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結婚すると、あなたは私を忘れる――記憶を納める王国の契約令嬢  作者: swingout777


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12/12

第12章 何度でもではなく、ずっとあなたを愛したい

 人は。


 忘れたものを。


 すべて取り戻さなくても。


 生きていける。


 でも。


 忘れなくてもいいものまで。


 奪われる必要はない。


     ◇


 記憶献納制度が廃止されてから。


 三か月が過ぎた。


「エレナ様」


「はい」


「こちらへ署名を」


 王宮地下。


 かつて《記憶宮》と呼ばれていた場所。


 今。


 入口には。


 新しい銘板が掛かっている。


《王立記憶公文館》


 王立。


 とは名についているものの。


 管理するのは。


 王家だけではない。


 王国議会。


 司法府。


 各領代表。


 市民代表。


 そして。


 記憶を預けられた当事者たち。


 七名からなる管理委員会。


 王族には。


 勝手に記憶を閲覧する権限はない。


 王太子であっても。


「面倒になったね」


 私の隣で。


 レオンが書類を見ながら言った。


「良いことです」


「自分の王宮の地下に入るのに申請書三枚」


「正確には、公文館です」


「はい」


「それに」


 私は。


 彼の書類を見る。


「二枚目です」


「三枚ある」


「一枚は同行者申請」


「やっぱり三枚」


「嫌なら戻ってください」


「嫌です」


 即答。


「エレナと一緒に入る」


「では署名を」


「はい」


 彼が。


 渋々。


 羽根ペンを取る。


「王太子って、もう少し偉いものだと思ってた」


「偉いですよ」


「そう?」


「だからこそ」


 私は言う。


「勝手にできないのです」


 レオンが。


 一瞬。


 こちらを見る。


 そして。


 笑った。


「うん」


「何です」


「それ」


「何が」


「好きだなと思って」


「書類の話をしています」


「知ってる」


「なら書いてください」


「はい」


     ◇


 地下宮殿は。


 変わった。


 無数の記憶瓶は。


 まだ残っている。


 でも。


 新しい瓶は。


 もう増えない。


 記憶返還を希望した人の棚には。


《返還済》


 の札。


 返還を望まなかった人には。


《本人希望により保管継続》


 そして。


 迷っている人には。


《保留》


 それだけ。


 誰も。


 急かさない。


 正しい答えを。


 王家が決めることもない。


「今日で」


 管理官が。


 記録を見ながら言った。


「返還希望者は二千七百十二名になりました」


「保留は?」


「千九百三名」


「保管継続は」


「八百四十一名です」


 私は頷く。


 数だけ見れば。


 結果に見える。


 でも。


 一つ一つ。


 人生だ。


 思い出す人。


 思い出さない人。


 昨日は保留して。


 今日、返してほしいと言う人。


 一度返還を選びかけて。


 やめる人。


 それでいい。


「死者の記憶は?」


「閲覧継承指定が確認できたものから、ご遺族へ連絡しています」


「無指定のものは?」


「永久封印の方向で議会へ」


「廃棄ではなく?」


「はい」


 私は。


 少し。


 安心した。


 死者が。


 誰にも見せたくなかった記憶まで。


《真実のため》


 という理由で。


 暴く必要はない。


 知る権利。


 知られない権利。


 思い出す権利。


 忘れたままでいる権利。


 どれも。


 同じように。


 必要なのだと。


 この三か月で。


 何度も。


 議論した。


「エレナ」


 レオンが呼ぶ。


「はい」


 彼は。


 一つの棚の前にいた。


《アメリア・アルヴェイン》


 母。


 私は。


 ゆっくり近づく。


「今日」


 レオンが言う。


「これを見るために来たんだよね」


「はい」


 母の記憶。


 私が生まれてから五歳になるまで。


 その一部は。


 もう見た。


 でも。


 すべてではない。


 公文館から。


 正式に。


 通知が届いた。


《故アメリア・アルヴェイン夫人の記憶について》


《生前指定に基づき、長女エレナ・アルヴェインへの閲覧継承権を確認》


 見る。


 見ない。


 選べる。


 私は。


 三日迷った。


「まだ」


 レオン。


「やめてもいいよ」


「はい」


「今日じゃなくても」


「分かっています」


「一人で見てもいい」


「それも」


 私は。


 彼を見る。


「分かっています」


「じゃあ」


「一緒にいてください」


 言うと。


 レオンは。


 すぐに。


「うん」


 と答えた。


     ◇


 閲覧装置へ。


 母の瓶を置く。


《閲覧継承者》


《エレナ・アルヴェイン》


《閲覧しますか》


 私は。


 手を置く。


「はい」


     ◇


 春。


 侯爵邸の庭。


 幼い私。


 三歳くらい。


 花を摘んでいる。


『お母様!』


 走る。


『見て!』


 母。


 若い。


『まあ』


『きれいでしょう』


『ええ』


『お母様にあげる』


『私に?』


『はい!』


 母は。


 花を受け取る。


 そして。


 私の髪へ。


 一本。


 差す。


『半分こね』


 幼い私は。


 笑う。


『お母様もつけて』


『私も?』


『おそろい』


 母が。


 困ったように。


 でも。


 嬉しそうに。


 自分の髪にも。


 花を差す。


『これでいい?』


『きれい!』


 母。


 笑う。


 記憶。


 変わる。


     ◇


 夜。


 雷。


 私は。


 母のベッドへ。


 潜り込んでいる。


『怖くないです』


『そう』


『雷なんて』


『ええ』


 大きな音。


 私は。


 母へ。


 しがみつく。


 母。


 笑う。


『怖くないのね』


『……少しだけです』


『では』


 抱きしめる。


『少しだけ、ここにいましょう』


     ◇


 次。


 誕生日。


 母が。


 私へ。


 小さな本を渡す。


『これは?』


『日記帳』


『何を書くの?』


『何でも』


『何でも?』


『嬉しかったこと』


『はい』


『腹が立ったこと』


『はい』


『悲しかったこと』


『はい』


『誰にも言いたくないこと』


 私は。


 首を傾げる。


『お母様にも?』


 母。


 少し。


 考えて。


『ええ』


『どうして?』


『エレナの心は』


 私の胸を。


 指で。


 軽く触れる。


『エレナのものだから』


 光。


 揺れる。


     ◇


 私は。


 目を開いた。


 頬が。


 濡れていた。


「エレナ」


「はい」


「大丈夫?」


「……はい」


 今度は。


 少し。


 笑えた。


「大丈夫です」


 母が。


 私へ教えていた。


 心は。


 自分のものだと。


 その母から。


 国が。


 記憶を奪った。


 皮肉。


 でも。


 だからこそ。


 母は。


 最後に。


 私へ鍵を残したのかもしれない。


「母は」


 私は言った。


「ちゃんと私に教えていました」


「何を」


「自分の心は」


 胸へ。


 手を置く。


「自分で持っていていいと」


 レオンが。


 静かに。


 頷く。


「忘れていたのは」


 私は。


 母の瓶を見る。


「私の方だったのかもしれません」


     ◇


 母の記憶瓶は。


 公文館へ残した。


「持ち帰らないの?」


 レオンが聞いた。


「はい」


「どうして」


「全部見る必要はないと思いました」


「……うん」


「母にも」


 私は。


 棚を見る。


「私に見られたくない記憶くらいあるでしょう」


「それはあるかもね」


「母親だからといって」


 少し。


 笑う。


「娘に全部知られる義務はありません」


「エレナ」


「何です」


「強くなったね」


「以前は弱かったように聞こえます」


「そうじゃない」


「では」


「前は」


 レオンが。


 言葉を探す。


「耐えることを強さだと思ってた」


 私は。


 黙る。


 確かに。


「今は?」


「選ぶことを」


 彼。


 笑う。


「強さだと思ってる」


「誰がです」


「私が」


「なら」


「うん」


「悪くありません」


「評価が厳しい」


     ◇


 王宮地上へ戻ると。


 ユリウスが。


 廊下で待っていた。


「遅い」


「殿下」


「二時間待った」


「待っていてくれとは」


「兄上に頼まれた」


 私は。


 レオンを見る。


「何です」


「いや」


「何かありますね」


「何も」


「あります」


「エレナ嬢」


 ユリウス。


 にやにや。


「兄上、本当にこの人に隠し事できると思ってたの?」


「一応」


「無理だろ」


「ユリウス」


「俺は何も言ってない」


「もう言っています」


 私は。


 二人を見る。


「何です」


 レオン。


 観念したように。


「明日のこと」


「明日?」


「臨時評議会」


「ああ」


 三か月続いた。


 新統治体制の議論。


 明日。


 最終案が採決される。


「何か問題が?」


「それが」


 ユリウス。


「兄上の王位」


 私は。


 止まった。


     ◇


 臨時評議会が。


 三か月かけて作った案。


 王権は。


 大幅に縮小。


 徴税。


 宣戦。


 大規模な軍事行動。


 貴族の処罰。


 これらを。


 国王一人では。


 決定できない。


 王国議会の承認。


 司法府の審査。


 必要。


 そして。


 王位継承。


 血統は。


 資格条件の一つ。


 絶対ではない。


 即位時。


 議会。


 各領代表。


 市民代表による。


 信任。


 必要。


「明日」


 レオン。


「私の信任投票もやる」


「もう?」


「暫定王太子のままにしておけないから」


「国王陛下は」


「正式に退位する」


 私は。


 息を吸う。


 レオンの父。


 フェルディナンド五世。


 あの日から。


 公務の大半を。


 臨時評議会へ移していた。


「では」


「明日」


 レオン。


「王になるかもしれない」


「……」


「ならないかもしれない」


 以前なら。


 私は。


 不安だっただろう。


 王太子妃になる。


 王妃になる。


 それを。


 自分の人生の。


 決められた道だと思っていたから。


 でも。


「そうですか」


 私は言った。


「それだけ?」


「はい」


「緊張しない?」


「しています」


「見えない」


「殿下も」


「私はしてる」


「分かります」


「なぜ」


「朝から同じ書類を三回落としました」


「見てた?」


「はい」


 ユリウス。


 笑う。


「兄上」


「何だ」


「王に選ばれなくても」


「うん」


「俺に押しつけないでね」


「安心しろ」


「本当?」


「お前も信任が必要だから」


「あ」


 ユリウス。


 本気で嫌そうな顔。


「この制度、嫌いかも」


「今さらです」


     ◇


 翌日。


 王国議会。


 旧貴族院を。


 改装した大広間。


 王族。


 貴族。


 各領。


 市民。


 商人。


 農民。


 神官。


 学者。


 これまで。


 同じ場所で。


 王を論じることのなかった人々。


 その前に。


 レオンが立った。


 私は。


 傍聴席。


 今日は。


 隣にはいない。


 これは。


 彼の信任。


 私が。


 王妃になるための投票ではない。


 だから。


 離れて見る。


「レオン・エルディア」


 議長。


「あなたは」


「はい」


「王として信任された場合」


「はい」


「新王国憲章を遵守しますか」


「誓います」


「王権の制限を受け入れますか」


「受け入れます」


「議会の決定に反した場合」


「司法審査を受け入れます」


「王位を」


 一度。


「国民から委ねられる職責と認めますか」


 レオン。


 少し。


 間。


「はい」


「血統によって」


 議長。


「当然に所有するものではないと」


「認めます」


 皇太后。


 傍聴席。


 静かに。


 孫を見る。


 ヴァルド・アーレン。


 北部代表席。


 腕を組んでいる。


 ユリウス。


 なぜか。


 眠そう。


 私は。


 レオンを見る。


 投票。


 始まる。


     ◇


 結果。


 信任。


 七割強。


 圧倒的。


 とは。


 言えない。


 反対票も。


 多い。


 旧王家。


 簒奪。


 記憶制度。


 王家そのものへの。


 不信。


 全部。


 残っている。


 でも。


「信任多数」


 議長。


「レオン・エルディアを」


 静寂。


「次代国王として承認する」


 拍手。


 始めは。


 小さく。


 次第に。


 大きく。


 私は。


 息を吐いた。


 レオン。


 私を探す。


 目。


 合う。


 彼が。


 少し。


 笑った。


 私も。


 笑った。


     ◇


 その夜。


「おめでとうございます」


 王宮庭園。


 私は言った。


「ありがとう」


「陛下」


 レオン。


 ものすごく。


 嫌そうな顔。


「やめて」


「国王陛下」


「エレナ」


「何です」


「二人のときはレオン」


「王としての自覚が」


「あります」


「なら」


「名前で呼んで」


 私は。


 少し。


 笑う。


「レオン」


「うん」


「おめでとうございます」


「ありがとう」


 彼。


 息を吐く。


「怖いな」


「何がです」


「王になる」


「今さら?」


「決まったからこそ」


 月。


 庭。


 風。


「祖父みたいに」


 レオン。


「ならないかな」


「なる可能性はあります」


「そこは否定して」


「嫌です」


「やっぱり」


「でも」


 私は。


 彼の前へ。


「なったら」


「うん」


「引きずり下ろします」


「本当に?」


「はい」


「王を?」


「必要なら」


 レオン。


 笑う。


「安心した」


「普通は不安になるところです」


「君が王妃なら」


「まだ違います」


「あ」


 彼。


 止まる。


「そうだった」


「そうです」


「じゃあ」


 レオン。


 急に。


 真剣な顔。


「話がある」


「何でしょう」


「婚姻契約」


 私は。


 彼を見る。


「再調印申請」


「受理されました」


「日程も」


「五日後です」


「そうじゃなくて」


 彼。


 少し。


 困る。


「その前に」


「はい」


「確認したい」


「何を」


 レオン。


 私を見る。


「君は」


 静かに。


「本当に私と結婚したい?」


 私は。


 すぐには。


 答えなかった。


 前なら。


 迷わなかった。


 王太子との婚約。


 家が決めた。


 国が決めた。


 だから。


 結婚する。


 でも。


 今。


 違う。


「はい」


 私は答えた。


「したいです」


 レオンの。


 肩。


 少し。


 緩む。


「王妃になるからではなく」


「はい」


「私が王だからでも」


「はい」


「侯爵家のためでも」


「はい」


「本当に?」


「何度聞くのです」


「怖いから」


 私は。


 笑った。


「では」


「うん」


「私も確認します」


「何」


「あなたは」


 彼を見る。


「本当に私と結婚したいですか」


「したい」


 早い。


「少しは考えてください」


「十三年考えた」


「そんなに?」


「もっとかも」


「私は知りませんでした」


「君は鈍いから」


「取り消しても?」


「駄目です」


     ◇


 五日後。


 王宮大聖堂。


 最初の日と。


 同じ場所。


 白い机。


 羊皮紙。


 大神官。


 列席者。


 でも。


 違う。


 最初は。


 王太子と。


 侯爵令嬢。


 今日は。


 新国王と。


 一人の女性。


 私は。


 白い机の前へ。


 進む。


「緊張している?」


 レオン。


 小声。


「していません」


「してるね」


「殿下」


「レオン」


「今は式典中です」


「じゃあ陛下?」


「嫌です」


「難しいな」


 大神官が。


 咳払い。


「両名」


「はい」


「はい」


 婚姻契約書。


 新しいもの。


 記憶献納条項。


 ない。


 代わりに。


 新しい一文。


《婚姻に際し、両名の人格、記憶、意思を国家はいかなる理由によっても所有しない》


 私は。


 その文章を。


 ゆっくり読む。


 百二十年。


 かかった。


 たった。


 一文。


「署名を」


 大神官。


 私は。


 羽根ペンを取る。


 そのとき。


 レオンが。


 小さな声。


「エレナ」


「何です」


「最初の日のこと覚えてる?」


「忘れる予定だった日のことですか」


「そう」


「覚えています」


「私」


 彼。


 少し。


 笑う。


「何て言った?」


「もう一度、私に好きになってもらう」


「その前」


「私があなたを忘れたらどうするか」


「うん」


「何度でも始めればいい、と」


「覚えてる」


「私が?」


「いや」


 レオン。


「私が」


「……」


「忘れてたら怖いだろ」


 私は。


 笑った。


「では」


 ペンを置く。


「一つ」


「何?」


「お願いがあります」


「何でも」


「その約束」


「うん」


「取り消してください」


 レオンの。


 表情。


 止まる。


「……何で?」


「必要ありません」


「でも」


「私は」


 彼を見る。


 大聖堂。


 何百人。


 でも。


 今は。


 この人だけ。


「忘れることを前提に」


 言う。


「あなたを愛したくありません」


 レオン。


 何も言わない。


「何度でも」


「……」


「ではなく」


 私は。


 少し。


 笑う。


「ずっと」


 そして。


 はっきり。


「あなたを愛したいです」


 レオンの。


 左の頬。


 小さな。


 窪み。


 できる。


「それ」


 声が。


 少し。


 掠れる。


「反則じゃない?」


「何がです」


「人がいるのに」


「以前」


 私は言う。


「広場で私の名前まで出した人に言われたくありません」


「まだ怒ってる?」


「少し」


「一生?」


「覚えていたら」


 言って。


 笑う。


「覚えています」


 もう。


 誰にも。


 奪われない。


「じゃあ」


 レオン。


「約束を変える」


「どう変えます」


「君が忘れたら」


「忘れません」


「例えばだよ」


「縁起が悪いです」


「じゃあ」


 彼。


 考える。


「何度でも恋をさせる、はやめる」


「はい」


「その代わり」


「はい」


「何度でも」


 一度。


 言葉を。


 選び直す。


「今日の君を好きになる」


 私は。


 少し。


 目を瞬いた。


「昨日の記憶があるからじゃなく?」


「うん」


「昔から知っているからでも?」


「うん」


「婚約者だからでも」


「違う」


「妻だからでも?」


「違う」


 レオン。


「その日の君を」


 笑う。


「毎日」


 私は。


 羽根ペンを。


 もう一度。


 取った。


「それなら」


「うん」


「許可します」


「ありがとうございます」


     ◇


 署名。


《エレナ・アルヴェイン》


 次。


《レオン・エルディア》


 大神官。


 契約書を確認。


「婚姻契約」


 一度。


 私たちを見る。


「正式に成立しました」


 拍手。


 鐘。


 大聖堂。


 鳴り響く。


 私は。


 契約書を見る。


 献納欄。


 ない。


 空白ですら。


 ない。


 最初から。


 人の記憶を。


 差し出す場所など。


 作られていない。


     ◇


 式のあと。


 皇太后アデライドが。


 私を呼び止めた。


「エレナ」


「皇太后陛下」


「もう」


 彼女。


 少し。


 眉を上げる。


「アデライドでいいわ」


「それは難しいです」


「あなたなら言えると思ったのに」


「努力します」


「そう」


 以前より。


 少し。


 柔らかい。


 彼女は。


 王宮政治から。


 退いた。


 新議会にも。


 席を持っていない。


 本人の希望。


「ご出席いただき」


「当然です」


 彼女。


 私を見る。


「少し」


「何です」


「羨ましかった」


「私が?」


「ええ」


 大聖堂。


 レオン。


 人々に。


 囲まれている。


「私には」


 アデライド。


「こういう婚礼があったのか」


「……」


「思い出せないから」


 胸が。


 少し。


 痛む。


「返還は」


「まだ保留です」


「はい」


「でも」


 彼女。


 言う。


「今日」


 私を見る。


「決めました」


「何を」


「明日」


 一度。


 息を吸う。


「返してもらいます」


 私は。


 何も言わなかった。


「怖いわ」


「はい」


「夫を愛したこと」


「……」


「夫を憎んだこと」


「……」


「閉じ込めたこと」


「……」


「死んだこと」


 全部。


 戻る。


「四十年分」


 彼女。


 苦く笑う。


「泣くかもしれない」


「泣いていいと思います」


「あなたは」


「はい」


「すぐそういうことを言うようになったわね」


「以前は言えませんでした」


「そう」


 アデライド。


 少し。


 微笑む。


「なら」


「はい」


「明日」


 初めて。


 弱い声。


「そばにいてくれる?」


 私は。


 答えた。


「もちろんです」


     ◇


 翌日。


 アデライドは。


 夫の記憶を。


 取り戻した。


 私は。


 少し離れたところにいた。


 レオンも。


 彼女の手を。


 握っていた。


 返還。


 光。


 長い時間。


 彼女は。


 動かなかった。


 そして。


 目を開けた。


「おばあ様」


 レオン。


 アデライド。


 彼を見る。


 でも。


 すぐには。


 答えない。


 一滴。


 涙。


 次。


 また。


 涙。


 四十年。


 泣かなかったのではない。


 泣く理由を。


 忘れていた。


「……あの人」


 声。


 崩れる。


「本当に」


 笑う。


 泣きながら。


「どうしようもない男だったわ」


 レオン。


 少し。


 笑う。


「そうですか」


「ええ」


「嫌いでした?」


 アデライド。


 目を閉じる。


「最後には」


 長い。


 沈黙。


「憎んだ」


「……」


「でも」


 胸へ。


 手を置く。


「愛していた」


 泣く。


「本当に」


 声。


 震える。


「愛していた」


 誰も。


 何も言わなかった。


 その記憶は。


 良いものだけではない。


 苦しい。


 醜い。


 後悔。


 罪。


 全部。


 それでも。


 彼女が。


 自分で。


 取り戻すと選んだ。


 なら。


 その涙も。


 彼女のものだ。


     ◇


 さらに半年後。


 王国は。


 まだ。


 混乱している。


 制度を。


 一つ。


 壊しただけで。


 すべて。


 良くなるわけではない。


 議会では。


 毎日のように。


 喧嘩。


 北部は。


 もっと自治権を寄越せと言う。


 南部は。


 北部だけ優遇するなと言う。


 商人は。


 税を下げろ。


 軍は。


 予算を増やせ。


 市民は。


 王宮費を削れ。


「前より大変じゃない?」


 執務室。


 レオンが。


 書類の山を見る。


「そうですね」


「王の権限減ったのに」


「仕事は増えましたね」


「何で?」


「話を聞く相手が増えたからでしょう」


「昔の王」


 レオン。


「楽だったんだな」


「勝手に決められましたから」


「羨ましい」


「レオン」


「冗談です」


「本当に?」


「半分」


「陛下」


「やめて」


「国王陛下」


「怖い」


 私は。


 笑う。


 隣の机。


 私にも。


 書類。


 王妃になって。


 半年。


 でも。


 レオンの補佐。


 だけではない。


 記憶公文館。


 教育改革。


 王族権限監査。


 自分で。


 選んだ仕事。


「エレナ」


「はい」


「今日」


「何です」


「結婚半年」


「覚えています」


「よかった」


「何が」


「忘れてない」


 私は。


 ペンを置く。


「まだ言いますか」


「たまに確認したくなる」


「では」


「うん」


「私も確認します」


「何を」


「あなたは」


 彼を見る。


「今日も私を好きですか」


 レオン。


 笑う。


「好きです」


「即答ですね」


「毎日だから」


「では」


「うん」


 私は。


 少し。


 笑う。


「私もです」


     ◇


 忘れたものを。


 全部。


 取り戻す必要はない。


 過去を。


 すべて。


 知る必要もない。


 知らないまま。


 生きることを。


 選ぶ人もいる。


 思い出すことを。


 選ぶ人もいる。


 大切なのは。


 誰かが。


 その選択を。


 奪わないこと。


 母は。


 私を愛していた。


 私は。


 母に愛されていた。


 その事実を。


 もう。


 証明するために。


 完璧な娘になる必要はない。


 そして。


 私は。


 レオンを愛している。


 その愛を。


 証明するために。


 記憶を差し出す必要も。


 人生を捨てる必要もない。


 私たちは。


 忘れなかった。


 奇跡ではない。


 愛が。


 記憶より強かったからでもない。


 ただ。


 忘れなくてもいい世界を。


 自分たちで。


 選び直した。


 だから。


 何度でも。


 ではない。


 今日も。


 明日も。


 その次の日も。


 私は。


 この人を。


 自分の意志で。


 愛していく。


 ずっと。


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