。


「手紙?」


 いいえ。


 日記の切れ端のようだった。


 紙は茶色く変色している。


 私は慎重に広げた。


 最初の数行は植物について。


 そして最後。


 文章が変わる。


『エドガーは今日も眠れなかった』


 レオンの表情が引き締まる。


 私は続きを読む。


『あの人は、自分が王になる資格などないと言う』


『私は、血が人を王にするのではないと伝えた』


『それでも、あの人は恐れている』


『国民が真実を知れば、王国は再び二つに割れるだろう』


 私はそこで止まった。


「真実?」


「続き」


 レオンに促される。


『私は記憶を差し出すことに同意した』


『夫を忘れるためではない』


『愛していたことまで消えてしまうのは怖い』


『けれど、国民に知られてはならないものを、私の頭から消すためだ』


 部屋が静まり返った。


 私の指先が冷える。


「夫を忘れるためじゃない」


 レオンが言った。


「はい」


「制度は」


「最初から、夫への愛を消すためのものではなかった」


 さらに下。


 最後の一文。


 私は目で追う。


 そして。


 息を止めた。


「エレナ?」


 声が出なかった。


「何て書いてある?」


 私は紙を机に置いた。


「ご自分で」


 レオンが読む。


 顔から血の気が引いていく。


 そこに書かれていた。


『王家がもっとも恐れているのは反乱ではない』


『王が正統ではないと知られることだ』


 しばらく、誰も言葉を発しなかった。


 やがてレオンが椅子へ深く座る。


「これは」


「はい」


「今の王家の話につながる?」


「分かりません」


「エドガー三世が正統ではなかったなら、その子孫は」


 彼は続きを言わなかった。


 言う必要がない。


 現在の国王。


 そして王太子レオン。


 すべてエドガー三世の血統。


「殿下」


「何?」


「今日のところは、この紙の存在を誰にも知らせないでください」


「私が王になれないかもしれないのに?」


「だからです」


「君は冷静だね」


「そう見えるだけです」


「そう?」


 私は紙を畳んだ。


「今、とても怖いです」


 レオンが私を見る。


「あなたを忘れることも」


 声が震えそうになる。


「この国が何を隠しているのかも」


 私は彼を見る。


「でも一番怖いのは」


「何?」


「私たちが、このまま何も知らずに結婚していたかもしれないことです」


 二十九日後。


 私は彼を忘れていた。


 なぜ忘れなければならなかったのかも知らずに。


 そしてきっと。


 歴代王妃たちと同じように。


 王太子妃として微笑み続けた。


 夫を愛していたことすら知らないまま。


「エレナ」


「はい」


「調べよう」


 今度はレオンが言った。


「全部」


 私は頷いた。


「もちろんです」


「王家が何をしたのか」


「はい」


「王妃たちから何を奪ったのか」


「はい」


 レオンはリディアの紙を見る。


「そして、私たちが本当に結婚していいのか」


 その言葉だけは。


 胸の奥へ鋭く刺さった。


 結婚できるか、ではない。


 していいのか。


 もし王家そのものが嘘の上に立っているなら。


 もし私たちの婚姻が、その嘘を次の世代へ引き継ぐことになるなら。


 記憶を守るだけでは足りない。


 王国そのものを調べなければならない。


 私は紙の最後の一文をもう一度見た。


 王が正統ではない。


 百二十年前。


 一人の王妃が、その秘密を知った。


 そして記憶を差し出した。


 その後。


 彼女は歴史から消された。


 私たちが追っているのは、もう婚姻制度の秘密だけではなかった。


 王家の血そのものに触れる秘密だった。


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