第11章 私は、愛する人を忘れない王妃になる
王都の北門に、八千の兵が到着した。
その日。
私は。
王妃になることを決めた。
◇
《総返還手続――最終段階》
白い帳簿に浮かんだ文字が。
ゆっくりと。
消えていく。
代わりに。
地下宮殿の至るところで。
光が生まれた。
一つ。
二つ。
百。
千。
数えることなどできない。
棚に並ぶ記憶瓶。
割れていないものも。
空になったものも。
すべてが。
淡く。
脈打つ。
「始まった」
ユリウスが呟いた。
王室術師が。
管理装置を確認する。
「第一段階、完了」
「次は」
レオン。
「本人確認です」
術師。
「王国全域へ」
「全域?」
「はい」
「王都だけではなく?」
「記憶を献納した本人が生存している場所すべてへ」
私は。
母の瓶を思い出した。
母は。
もういない。
だから。
戻らない。
でも。
生きている人には。
選択肢が返る。
思い出すか。
忘れたままでいるか。
「どんなふうに届くのです」
「恐らく」
術師が。
答えようとした。
そのとき。
私の目の前に。
小さな光が現れた。
「エレナ!」
レオンが。
反射的に私の腕を取る。
光は。
触れない。
ただ。
私の前で。
浮かんでいる。
そして。
文字。
《返還可能記憶 一件》
《王宮地下区画に関する幼少期記憶》
《返還済》
私は。
息を吐いた。
「私の記録です」
「じゃあ」
レオン。
「確認だけ?」
「はい」
光。
消える。
次。
ユリウスの前。
何も出ない。
「俺は奪われてないらしい」
「少し残念そうですね」
「こんな状況だと仲間外れ感が」
「ありません」
「はい」
そして。
レオンの前。
光が出た。
私は。
息を止める。
《返還可能記憶――なし》
当然。
彼は。
まだ献納していない。
光。
消える。
レオンが。
私を見る。
「まだ君を覚えてる」
「当然です」
「よかった」
「今、それを確認しますか」
「重要だから」
いつもの。
軽い言い方。
でも。
彼の手は。
私の腕を。
まだ握っていた。
◇
同じころ。
王国中で。
光が現れた。
◇
王都南区。
小さなパン屋。
六十代の女性の前。
《返還可能記憶 一件》
《十九歳時の婚約者に関する記憶》
女性は。
長い間。
光を見た。
「いらない」
そう言った。
夫がいる。
子どもがいる。
孫もいる。
「私は今の人生で十分」
光は。
消えた。
◇
西区。
元兵士。
片足を失った男。
《返還可能記憶 一件》
《北方戦線最終三日間》
男は。
震えた。
「戻してくれ」
光が。
胸へ。
入った。
男は。
叫んだ。
泣いた。
吐いた。
それでも。
最後には。
床へ座り。
「そうか」
呟いた。
「俺が」
顔を覆う。
「俺があいつを埋めたんだ」
忘れていた。
戦友の最後を。
取り戻した。
◇
王都中央区。
一人の母親。
《返還可能記憶 二件》
《第一子死亡に関する記憶》
《第二子出産前後の記憶》
女性は。
一時間。
選べなかった。
最後に。
夫の手を握り。
「一緒にいて」
と言った。
そして。
返還を選んだ。
◇
戻した人。
戻さなかった人。
迷う人。
選べない人。
誰かが。
決めるのではない。
本人が。
決める。
それだけのことを。
この国は。
百年以上。
許してこなかった。
◇
「北部軍、北門前に布陣!」
地下宮殿から地上へ戻った瞬間。
衛兵の声が飛んだ。
「攻撃は」
レオンが尋ねる。
「まだありません!」
「使者は?」
「先ほど到着しました!」
「要求書を」
差し出された。
レオン。
私。
ユリウス。
皇太后。
四人で読む。
《第一》
《記憶献納制度の即時廃止》
《第二》
《記憶保管施設の公開》
《第三》
《現王家による王位継承の一時停止》
《第四》
《アルフレッド第一王子生存に関する史料の公開》
最後。
《要求が受け入れられない場合》
《北部諸領は、王室への臣従義務を停止する》
「実質的な独立宣言」
ユリウス。
「あるいは」
私は言う。
「交渉要求です」
「八千人連れて?」
「交渉材料としては強力ですね」
「エレナ嬢、時々兄上より怖いよ」
「褒め言葉として」
「そこは兄上と同じなんだ」
レオンは。
要求書を。
もう一度読む。
「第三」
「王位継承停止」
「うん」
彼の目。
そこから離れない。
「これを受けたら」
ユリウス。
「兄上は王太子じゃなくなる可能性がある」
「分かってる」
「俺も」
「そうなる」
「父上も」
「王権そのものを再検討することになる」
皇太后。
「受け入れてはなりません」
即答だった。
「祖母上」
「第一、第二は構わない」
「第三は?」
「論外です」
「なぜ」
「八千の兵を連れてきた相手の要求で」
皇太后。
「王位を動かせば」
杖を鳴らす。
「今後、軍を持つ者が王を決める国になる」
私は。
反論できなかった。
「正しい」
ユリウスも言う。
「でも無視したら」
「戦争です」
私。
「ええ」
皇太后。
「なら戦えばいい」
「祖母上」
レオンの声が。
低くなる。
「八千です」
「王都守備軍は一万二千」
「数の話じゃない」
「王とは」
「その話はもう聞いた!」
レオンの声が。
響いた。
皇太后が。
止まる。
「祖父も」
レオン。
「同じように言ったんじゃないですか」
「……」
「国を守るため」
「……」
「反逆を許さないため」
「……」
「秩序のため」
拳。
握る。
「それで軍を動かした」
「レオン」
「私は」
彼が。
皇太后を見る。
「同じ王にはなりません」
◇
「ではどうするの」
皇太后。
「王都を明け渡す?」
「違います」
「王位を渡す?」
「違う」
「なら」
「話します」
「八千の兵と?」
「その指揮官と」
皇太后の目。
鋭くなる。
「ヴァルド・アーレンを王宮へ入れるつもり?」
「私が北門へ行きます」
「駄目です」
今度は。
私が即答した。
レオンが。
こちらを見る。
「エレナ」
「危険です」
「でも」
「却下です」
「また」
「今回は本気です」
「いつも本気だろ」
「では私も行きます」
「それはもっと駄目」
「なぜ」
「危険だから」
「今、殿下も同じことを言われました」
「私は王太子」
「私は」
言葉が。
止まる。
王太子妃。
まだ。
違う。
婚姻契約は。
調印されていない。
でも。
「私は」
もう一度。
言う。
「この問題の当事者です」
「エレナ」
「記憶制度を終わらせることに同意した」
「うん」
「王家の秘密を公開することにも」
「うん」
「そして」
彼を見る。
「あなたが王になるかどうかにも」
胸が。
少し。
痛む。
「無関係ではありません」
レオン。
しばらく。
私を見る。
「……分かった」
「本当に?」
「君、止めても来るだろうし」
「よくお分かりで」
「じゃあ条件」
「何です」
「私の隣から離れない」
「殿下も」
「何?」
「私の隣から離れないでください」
レオンが。
一瞬。
驚く。
そして。
「分かった」
笑った。
◇
北門。
午後三時。
城壁の上から。
見えた。
北部軍。
八千。
黒と深緑の旗。
中央。
金色の鳥。
「旧王家の紋章」
私は言った。
「隠す気ないね」
ユリウス。
「ユリウス殿下も来たのですか」
「兄上と未来の義姉だけ行かせるほど薄情じゃない」
「未来の」
「そこは今いいだろ」
レオンが。
少し赤くなる。
「なぜ殿下が照れるのです」
「君は平気なの」
「今は軍が八千人います」
「それもそう」
門。
開く。
王都側。
レオン。
私。
ユリウス。
護衛二十名。
北部側。
騎馬。
十名ほど。
中央。
男。
二十七歳。
黒髪。
北部騎士団の鎧。
胸には。
金翼鳥。
ヴァルド・アーレン。
「王太子殿下」
馬を降りる。
「ヴァルド」
二人。
対面。
「久しぶりですね」
「三年前の剣術大会以来か」
「殿下に負けたのは、今でも納得していません」
「二本先取だった」
「最後は足が滑りました」
「まだ言う?」
意外だった。
二人は。
知り合い。
それも。
ただの政治的関係ではない。
「その話をするために」
レオン。
「八千連れてきた?」
「まさか」
ヴァルドの目。
変わる。
「要求書は」
「読んだ」
「回答を」
「その前に」
レオン。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「自分が」
少し間。
「本来の王家の血筋だと知っているか」
沈黙。
北部の兵。
王都の兵。
空気が。
張る。
「知っています」
ヴァルド。
迷わなかった。
「いつから」
「十五歳」
「誰から」
「父から」
「証拠は」
「あります」
「なら」
レオン。
「王位が欲しい?」
私は。
ヴァルドを見る。
彼は。
少し。
笑った。
「その質問を」
「何」
「あなたから聞かれるとは思わなかった」
「答えて」
「いりません」
今度は。
こちら側が。
止まった。
「……何?」
ユリウス。
「王位はいらない」
ヴァルド。
「では」
私は尋ねる。
「なぜ王位継承停止を」
彼の目が。
私へ。
「アルヴェイン侯爵令嬢」
「はい」
「あなたが」
「何です」
「噂の婚約者」
「どういう噂です」
「王太子殿下を毎日働かせていると」
私はレオンを見る。
「私ではありません」
「分かってるよ」
こんな状況で。
なぜ。
「ヴァルド卿」
「失礼」
彼の顔が。
真剣になる。
「欲しいのは王位ではありません」
「では」
「王位を」
金翼鳥。
胸。
「血だけで決めることを」
一度。
「終わらせたい」
◇
「あなたがそれを言うのですか」
私は。
思わず尋ねた。
「旧王家の直系であるあなたが」
「だからです」
ヴァルド。
「我が家は百二十年」
「……」
「自分たちこそ正しい王家だと」
「……」
「子どもに教えてきた」
少し。
苦い笑み。
「十五歳の私も」
「王になりたいと?」
「思いました」
「でも今は?」
「血筋一つで」
彼は。
北部軍を見る。
「八千人の命令を受ける資格が私に生まれるなら」
次。
王都。
「同じ理屈で」
レオンを見る。
「あなたにも王になる資格がある」
「それは」
「矛盾している」
ヴァルド。
「だから」
「継承を止めろと」
「一度」
「……」
「国民に問い直すべきです」
「王を選挙で決める?」
ユリウス。
「今すぐそこまでとは言っていません」
「では」
「少なくとも」
ヴァルド。
「百二十年前の嘘を知った上で」
レオンを見る。
「それでもこの王家を選ぶのか」
「国民に」
「そうです」
私は。
レオンを見る。
彼も。
同じことを。
考えているようだった。
◇
「兵を引いてください」
私が言った。
「エレナ」
レオン。
「いいえ」
私は。
ヴァルドを見る。
「話をするなら」
「……」
「まず八千の兵を下げてください」
「それは」
「軍を王都へ向けた状態で国民に選べと言っても」
私は。
一歩前へ。
「それは選択ではありません」
ヴァルドの目。
細くなる。
「王家の人間になる方が」
「まだなっていません」
「失礼」
「それから」
「何でしょう」
「あなたは北部の民に選ばれて軍を率いていますか」
ヴァルド。
黙る。
「世襲の伯爵家」
「はい」
「世襲の騎士団長」
「はい」
「なら」
私は。
言う。
「血統を否定するなら、自分自身も例外にしないでください」
後ろ。
ユリウスが。
小さく。
「怖い」
と呟いた。
「聞こえています」
「すみません」
ヴァルド。
しばらく。
私を見る。
そして。
笑った。
「殿下」
レオンへ。
「この方と結婚するのですか」
「そのつもり」
「大変ですね」
「知ってる」
「二人とも」
私は睨む。
「失礼です」
ヴァルドは。
息を吐き。
後ろ。
北部軍を見る。
「軍を」
声を上げる。
「二里下げる!」
側近。
驚く。
「閣下!」
「聞こえなかったか!」
「しかし」
「攻城準備を解除!」
「ヴァルド様!」
「交渉中だ!」
命令。
伝わる。
旗。
動く。
北部軍。
少しずつ。
後退を始める。
「これで?」
ヴァルド。
私を見る。
「はい」
「では」
彼。
「王家も」
「分かっています」
レオンが。
答えた。
「秘密を公開する」
◇
その日の夕刻。
王宮前広場。
再び。
人が集まった。
昨日とは。
比べものにならない。
王都の民。
貴族。
兵士。
神官。
各国使節。
北部からの代表。
そして。
王族。
国王。
王妃。
皇太后。
レオン。
ユリウス。
私は。
本来。
そこへ立つ身分ではない。
でも。
レオンが。
「隣にいて」
と言った。
だから。
いた。
◇
最初に。
国王が。
前へ出た。
レオンの父。
フェルディナンド五世。
これまで。
この事件で。
公の場には。
ほとんど姿を見せていなかった。
顔。
疲れている。
「国民に」
声。
震えている。
「伝えなければならないことがある」
広場。
静か。
「我がエルディア王家は」
一度。
言葉が止まる。
皇太后。
息子を見る。
でも。
何も言わない。
「百二十年前」
国王。
「正統な第一王子アルフレッドが生存していたにもかかわらず」
ざわめき。
「第二王子エドガーが即位した」
声。
大きくなる。
「つまり」
国王。
「現在の王家の始まりには」
目を閉じる。
「不法な王位継承があった」
広場。
爆発したように。
声。
「本当なのか!」
「ではアーレン家が!」
「偽物の王家!」
「百二十年!」
衛兵。
動く。
レオンが。
止める。
「聞かせろ」
「殿下」
「言わせろ」
罵声。
全部。
受ける。
石。
今度は。
飛ばなかった。
でも。
言葉の方が。
痛い。
「そして」
国王。
続ける。
「王家は」
記憶制度。
「その事実を含む多数の秘密を」
「……」
「国民から」
声。
「奪った記憶の中へ」
「……」
「封じてきた」
広場。
静かになる。
「私は」
国王。
「それを知っていた」
レオンが。
父を見る。
「父上」
「お前には」
国王。
息子。
「教えなかった」
「……」
「王になった日に」
「……」
「教えるつもりだった」
レオン。
「そのとき私から誰かを忘れさせて?」
国王。
目を逸らす。
それが。
答え。
◇
「私は」
国王。
王冠へ。
手を置いた。
「今日をもって」
広場。
止まる。
「王権の一時停止を宣言する」
皇太后。
「陛下」
初めて。
声を上げた。
「母上」
「それは」
「もういい」
国王が。
自分の母を見る。
「私は」
苦く。
笑った。
「あなたほど強くない」
「……」
「この王冠を」
外す。
「正しいと思い続けられるほど」
両手に。
持つ。
「強くなかった」
壇上。
置いた。
王冠。
小さな。
金属。
なのに。
百二十年。
人の人生を。
動かした。
「正式な統治体制を決めるまで」
国王。
「王国議会、各領代表、王室による臨時評議会を設置する」
ざわめき。
「次代の王についても」
レオンを見る。
「血統のみでは決めない」
レオン。
何も言わない。
「レオン」
「はい」
「お前が」
父。
「自分で話せ」
◇
レオンが。
前へ出る。
私は。
背中を見る。
大丈夫。
そう言おうかと思った。
でも。
言わなかった。
これは。
彼自身の言葉で。
話すべきこと。
「私は」
レオン。
「王になるために育てられた」
広場。
静か。
「物心がつく前から」
少し。
笑う。
「多分、歩き方より先に」
何人か。
小さく笑う。
「王は」
続ける。
「誰より公平で」
「……」
「誰より冷静で」
「……」
「国を」
「……」
「自分より優先しなければならないと教えられた」
一度。
私を見る。
「そのために」
声。
少し。
低くなる。
「最も愛する人を忘れる制度があることを」
広場。
ざわつく。
「私は最近まで知らなかった」
「誰を!」
民衆から。
声。
「殿下は誰を忘れる予定だった!」
レオン。
止まる。
私。
嫌な予感。
「答えなくていいです」
小声。
「聞こえてる」
「答えないでください」
「でも」
「今は必要ありません」
「私は必要」
「レオン」
遅かった。
「多分」
彼は。
広場へ。
言った。
「彼女だ」
一斉に。
視線。
私。
「……」
逃げたい。
ものすごく。
「エレナ・アルヴェイン」
名前まで。
「レオン」
私は。
笑顔で。
小声。
「あとで覚えていてください」
「怖い」
「当然です」
広場。
不思議な。
空気。
怒り。
緊張。
その中に。
少し。
人間らしい。
ざわめき。
レオンが。
再び前を見る。
「私は」
真剣な声。
「彼女を忘れたくない」
胸。
鳴る。
「でも」
続ける。
「彼女のために王国を捨てることも」
私を見る。
「彼女に拒絶された」
なぜ。
そこまで。
言う。
「だから」
レオン。
「私は」
王冠を見る。
「第三の道を選びたい」
「第三?」
誰か。
「愛する人を」
レオン。
「覚えたまま」
一度。
息を吸う。
「国を裏切らない王になる」
◇
広場。
静まり返る。
「そんな保証があるのか!」
男。
叫ぶ。
「ない」
レオン。
即答。
「祖父は暴君だった!」
「知っている」
「お前も同じになるかもしれない!」
「そうだ」
「なら!」
「だから」
レオン。
声を張る。
「王を一人で決めさせない仕組みを作る」
議会。
領主。
裁判所。
軍。
王室。
権限を。
分ける。
「王が」
レオン。
「愛する一人のために軍を動かそうとしたなら」
「……」
「止められる国にする」
「……」
「王が」
「……」
「自分が正しいと思い込んだなら」
私は。
前国王の言葉を思う。
「国民が」
レオン。
「違うと言える国にする」
皇太后。
目を閉じた。
「そして」
レオン。
王冠。
「それでも」
広場を見る。
「私を王にする価値があると」
「……」
「この国が選ぶなら」
言った。
「私は王になる」
「……」
「選ばないなら」
一瞬。
私を見る。
笑う。
「それでも私は生きる」
その笑顔。
初めて。
王太子ではない。
レオン。
その人自身の。
顔に見えた。
◇
「私は反対です」
声。
皇太后。
前へ。
「祖母上」
「あなたは」
レオンを見る。
「理想を語っている」
「はい」
「国は理想だけでは動かない」
「知っています」
「人間は」
「はい」
「間違える」
「知っています」
「愛すれば」
「はい」
「判断を誤る」
「それも」
レオン。
「知っています」
「ならなぜ」
「忘れれば」
レオン。
祖母を見る。
「間違えないのですか」
皇太后。
止まる。
「祖母上は」
「……」
「祖父を忘れた」
「……」
「それでも」
母の瓶。
私。
「私の母から娘を奪った」
皇太后の顔。
わずかに。
歪む。
「祖母上が悪人だからじゃない」
「……」
「正しいと思ったから」
「……」
「愛を忘れても」
レオン。
「人は間違える」
広場。
静か。
「なら」
彼。
「人間から愛を奪うより」
「……」
「間違えたときに止められる仕組みを作るべきだった」
皇太后は。
何も言わなかった。
◇
私は。
気づくと。
一歩。
前へ出ていた。
「エレナ?」
レオン。
私自身。
なぜ。
動いたのか。
分からない。
でも。
言わなければ。
いけないと思った。
「私は」
広場。
何千人。
全部。
こちらを見る。
「エレナ・アルヴェインです」
知っている。
でも。
言う。
「二十二日前まで」
婚姻契約。
「王太子妃になることが」
当然だった。
「私の人生だと思っていました」
侯爵令嬢。
婚約者。
王太子妃。
王妃。
「そのためなら」
声。
少し。
震える。
「何かを失うのも当然だと思っていました」
母。
私。
「母に愛されるためには」
完璧な娘になる。
「いい娘でなければならないと思った」
記憶。
「王太子妃になるなら」
レオンを見る。
「愛する人を忘れても仕方がないと思った」
胸。
痛い。
「王国のためなら」
「……」
「自分を失っても」
「……」
「それが責任だと思っていました」
皇太后。
私を見る。
「でも」
私は。
言う。
「違いました」
「……」
「誰かのために」
声。
強くなる。
「自分の人生を差し出すことだけが責任ではありません」
レオン。
目。
揺れる。
「愛する人に」
「……」
「私のために人生を捨ててもらうことも」
彼。
小さく。
苦笑。
「愛ではありません」
広場のどこかで。
女性。
泣いている。
「私は」
息を吸う。
「レオン殿下を愛しています」
言った。
今度は。
私の方が。
言った。
広場。
ざわめく。
レオン。
完全に。
固まった。
「エレナ」
「何です」
「今」
「話しかけないでください」
「でも」
「後で」
「はい」
顔。
熱い。
死にたい。
でも。
続ける。
「だから」
私は。
広場を見る。
「忘れません」
「……」
「王妃になるために」
胸へ。
手を置く。
「愛する人を忘れろと言う国なら」
「……」
「そんな国の方を」
一度。
息。
「変えます」
◇
誰も。
拍手しなかった。
最初は。
当然。
そんな。
綺麗に。
終わる話ではない。
「簡単に言うな!」
声。
民衆。
「制度を変えたら戦争がなくなるのか!」
「なりません」
私は答える。
「王が暴君にならない保証は!」
「ありません」
「なら!」
「だから」
私は。
レオンが言ったことを。
続ける。
「王だけに任せません」
「……」
「王妃にも」
自分を。
含める。
「一人で正しいことを決める権利を持たせない」
皇太后。
私を見る。
「私が間違えば」
言う。
「止めてください」
民衆。
「王が間違えば」
「……」
「王も止める」
ユリウスが。
横で。
「それ王妃が言って大丈夫?」
「まだ王妃ではありません」
「そこ?」
少し。
笑い。
広場から。
ほんのわずか。
生まれた。
◇
そして。
白い光が。
皇太后の前へ。
現れた。
誰も。
動けなくなった。
《返還可能記憶 一件》
皇太后。
文字を見る。
《夫アルベルト二世に関する全記憶》
広場。
この表示が。
他人に見えるのか。
私には分からない。
でも。
皇太后の顔で。
何かが。
起きていることは。
皆。
分かった。
《返還しますか》
皇太后。
動かない。
「祖母上」
レオン。
「……」
「選べます」
皇太后。
目を閉じる。
「四十年」
小さな。
声。
「私は」
誰に話すでもなく。
「この問いから逃げてきた」
「……」
「返さないと」
言い続けた。
「……」
「必要ないと」
「……」
「あの人を」
杖。
握る。
「愛していた自分など」
少し。
笑う。
「もう死んだのだと」
私は。
何も言わない。
選ぶのは。
彼女。
「でも」
皇太后。
私を見る。
「あなたの母親を見て」
「……」
「少し」
声。
震える。
「怖くなった」
「何がです」
「私も」
目。
光。
「同じだったのではないかと」
「……」
「忘れたから」
「……」
「正しくなったのではなく」
皇太后。
「忘れたから」
一滴。
涙。
私は。
初めて見た。
「残酷になれただけなのではないかと」
光。
待っている。
返す。
返さない。
皇太后は。
手を伸ばした。
でも。
途中で。
止める。
「今日は」
言った。
「選びません」
光。
消えない。
《保留》
それだけ。
表示。
残る。
「それでいいのです」
私が言った。
皇太后。
私を見る。
「選ばないことも」
「……」
「今は」
私は。
少し笑う。
「選択です」
皇太后は。
長い間。
私を見る。
そして。
ほんの少し。
頭を下げた。
◇
北部軍は。
その夜。
王都を攻撃しなかった。
王都側も。
軍を出さなかった。
ヴァルド・アーレンは。
北部代表として。
臨時評議会への参加を受け入れた。
王位を。
要求しなかった。
国王は。
正式に。
統治権の一部を。
議会へ移管した。
記憶献納制度。
即日停止。
新規献納。
禁止。
返還。
本人選択。
地下宮殿。
管理権を。
王家単独から。
王国議会。
司法府。
市民代表。
共同管理へ。
そして。
三日後。
白い帳簿の最後の頁に。
新しい文字が。
浮かんだ。
《記憶保全制度》
《国家強制権――失効》
私は。
その文字を。
何度も見た。
「本当に終わった」
隣。
レオン。
「はい」
「君は」
私を見る。
「私を忘れない?」
「今のところ」
「今のところ?」
「明日のことは分かりません」
「怖いこと言うね」
「人間ですから」
「それもそう」
地下宮殿。
静か。
もう。
新しい瓶は。
増えない。
◇
「エレナ」
「はい」
「聞きたいことがあります」
「何でしょう」
妙に。
かしこまっている。
「さっき」
「さっき?」
「広場で」
嫌な予感。
「何を」
「私を」
「忘れてください」
「まだ最後まで言ってない」
「その記憶だけ献納できませんか」
「制度終わったよ」
「では別の方法で」
「愛してるって」
「レオン」
逃げる。
でも。
腕。
掴まれた。
「言った」
「公的発言です」
「どういう公務?」
「国民への説明」
「愛してるが?」
「必要でした」
「じゃあ」
彼。
私の前へ。
「私的には?」
「……」
「エレナ」
「近いです」
「逃げるから」
「逃げていません」
「してる」
レオン。
笑う。
左の頬。
小さな。
窪み。
私は。
それを見る。
忘れない。
もう。
誰かに。
奪われない。
「愛しています」
今度は。
小さく。
言った。
レオン。
動かなくなる。
「聞こえました?」
「……もう一回」
「嫌です」
「お願い」
「一度で十分です」
「広場と合わせて二回」
「数えないでください」
「一生覚える」
私は。
思わず。
笑った。
「では」
「うん」
「覚えていてください」
「もちろん」
レオンの手。
私の頬へ。
触れそうになって。
止まる。
「触れても?」
「なぜ今さら聞くのです」
「選ぶ権利」
私は。
黙った。
そして。
少し。
顔を寄せた。
「はい」
彼の手が。
頬に触れる。
温かい。
これも。
私の記憶になる。
誰にも。
渡さない。
◇
「でも」
私は言った。
「まだ一つ問題があります」
「何?」
「私は王妃ではありません」
「そこ?」
「重要です」
「婚姻契約は」
「調印延期中」
「制度はなくなった」
「だからこそ」
私は。
彼を見る。
「もう一度」
「何を」
「最初から」
婚姻。
契約。
王太子だから。
侯爵令嬢だから。
国のためだから。
そうではなく。
「私が」
言う。
「自分で選びたいです」
レオンの表情。
柔らかくなる。
「分かった」
「それから」
「まだある?」
「あります」
「何」
「あなたも」
「うん」
「王だからではなく」
私は。
言う。
「あなた自身で」
「……」
「私を選んでください」
彼は。
少し。
笑う。
「それなら」
「何です」
「もうずっと前から」
近づく。
「選んでる」
◇
王になる者は。
一番愛する人を忘れる。
百年以上。
それが。
この国の正しさだった。
でも。
正しいことは。
変えられないことではない。
人が作ったものなら。
人が。
選び直せる。
私は。
愛する人を忘れない。
そして。
彼のためだけに。
国を曲げる王妃にもならない。
彼が間違えば。
止める。
私が間違えば。
止めてもらう。
愛しているから。
正しいとは限らない。
王だから。
正しいとも限らない。
だから。
一人で決めない。
それが。
私たちが。
百二十年の記憶の果てに。
ようやく見つけた。
新しい王国の始まりだった。
そして。
その夜。
王宮の婚姻管理局へ。
一通の申請書が提出された。
《王太子レオン・エルディア》
《アルヴェイン侯爵令嬢エレナ・アルヴェイン》
《婚姻契約再調印申請》
献納欄。
そこには。
初めて。
何も書かれていなかった。




