第12章 何度でもではなく、ずっとあなたを愛したい
人は。
忘れたものを。
すべて取り戻さなくても。
生きていける。
でも。
忘れなくてもいいものまで。
奪われる必要はない。
◇
記憶献納制度が廃止されてから。
三か月が過ぎた。
「エレナ様」
「はい」
「こちらへ署名を」
王宮地下。
かつて《記憶宮》と呼ばれていた場所。
今。
入口には。
新しい銘板が掛かっている。
《王立記憶公文館》
王立。
とは名についているものの。
管理するのは。
王家だけではない。
王国議会。
司法府。
各領代表。
市民代表。
そして。
記憶を預けられた当事者たち。
七名からなる管理委員会。
王族には。
勝手に記憶を閲覧する権限はない。
王太子であっても。
「面倒になったね」
私の隣で。
レオンが書類を見ながら言った。
「良いことです」
「自分の王宮の地下に入るのに申請書三枚」
「正確には、公文館です」
「はい」
「それに」
私は。
彼の書類を見る。
「二枚目です」
「三枚ある」
「一枚は同行者申請」
「やっぱり三枚」
「嫌なら戻ってください」
「嫌です」
即答。
「エレナと一緒に入る」
「では署名を」
「はい」
彼が。
渋々。
羽根ペンを取る。
「王太子って、もう少し偉いものだと思ってた」
「偉いですよ」
「そう?」
「だからこそ」
私は言う。
「勝手にできないのです」
レオンが。
一瞬。
こちらを見る。
そして。
笑った。
「うん」
「何です」
「それ」
「何が」
「好きだなと思って」
「書類の話をしています」
「知ってる」
「なら書いてください」
「はい」
◇
地下宮殿は。
変わった。
無数の記憶瓶は。
まだ残っている。
でも。
新しい瓶は。
もう増えない。
記憶返還を希望した人の棚には。
《返還済》
の札。
返還を望まなかった人には。
《本人希望により保管継続》
そして。
迷っている人には。
《保留》
それだけ。
誰も。
急かさない。
正しい答えを。
王家が決めることもない。
「今日で」
管理官が。
記録を見ながら言った。
「返還希望者は二千七百十二名になりました」
「保留は?」
「千九百三名」
「保管継続は」
「八百四十一名です」
私は頷く。
数だけ見れば。
結果に見える。
でも。
一つ一つ。
人生だ。
思い出す人。
思い出さない人。
昨日は保留して。
今日、返してほしいと言う人。
一度返還を選びかけて。
やめる人。
それでいい。
「死者の記憶は?」
「閲覧継承指定が確認できたものから、ご遺族へ連絡しています」
「無指定のものは?」
「永久封印の方向で議会へ」
「廃棄ではなく?」
「はい」
私は。
少し。
安心した。
死者が。
誰にも見せたくなかった記憶まで。
《真実のため》
という理由で。
暴く必要はない。
知る権利。
知られない権利。
思い出す権利。
忘れたままでいる権利。
どれも。
同じように。
必要なのだと。
この三か月で。
何度も。
議論した。
「エレナ」
レオンが呼ぶ。
「はい」
彼は。
一つの棚の前にいた。
《アメリア・アルヴェイン》
母。
私は。
ゆっくり近づく。
「今日」
レオンが言う。
「これを見るために来たんだよね」
「はい」
母の記憶。
私が生まれてから五歳になるまで。
その一部は。
もう見た。
でも。
すべてではない。
公文館から。
正式に。
通知が届いた。
《故アメリア・アルヴェイン夫人の記憶について》
《生前指定に基づき、長女エレナ・アルヴェインへの閲覧継承権を確認》
見る。
見ない。
選べる。
私は。
三日迷った。
「まだ」
レオン。
「やめてもいいよ」
「はい」
「今日じゃなくても」
「分かっています」
「一人で見てもいい」
「それも」
私は。
彼を見る。
「分かっています」
「じゃあ」
「一緒にいてください」
言うと。
レオンは。
すぐに。
「うん」
と答えた。
◇
閲覧装置へ。
母の瓶を置く。
《閲覧継承者》
《エレナ・アルヴェイン》
《閲覧しますか》
私は。
手を置く。
「はい」
◇
春。
侯爵邸の庭。
幼い私。
三歳くらい。
花を摘んでいる。
『お母様!』
走る。
『見て!』
母。
若い。
『まあ』
『きれいでしょう』
『ええ』
『お母様にあげる』
『私に?』
『はい!』
母は。
花を受け取る。
そして。
私の髪へ。
一本。
差す。
『半分こね』
幼い私は。
笑う。
『お母様もつけて』
『私も?』
『おそろい』
母が。
困ったように。
でも。
嬉しそうに。
自分の髪にも。
花を差す。
『これでいい?』
『きれい!』
母。
笑う。
記憶。
変わる。
◇
夜。
雷。
私は。
母のベッドへ。
潜り込んでいる。
『怖くないです』
『そう』
『雷なんて』
『ええ』
大きな音。
私は。
母へ。
しがみつく。
母。
笑う。
『怖くないのね』
『……少しだけです』
『では』
抱きしめる。
『少しだけ、ここにいましょう』
◇
次。
誕生日。
母が。
私へ。
小さな本を渡す。
『これは?』
『日記帳』
『何を書くの?』
『何でも』
『何でも?』
『嬉しかったこと』
『はい』
『腹が立ったこと』
『はい』
『悲しかったこと』
『はい』
『誰にも言いたくないこと』
私は。
首を傾げる。
『お母様にも?』
母。
少し。
考えて。
『ええ』
『どうして?』
『エレナの心は』
私の胸を。
指で。
軽く触れる。
『エレナのものだから』
光。
揺れる。
◇
私は。
目を開いた。
頬が。
濡れていた。
「エレナ」
「はい」
「大丈夫?」
「……はい」
今度は。
少し。
笑えた。
「大丈夫です」
母が。
私へ教えていた。
心は。
自分のものだと。
その母から。
国が。
記憶を奪った。
皮肉。
でも。
だからこそ。
母は。
最後に。
私へ鍵を残したのかもしれない。
「母は」
私は言った。
「ちゃんと私に教えていました」
「何を」
「自分の心は」
胸へ。
手を置く。
「自分で持っていていいと」
レオンが。
静かに。
頷く。
「忘れていたのは」
私は。
母の瓶を見る。
「私の方だったのかもしれません」
◇
母の記憶瓶は。
公文館へ残した。
「持ち帰らないの?」
レオンが聞いた。
「はい」
「どうして」
「全部見る必要はないと思いました」
「……うん」
「母にも」
私は。
棚を見る。
「私に見られたくない記憶くらいあるでしょう」
「それはあるかもね」
「母親だからといって」
少し。
笑う。
「娘に全部知られる義務はありません」
「エレナ」
「何です」
「強くなったね」
「以前は弱かったように聞こえます」
「そうじゃない」
「では」
「前は」
レオンが。
言葉を探す。
「耐えることを強さだと思ってた」
私は。
黙る。
確かに。
「今は?」
「選ぶことを」
彼。
笑う。
「強さだと思ってる」
「誰がです」
「私が」
「なら」
「うん」
「悪くありません」
「評価が厳しい」
◇
王宮地上へ戻ると。
ユリウスが。
廊下で待っていた。
「遅い」
「殿下」
「二時間待った」
「待っていてくれとは」
「兄上に頼まれた」
私は。
レオンを見る。
「何です」
「いや」
「何かありますね」
「何も」
「あります」
「エレナ嬢」
ユリウス。
にやにや。
「兄上、本当にこの人に隠し事できると思ってたの?」
「一応」
「無理だろ」
「ユリウス」
「俺は何も言ってない」
「もう言っています」
私は。
二人を見る。
「何です」
レオン。
観念したように。
「明日のこと」
「明日?」
「臨時評議会」
「ああ」
三か月続いた。
新統治体制の議論。
明日。
最終案が採決される。
「何か問題が?」
「それが」
ユリウス。
「兄上の王位」
私は。
止まった。
◇
臨時評議会が。
三か月かけて作った案。
王権は。
大幅に縮小。
徴税。
宣戦。
大規模な軍事行動。
貴族の処罰。
これらを。
国王一人では。
決定できない。
王国議会の承認。
司法府の審査。
必要。
そして。
王位継承。
血統は。
資格条件の一つ。
絶対ではない。
即位時。
議会。
各領代表。
市民代表による。
信任。
必要。
「明日」
レオン。
「私の信任投票もやる」
「もう?」
「暫定王太子のままにしておけないから」
「国王陛下は」
「正式に退位する」
私は。
息を吸う。
レオンの父。
フェルディナンド五世。
あの日から。
公務の大半を。
臨時評議会へ移していた。
「では」
「明日」
レオン。
「王になるかもしれない」
「……」
「ならないかもしれない」
以前なら。
私は。
不安だっただろう。
王太子妃になる。
王妃になる。
それを。
自分の人生の。
決められた道だと思っていたから。
でも。
「そうですか」
私は言った。
「それだけ?」
「はい」
「緊張しない?」
「しています」
「見えない」
「殿下も」
「私はしてる」
「分かります」
「なぜ」
「朝から同じ書類を三回落としました」
「見てた?」
「はい」
ユリウス。
笑う。
「兄上」
「何だ」
「王に選ばれなくても」
「うん」
「俺に押しつけないでね」
「安心しろ」
「本当?」
「お前も信任が必要だから」
「あ」
ユリウス。
本気で嫌そうな顔。
「この制度、嫌いかも」
「今さらです」
◇
翌日。
王国議会。
旧貴族院を。
改装した大広間。
王族。
貴族。
各領。
市民。
商人。
農民。
神官。
学者。
これまで。
同じ場所で。
王を論じることのなかった人々。
その前に。
レオンが立った。
私は。
傍聴席。
今日は。
隣にはいない。
これは。
彼の信任。
私が。
王妃になるための投票ではない。
だから。
離れて見る。
「レオン・エルディア」
議長。
「あなたは」
「はい」
「王として信任された場合」
「はい」
「新王国憲章を遵守しますか」
「誓います」
「王権の制限を受け入れますか」
「受け入れます」
「議会の決定に反した場合」
「司法審査を受け入れます」
「王位を」
一度。
「国民から委ねられる職責と認めますか」
レオン。
少し。
間。
「はい」
「血統によって」
議長。
「当然に所有するものではないと」
「認めます」
皇太后。
傍聴席。
静かに。
孫を見る。
ヴァルド・アーレン。
北部代表席。
腕を組んでいる。
ユリウス。
なぜか。
眠そう。
私は。
レオンを見る。
投票。
始まる。
◇
結果。
信任。
七割強。
圧倒的。
とは。
言えない。
反対票も。
多い。
旧王家。
簒奪。
記憶制度。
王家そのものへの。
不信。
全部。
残っている。
でも。
「信任多数」
議長。
「レオン・エルディアを」
静寂。
「次代国王として承認する」
拍手。
始めは。
小さく。
次第に。
大きく。
私は。
息を吐いた。
レオン。
私を探す。
目。
合う。
彼が。
少し。
笑った。
私も。
笑った。
◇
その夜。
「おめでとうございます」
王宮庭園。
私は言った。
「ありがとう」
「陛下」
レオン。
ものすごく。
嫌そうな顔。
「やめて」
「国王陛下」
「エレナ」
「何です」
「二人のときはレオン」
「王としての自覚が」
「あります」
「なら」
「名前で呼んで」
私は。
少し。
笑う。
「レオン」
「うん」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
彼。
息を吐く。
「怖いな」
「何がです」
「王になる」
「今さら?」
「決まったからこそ」
月。
庭。
風。
「祖父みたいに」
レオン。
「ならないかな」
「なる可能性はあります」
「そこは否定して」
「嫌です」
「やっぱり」
「でも」
私は。
彼の前へ。
「なったら」
「うん」
「引きずり下ろします」
「本当に?」
「はい」
「王を?」
「必要なら」
レオン。
笑う。
「安心した」
「普通は不安になるところです」
「君が王妃なら」
「まだ違います」
「あ」
彼。
止まる。
「そうだった」
「そうです」
「じゃあ」
レオン。
急に。
真剣な顔。
「話がある」
「何でしょう」
「婚姻契約」
私は。
彼を見る。
「再調印申請」
「受理されました」
「日程も」
「五日後です」
「そうじゃなくて」
彼。
少し。
困る。
「その前に」
「はい」
「確認したい」
「何を」
レオン。
私を見る。
「君は」
静かに。
「本当に私と結婚したい?」
私は。
すぐには。
答えなかった。
前なら。
迷わなかった。
王太子との婚約。
家が決めた。
国が決めた。
だから。
結婚する。
でも。
今。
違う。
「はい」
私は答えた。
「したいです」
レオンの。
肩。
少し。
緩む。
「王妃になるからではなく」
「はい」
「私が王だからでも」
「はい」
「侯爵家のためでも」
「はい」
「本当に?」
「何度聞くのです」
「怖いから」
私は。
笑った。
「では」
「うん」
「私も確認します」
「何」
「あなたは」
彼を見る。
「本当に私と結婚したいですか」
「したい」
早い。
「少しは考えてください」
「十三年考えた」
「そんなに?」
「もっとかも」
「私は知りませんでした」
「君は鈍いから」
「取り消しても?」
「駄目です」
◇
五日後。
王宮大聖堂。
最初の日と。
同じ場所。
白い机。
羊皮紙。
大神官。
列席者。
でも。
違う。
最初は。
王太子と。
侯爵令嬢。
今日は。
新国王と。
一人の女性。
私は。
白い机の前へ。
進む。
「緊張している?」
レオン。
小声。
「していません」
「してるね」
「殿下」
「レオン」
「今は式典中です」
「じゃあ陛下?」
「嫌です」
「難しいな」
大神官が。
咳払い。
「両名」
「はい」
「はい」
婚姻契約書。
新しいもの。
記憶献納条項。
ない。
代わりに。
新しい一文。
《婚姻に際し、両名の人格、記憶、意思を国家はいかなる理由によっても所有しない》
私は。
その文章を。
ゆっくり読む。
百二十年。
かかった。
たった。
一文。
「署名を」
大神官。
私は。
羽根ペンを取る。
そのとき。
レオンが。
小さな声。
「エレナ」
「何です」
「最初の日のこと覚えてる?」
「忘れる予定だった日のことですか」
「そう」
「覚えています」
「私」
彼。
少し。
笑う。
「何て言った?」
「もう一度、私に好きになってもらう」
「その前」
「私があなたを忘れたらどうするか」
「うん」
「何度でも始めればいい、と」
「覚えてる」
「私が?」
「いや」
レオン。
「私が」
「……」
「忘れてたら怖いだろ」
私は。
笑った。
「では」
ペンを置く。
「一つ」
「何?」
「お願いがあります」
「何でも」
「その約束」
「うん」
「取り消してください」
レオンの。
表情。
止まる。
「……何で?」
「必要ありません」
「でも」
「私は」
彼を見る。
大聖堂。
何百人。
でも。
今は。
この人だけ。
「忘れることを前提に」
言う。
「あなたを愛したくありません」
レオン。
何も言わない。
「何度でも」
「……」
「ではなく」
私は。
少し。
笑う。
「ずっと」
そして。
はっきり。
「あなたを愛したいです」
レオンの。
左の頬。
小さな。
窪み。
できる。
「それ」
声が。
少し。
掠れる。
「反則じゃない?」
「何がです」
「人がいるのに」
「以前」
私は言う。
「広場で私の名前まで出した人に言われたくありません」
「まだ怒ってる?」
「少し」
「一生?」
「覚えていたら」
言って。
笑う。
「覚えています」
もう。
誰にも。
奪われない。
「じゃあ」
レオン。
「約束を変える」
「どう変えます」
「君が忘れたら」
「忘れません」
「例えばだよ」
「縁起が悪いです」
「じゃあ」
彼。
考える。
「何度でも恋をさせる、はやめる」
「はい」
「その代わり」
「はい」
「何度でも」
一度。
言葉を。
選び直す。
「今日の君を好きになる」
私は。
少し。
目を瞬いた。
「昨日の記憶があるからじゃなく?」
「うん」
「昔から知っているからでも?」
「うん」
「婚約者だからでも」
「違う」
「妻だからでも?」
「違う」
レオン。
「その日の君を」
笑う。
「毎日」
私は。
羽根ペンを。
もう一度。
取った。
「それなら」
「うん」
「許可します」
「ありがとうございます」
◇
署名。
《エレナ・アルヴェイン》
次。
《レオン・エルディア》
大神官。
契約書を確認。
「婚姻契約」
一度。
私たちを見る。
「正式に成立しました」
拍手。
鐘。
大聖堂。
鳴り響く。
私は。
契約書を見る。
献納欄。
ない。
空白ですら。
ない。
最初から。
人の記憶を。
差し出す場所など。
作られていない。
◇
式のあと。
皇太后アデライドが。
私を呼び止めた。
「エレナ」
「皇太后陛下」
「もう」
彼女。
少し。
眉を上げる。
「アデライドでいいわ」
「それは難しいです」
「あなたなら言えると思ったのに」
「努力します」
「そう」
以前より。
少し。
柔らかい。
彼女は。
王宮政治から。
退いた。
新議会にも。
席を持っていない。
本人の希望。
「ご出席いただき」
「当然です」
彼女。
私を見る。
「少し」
「何です」
「羨ましかった」
「私が?」
「ええ」
大聖堂。
レオン。
人々に。
囲まれている。
「私には」
アデライド。
「こういう婚礼があったのか」
「……」
「思い出せないから」
胸が。
少し。
痛む。
「返還は」
「まだ保留です」
「はい」
「でも」
彼女。
言う。
「今日」
私を見る。
「決めました」
「何を」
「明日」
一度。
息を吸う。
「返してもらいます」
私は。
何も言わなかった。
「怖いわ」
「はい」
「夫を愛したこと」
「……」
「夫を憎んだこと」
「……」
「閉じ込めたこと」
「……」
「死んだこと」
全部。
戻る。
「四十年分」
彼女。
苦く笑う。
「泣くかもしれない」
「泣いていいと思います」
「あなたは」
「はい」
「すぐそういうことを言うようになったわね」
「以前は言えませんでした」
「そう」
アデライド。
少し。
微笑む。
「なら」
「はい」
「明日」
初めて。
弱い声。
「そばにいてくれる?」
私は。
答えた。
「もちろんです」
◇
翌日。
アデライドは。
夫の記憶を。
取り戻した。
私は。
少し離れたところにいた。
レオンも。
彼女の手を。
握っていた。
返還。
光。
長い時間。
彼女は。
動かなかった。
そして。
目を開けた。
「おばあ様」
レオン。
アデライド。
彼を見る。
でも。
すぐには。
答えない。
一滴。
涙。
次。
また。
涙。
四十年。
泣かなかったのではない。
泣く理由を。
忘れていた。
「……あの人」
声。
崩れる。
「本当に」
笑う。
泣きながら。
「どうしようもない男だったわ」
レオン。
少し。
笑う。
「そうですか」
「ええ」
「嫌いでした?」
アデライド。
目を閉じる。
「最後には」
長い。
沈黙。
「憎んだ」
「……」
「でも」
胸へ。
手を置く。
「愛していた」
泣く。
「本当に」
声。
震える。
「愛していた」
誰も。
何も言わなかった。
その記憶は。
良いものだけではない。
苦しい。
醜い。
後悔。
罪。
全部。
それでも。
彼女が。
自分で。
取り戻すと選んだ。
なら。
その涙も。
彼女のものだ。
◇
さらに半年後。
王国は。
まだ。
混乱している。
制度を。
一つ。
壊しただけで。
すべて。
良くなるわけではない。
議会では。
毎日のように。
喧嘩。
北部は。
もっと自治権を寄越せと言う。
南部は。
北部だけ優遇するなと言う。
商人は。
税を下げろ。
軍は。
予算を増やせ。
市民は。
王宮費を削れ。
「前より大変じゃない?」
執務室。
レオンが。
書類の山を見る。
「そうですね」
「王の権限減ったのに」
「仕事は増えましたね」
「何で?」
「話を聞く相手が増えたからでしょう」
「昔の王」
レオン。
「楽だったんだな」
「勝手に決められましたから」
「羨ましい」
「レオン」
「冗談です」
「本当に?」
「半分」
「陛下」
「やめて」
「国王陛下」
「怖い」
私は。
笑う。
隣の机。
私にも。
書類。
王妃になって。
半年。
でも。
レオンの補佐。
だけではない。
記憶公文館。
教育改革。
王族権限監査。
自分で。
選んだ仕事。
「エレナ」
「はい」
「今日」
「何です」
「結婚半年」
「覚えています」
「よかった」
「何が」
「忘れてない」
私は。
ペンを置く。
「まだ言いますか」
「たまに確認したくなる」
「では」
「うん」
「私も確認します」
「何を」
「あなたは」
彼を見る。
「今日も私を好きですか」
レオン。
笑う。
「好きです」
「即答ですね」
「毎日だから」
「では」
「うん」
私は。
少し。
笑う。
「私もです」
◇
忘れたものを。
全部。
取り戻す必要はない。
過去を。
すべて。
知る必要もない。
知らないまま。
生きることを。
選ぶ人もいる。
思い出すことを。
選ぶ人もいる。
大切なのは。
誰かが。
その選択を。
奪わないこと。
母は。
私を愛していた。
私は。
母に愛されていた。
その事実を。
もう。
証明するために。
完璧な娘になる必要はない。
そして。
私は。
レオンを愛している。
その愛を。
証明するために。
記憶を差し出す必要も。
人生を捨てる必要もない。
私たちは。
忘れなかった。
奇跡ではない。
愛が。
記憶より強かったからでもない。
ただ。
忘れなくてもいい世界を。
自分たちで。
選び直した。
だから。
何度でも。
ではない。
今日も。
明日も。
その次の日も。
私は。
この人を。
自分の意志で。
愛していく。
ずっと。




