第1章 婚姻契約書には、あなたを忘れろと書いてある
署名をすれば、私は彼の妻になる。
そして、彼のことを忘れる。
その二つが同じ意味だと知ったのは、結婚式の三十日前だった。
◇
「エレナ・アルヴェイン侯爵令嬢。こちらへ」
王宮大聖堂の中央に設けられた白い机を前に、私は一歩進んだ。
高い天井から降り注ぐ午前の光が、床一面の大理石を青白く輝かせている。
左右の長椅子には王族、貴族、各国の使節。
誰もが私を見ていた。
正確には、私と、その隣に立つ男を。
レオン・エルディア。
エルディア王国第一王子にして王太子。
そして一か月後には、私の夫になる人。
彼は正装用の濃紺の軍服を身につけていた。
胸には王太子を示す銀獅子の勲章。
いつもより髪をきっちりと撫でつけているせいで、幼いころから知っているはずの顔が、少し遠く見える。
「緊張している?」
周囲には聞こえないほど小さな声で、レオンが尋ねた。
「していません」
「そう」
「なぜ笑うのです」
「君は緊張すると、していないと言うから」
私は返事をしなかった。
十二歳のころ、初めて宮廷舞踏会へ出る前にも同じことを言われた。
あの日も私は「緊張していません」と答えた。
そして最初の一歩でドレスの裾を踏んだ。
転びかけた私を支えたのがレオンだった。
十三年も前のことなのに、まだ覚えている。
「両名、前へ」
大神官の声で、私は現実へ引き戻された。
今日行われるのは結婚式ではない。
婚姻契約の事前調印式。
エルディア王国では、王族の婚姻は一か月前に正式な契約を交わす。
領地。
継承。
財産。
婚姻後の権限。
そして――記憶献納。
貴族同士が婚姻する際には、夫婦のどちらかが「人生でもっとも大切な記憶」をひとつ王家に預ける。
百年以上続く習慣だ。
愛情だけで結ばれるのではなく、国家に対する責任を負う証。
そう教えられてきた。
私はその制度に疑問を抱いたことがない。
アルヴェイン侯爵家の娘として生まれた以上、義務とはそういうものだと思っていた。
「契約書を」
侍従が銀盆を運んでくる。
その上に置かれていた羊皮紙を、大神官が広げた。
細かな文字がびっしりと並んでいる。
私は昨夜までに全文を確認済みだった。
婚姻後、私は王太子妃となる。
公的行事ではレオンに次ぐ席次。
将来、彼が王位につけば王妃。
子が生まれれば、その子は王位継承権を得る。
問題はない。
大神官が読み上げる。
「王太子レオン・エルディアと、アルヴェイン侯爵家長女エレナ・アルヴェインは、王国法に基づき婚姻の意志を確認し――」
聞き慣れた文言が続く。
私は祭壇の向こうを見た。
国王陛下。
王妃。
そしてその隣。
銀髪の女性が、まっすぐこちらを見ている。
皇太后アデライド。
レオンの祖母。
七十歳近い今も王宮に絶大な影響力を持つ女性だ。
白銀の母。
国民はそう呼ぶ。
飢饉の際には自らの宝飾品を売り払い、戦争では負傷兵のために離宮を開放した。
政治家としても慈善家としても尊敬されている。
ただし、彼女は一度も私に笑いかけたことがない。
今日もそうだった。
「――続いて記憶献納の項目を確認する」
大神官の声が少し低くなる。
私は前を向いた。
ここからが本日の本題だ。
「王太子妃となる者は、王国記憶法第十二条に基づき、王家が指定する記憶を献納するものとする」
知っている。
母からも聞かされていた。
通常の貴族なら、自ら差し出す記憶を選べる。
幼いころの思い出。
初恋。
家族との時間。
しかし王太子妃だけは違う。
王家が指定する。
国政に深く関与する立場だからだ。
私は覚悟していた。
母との最後の会話かもしれない。
亡き父に抱かれた記憶かもしれない。
弟が生まれた日のことかもしれない。
どれを失っても苦しい。
けれど、それが王太子妃になるための代償なら受け入れる。
そう決めていた。
「エレナ・アルヴェイン」
「はい」
「右手を契約書の上へ」
手を置いた。
羊皮紙が冷たい。
「目を閉じなさい」
言われた通りにする。
大神官が祈祷文を唱え始めた。
古い言葉。
意味はほとんど分からない。
けれど何度も聞いたことがある。
婚姻契約書は、署名者の記憶と魔力に反応し、献納すべき記憶を文字として示す。
手のひらがかすかに熱くなった。
紙の下で何かが動いている。
「目を開けなさい」
私は瞼を上げた。
契約書の下部。
先ほどまで空白だった場所に銀色の文字が浮かんでいた。
私は最初、それを読み間違えたと思った。
もう一度読む。
それでも同じだった。
《王太子妃エレナ・アルヴェインが献納すべき記憶》
その下。
《王太子レオン・エルディアに関する全記憶》
一瞬、文字の意味が理解できなかった。
「……全、記憶?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
大聖堂がざわめく。
私は隣を見た。
レオンも契約書を見ていた。
顔から笑みが消えている。
「これはどういう意味です」
彼が大神官へ問う。
「記載の通りでございます」
「記載の意味を聞いている」
声は静かだった。
だからこそ怖かった。
レオンが怒っている。
子どものころから知っている私には分かる。
「エレナは、私に関するすべての記憶を差し出すというのか」
「はい」
「すべて、とは」
「殿下を認識する根拠となる記憶のすべてです」
私は息を吸った。
空気が喉に引っかかった。
「つまり……」
大神官ではなく、私はレオンを見ながら尋ねた。
「献納後、私は殿下を見ても、誰なのか分からないのですか」
「王太子であるという知識は残ります」
大神官が答えた。
「公的な情報は記憶献納の対象外です。ですが、ご本人との私的な記憶は失われます」
「私的な記憶」
「はい」
簡単な言葉だった。
けれど、その言葉の中に私の人生の半分が入っている。
七歳。
王宮の庭で迷子になった私を、レオンが見つけた。
九歳。
木から落ちて腕を折った彼に、私は毎日菓子を届けた。
十二歳。
舞踏会で転びそうになった私を支えてくれた。
十六歳。
私の母が亡くなった夜。
誰にも泣くところを見られたくなくて庭園へ逃げた私を、レオンだけが黙って隣に座っていた。
二十歳。
国境紛争から戻った彼が、一番最初に私の屋敷へ来た。
そして言った。
『無事だったと、君に最初に伝えたかった』
全部。
なくなる。
「それでは……」
私は契約書から目を離せなかった。
「私は殿下を知らない人になるのですね」
誰も答えない。
答えが必要ないからだ。
「この契約を停止する」
レオンが言った。
大聖堂の空気が動いた。
「殿下」
宰相が立ち上がる。
「王太子殿下。これは王国法に定められた――」
「知っている」
「調印式は各国使節も臨席しております。ここで中断すれば――」
「中断すると言った」
レオンは私の手首を取った。
羊皮紙から手を離させる。
「本日の調印は延期する」
ざわめきが大きくなった。
「レオン」
国王が息子を呼ぶ。
しかしレオンは振り返らない。
「異議のある者は後で聞く」
「殿下」
私は小声で言った。
「手を」
レオンが私の手首を掴んだままだった。
彼は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに手を離した。
「……すまない」
私は首を振る。
そのやり取りさえ、一か月後には消えているのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
◇
調印式は「契約文面再確認のため延期」と発表された。
そんな言葉で、列席者が納得するはずもない。
大聖堂から控室へ向かう途中、廊下の向こうから何人もの貴族の声が聞こえた。
「王太子妃が献納を拒んだらしい」
「まさか」
「婚約破棄か?」
私は歩みを止めなかった。
貴族の噂など、明日には尾ひれが三本ほど増える。
問題はそこではない。
「エレナ」
後ろからレオンが追いついた。
「少し話せる?」
「もちろんです」
案内されたのは、大聖堂の裏にある小さな応接室だった。
レオンが侍従たちを外へ出す。
扉が閉まる。
二人きりになった。
「座って」
「殿下が先に」
「今日くらい順番はどうでもいい」
私は素直に腰を下ろした。
レオンは向かいに座らず、窓辺に立った。
「知っていた?」
彼が尋ねる。
「何をです」
「王太子妃が、夫に関する記憶を求められることがあると」
「いいえ」
「私も知らなかった」
レオンは窓の外を見たまま言った。
「王太子なのに?」
「ああ」
「それは少し問題ですね」
私が言うと、彼はこちらを見た。
「怒らないの?」
「誰にです」
「王家に」
「まだ事情が分かりません」
「自分の人生を勝手に奪われるかもしれないのに?」
私は答えに迷った。
奪われる。
その表現を、自分では一度も使わなかった。
献納。
義務。
責任。
そういう言葉に置き換えてきた。
「王太子妃になる以上、ある程度の犠牲は――」
「やめて」
レオンが遮った。
「今日だけは、それを言わないでほしい」
「ですが」
「王太子妃ではなく、エレナの話をしている」
私は黙った。
レオンは昔から、時々こういうことをする。
自分でも見ないようにしている場所を、簡単に見つけてしまう。
「君は嫌じゃないのか」
「……嫌かどうかで決められることではありません」
「またそれだ」
「何です」
「責任」
レオンが苦く笑う。
「君はいつも、自分が何を望んでいるかを最後にする」
「侯爵家の娘ですから」
「それは答えになっていない」
「では、殿下はどうなのです」
思わず言い返した。
「王太子だからという理由で、何度自分の希望を諦めました?」
レオンが言葉を失う。
私は少しだけ溜飲が下がった。
「お互い様です」
「……確かに」
彼はようやく向かいの椅子へ座った。
「でも今回は違う」
「どこがです」
「君だけが失う」
その言葉で、胸の奥に小さな痛みが走った。
レオンは覚えている。
私だけが忘れる。
結婚した次の日。
私は隣で目覚めた男を、王太子だから知っている。
けれど、なぜその人を好きだったのかは知らない。
彼が何を食べるときに少しだけ眉を寄せるか。
笑うと左の頬に小さな窪みができること。
雷が苦手なくせに平気なふりをすること。
疲れているときほど他人に優しくなること。
全部、知らなくなる。
「殿下」
「うん」
「一つ聞いてもいいですか」
「何でも」
私は膝の上で手を組んだ。
「もし婚姻を行って、私があなたのことを忘れたら」
言葉にすると現実味が増した。
「殿下は、どうなさいますか」
レオンは少しも考えなかった。
「もう一度、君に好きになってもらう」
あまりにも即答だったので、私は瞬きをした。
「……簡単におっしゃいますね」
「難しい?」
「私、結構面倒な女ですよ」
「知ってる」
「愛想も良くありません」
「知ってる」
「殿下に対して遠慮もありません」
「それも知ってる」
「それなのに?」
「だからいいんじゃないかな」
レオンは笑った。
いつもの笑い方だった。
左の頬に、小さな窪みができる。
私はそれを見つめた。
この顔を忘れる。
そう思うと、急に怖くなった。
笑ってごまかせないほど。
「私が」
声が掠れた。
「もう一度あなたを好きになる保証なんてありません」
「うん」
「他の誰かを好きになるかもしれない」
「それは困るな」
「それでも?」
「それでも」
レオンは私を見る。
「君が私を忘れても、私まで君を忘れる必要はない」
息が止まりそうになった。
「だから、何度でも始めればいい」
そんな言葉を、優しいと思いたくなかった。
優しいと思ったら。
この人を失いたくないと認めなければならなくなる。
私は視線を落とした。
「三十日あります」
「え?」
「婚姻まで」
私は顔を上げた。
「延期できるのは今日だけでしょう」
「まあ……そうだろうね」
「なら、その三十日で調べましょう」
「何を?」
「なぜ私が、あなたに関する全記憶を献納しなければならないのか」
レオンの表情が変わった。
「制度の理由を?」
「はい」
「王家でも知らないことを?」
「知らないから調べるのです」
私は立ち上がった。
「王太子妃にだけ王家が記憶を指定できる。これは知っています」
「うん」
「しかし、なぜあなたに関するすべての記憶なのかは説明されていない」
「大神官は珍しくないと言った」
「だからこそです」
私は言った。
「珍しくないなら、前例があります」
◇
その日の午後。
私とレオンは王宮図書院の最上階にいた。
王族の婚姻記録が保管されている場所だ。
「本当に自分で調べるの?」
司書から渡された鍵束を持ちながら、レオンが言う。
「人に任せれば、噂になります」
「もう十分噂になってるけど」
「これ以上です」
扉を開ける。
冷えた空気。
紙と革と埃の匂い。
細長い部屋の両側に棚が並んでいる。
王族の出生。
婚姻。
死亡。
すべての記録。
「過去百二十年」
私は言った。
「記憶献納制度が始まったのは百二十年前です」
「よく覚えてるね」
「歴史の授業で習いました」
「私は寝てたかもしれない」
「でしょうね」
「否定してくれてもいいよ」
「事実は尊重します」
レオンが苦笑する。
私は棚から最初の記録簿を取り出した。
重い。
二人で机へ運ぶ。
最初の王太子妃。
次。
さらに次。
年月を追って確認する。
「ここです」
三冊目で見つけた。
《王太子妃マリア・エルディア》
献納記憶。
《夫アルベルトに関する全記憶》
私はレオンを見る。
「一人目」
次の記録。
《王太子妃ソフィア・エルディア》
《夫オスカーに関する全記憶》
「二人」
さらに。
三人。
四人。
五人。
途中、別の記憶を差し出した王妃もいた。
しかし大半は同じ。
「おかしい」
レオンが呟く。
日が傾き始めるころ、私たちは最後の帳簿を閉じた。
机の上には数字を書きつけた紙。
私は声に出した。
「過去百二十年間に王太子妃となった女性は十三人」
「うん」
「そのうち十一人が」
そこで言葉を切る。
何度確認しても数字は変わらない。
「夫である王太子に関する全記憶を献納しています」
レオンは長い間、何も言わなかった。
「王太子妃になれば夫を忘れる」
やがて彼が呟いた。
「それが百年以上続いている?」
「そういうことになります」
「そんな話、聞いたことがない」
「私もです」
「王家の中でも?」
「殿下が知らないなら、そうなのでしょう」
窓の外では夕焼けが王都を赤く染めている。
私は帳簿の十一人の名を見た。
十一人。
十一人の女性が。
結婚した日に、愛する夫を忘れた。
そして誰も、そのことを語らなかった。
「エレナ」
「はい」
「三十日で間に合うと思う?」
私は帳簿を閉じた。
「間に合わせます」
「どうやって」
「全部調べます」
「全部?」
「歴代王妃の記録。日記。書簡。侍女の証言。王宮法。記憶宮の管理記録」
私はレオンを見る。
「そして見つけます」
「何を?」
「私があなたを忘れなくて済む方法を」
レオンは少し驚いたあと、笑った。
「それは、君が私を忘れたくないという意味でいい?」
「調査に不要な確認です」
「エレナ」
「早く次の帳簿を持ってください」
私は立ち上がった。
耳が熱い。
レオンが笑っている。
「はいはい」
「笑わないでください」
「笑ってない」
「笑っています」
「嬉しいだけ」
無視した。
けれど。
次の棚へ向かいながら、私は初めてはっきり思った。
忘れたくない。
義務だからではない。
王太子妃になるからでもない。
私は、この人を忘れたくない。
だから調べる。
そのときだった。
「あれ?」
レオンが棚の一番下から、薄い黒革の帳簿を引き出した。
「どうしました?」
「これ、分類番号がない」
通常、王宮の記録にはすべて登録番号が振られている。
しかしその帳簿には何もない。
題名だけが銀で刻まれていた。
私は読み上げた。
「《王妃記憶献納目録》」
レオンが表紙を開く。
最初の頁。
名前。
献納年月日。
献納内容。
「正式記録とは別の台帳?」
「そのようですね」
私たちは頁をめくった。
一人。
二人。
三人。
歴代王妃の名前が続く。
「同じだ」
レオンが言う。
「十一人」
「待ってください」
私は頁を戻した。
指で数える。
一。
二。
十一。
そして。
「十二」
レオンの指が止まった。
「十三」
最後。
「十四」
私は先ほど作った一覧を見る。
王太子妃は十三人。
しかしこの帳簿には十四人。
「一人、多い」
レオンが言った。
「いいえ」
私は各名を公式記録と照合した。
名前を一つずつ確認する。
そして気づいた。
「違います」
「何が?」
「一人ではありません」
喉が乾く。
「公式記録に存在しない女性が」
私は帳簿を指さした。
「三人います」
レオンの表情から笑みが消えた。
私は最初の名前を読む。
リディア・エルディア。
王妃。
記憶献納済み。
しかし王国史に、その名の王妃は存在しない。
二人目も。
三人目も。
存在しない。
いや。
違う。
存在しないのではない。
記録から消されている。
私は黒革の帳簿に触れた。
冷たいはずの表紙が、妙に温かく感じられた。
「殿下」
「うん」
「どうやら」
私はゆっくり息を吸った。
「私たちは、忘れさせられた人だけを調べればいいわけではなさそうです」
レオンが黙って続きを待つ。
「この王国には」
帳簿に記された三人の名前を見る。
「存在そのものを、忘れさせられた王妃がいます」




